−逆さ吊りの神− |
声の主は、見たこともない子供だった。 コナンよりやや年上の、十歳くらいの男の子だ。黒い髪と黒い目を見るに、おそらく東洋人だろう。 だが、不自然なほど落ち着いた笑みを浮かべた彼がただの子供だとは、とても思えなかった。 なによりここに――WGOのホストコンピュータの中に入り込めること自体、普通では有り得ないことだ。 侵入者は即、情報班の能力者によって捕獲・連行される。 そうなっていないと言うことはつまり、彼もまた快斗と同じように誰にも気付かれることなくこの場に存在していると言うことだ。 そんなことができる者が、ただの子供であるはずがない。 彼が何らかの能力者であることは明かだった。 「…おまえ、何者だ?」 彼は何をするでもなく、ただ両手を後ろで組んでこちらに向けて微笑みながら静かに佇んでいる。 敵意や殺意の類は感じないが、それが却って不気味だ。 「みんなはノアって呼ぶけど、別に覚えなくてもいいよ。僕はただ、君の捜し物の在処を教えてあげようと思っただけだから」 そう言うと、ノアはこの膨大な資料が立ち並ぶ保管室を、迷うことなく進み出した。 快斗は気後れしながらも彼の後に続いた。 もちろん、警戒は怠らない。殺気はなくとも、相手が得体の知れない能力者であることに変わりはない。 しかし彼の目的が何なのか、それが分からない以上、彼をこのまま放っておくことは、特別機動隊の副隊長としてあってはならないことだった。 「――ここだよ」 しばらく歩いた後、ノアが足を止めた場所は、部屋の中央だった。 「…ここ?」 快斗が訝しげに眉をひそめる。 それもそのはずだ。資料保管室は、書庫のように幾つもの棚が羅列しているのではなく、部屋の壁を埋めるように並べられた抽斗に資料が仕舞われているのだ。 こんな部屋の中央に立っていたのでは、どの抽斗にも手が届かない。 けれどノアは快斗の不審など気にすることなく、相変わらずの笑顔で天を仰いだ。 「君の捜し物は航空機失踪事件に関する資料だよね」 「…そうだ」 「その資料は第一級機密指定文書、つまりこの閲覧禁止文書の中でも特に機密視されるものなんだ。だから万が一の侵入者に備えて、別の場所に保管されてる。それが、ここの真上なんだ」 快斗はますますノアに対する不審を濃くした。 第一級機密指定文書とはつまり、長官以外の閲覧が禁止された資料のことだ。 この事件が彼の言うように機密視されるものだとすれば、そのこと自体、WGOのトップ――長官と支部長の六名しか知らないはずなのだ。 その機密を知り、あまつさえそれを快斗に教える意図が分からない。 嘘を言っているようには見えないが、見返りのない施しを受けることほど危険なこともないだろう。 「…なぜ、って顔をしてるね」 ふふ、とノアが笑みを零す。 無言で見据える快斗へ、そこで初めて彼は笑顔以外の表情を見せた。 笑みの欠片もない、冷えた眼差し。 そこで快斗はようやく気付いた。 彼が浮かべていたのは笑みではなく、溢れんばかりの敵意を覆い隠すためのポーカーフェイスだったことに。 「僕がここにいる理由も、資料の在処を教える理由も、君には何ひとつ教えてあげない。それでも僕がここにいるのは事実で、資料がここにあるのも事実だ。後は君のしたいようにすればいい。 …試されているのは、君だよ」 す、とノアが人差し指を頭上に向けたかと思うと、天井の一角が抽斗のように降りてきた。 その指が今度は横に動き、ぎっしり詰まった資料の中から三冊の分厚いファイルが快斗の前へと差し出された。 「これには飛行機とともに失踪した乗客二四七人、その全てのデータが保管されてる。でも、大体は簡単なプロフィールだけだ。このファイル一冊に乗客全てのデータが収納されてる。残りの二冊は、全てあるひとりの乗客に関するデータだ」 「…それが工藤、か?」 「ご名答」 指を鳴らして正解を賞賛するノアを、快斗は背中に冷えた汗が伝うのを感じながら睨み付けた。 この分厚い二冊のファイルにぎっしりとデータを書き込まなければならない人物。それがこの事件と無関係であるはずがない。 要するに、もしこの事件がベラクルスと十二使徒によるものであるなら、WGOの長官であるジェームズは彼らの狙いが「工藤」であることを、ほぼ確信していると言うことだ。 ほんの偶然から軽い気持ちで調べ始めた人物が、まさかそれ程の大物だったとは。 だが、そうなると気になるのはこの少年の正体だ。 第一級機密に指定された文書。 その機密を知る者は、ジェームズを除けば彼ら≠ナしか有り得ない。 WGOのホストコンピュータに侵入できるほどの上級能力者であり、航空機ごと乗客を連れ去った張本人である―― 「…十二使徒」 快斗の低い呟きに、ノアは満足げな笑みを浮かべると、今一度「ご名答」と言って右手を開いて見せた。 そこには逆十字がしっかりと刻まれている。 「僕は十二使徒のひとり、ノアズアーク。この電脳世界に生きる、言わば電子生命体だよ」 「ノアズアーク…初めて聞く名前だな」 「ご覧の通り見た目は十歳だけど、実際は君より長生きだよ。成長速度が人間とは異なるし、電子生命体に成長する肉体は必要ないからね」 確かにそう言われれば、あの子供らしからぬ雰囲気も納得できる。 しかも電子生命体と言うのであれば、この電脳世界を構築するデジタルと同じ構造でできているのだから、外部からの侵入者を見つけるためのセキュリティなど何の防壁にもなりはしないだろう。 生命の存在しない電脳世界に独立した意識を持つ生命体がいるなど甚だ非常識だが、志保のように無機物とシンクロする能力者がいる以上、絶対的に不可能なこととも言い切れない。 「おまえの目的は何だ?」 「言ったよね。僕の目的は教えてあげない。でも僕は戦いに来たわけじゃない。君にその資料を見せるために来たんだ」 「それを素直に信じると思うのか?」 快斗はノアとの間合いを計るように一歩後退った。 生身の人間である快斗にとって、彼のホームグラウンドとも言うべきこの電脳世界でノアと対決することは、かなりの不利だ。 攻撃を無力化することはできても、もしも快斗が接続しているパソコンまでの回線を改竄されれば、電脳世界を抜け出すことができなくなる。 そうなれば意識のない肉体は衰弱し、いずれ死ぬことになるだろう。 かと言って封環をはずせば、快斗が無断でホストコンピュータに侵入していたことが確実にばれてしまう。 だがノアはまるで仕掛ける様子もなく、先程のように両手を後ろで組むと、顎でファイルを指し示した。 「信じるかどうかは問題じゃない。今君が求められている答えは、資料を見るか見ないかだ。資料を見れば君にとってのプラスになるけど、それは僕にとってもプラス、つまり君にとってのマイナスになる。君が資料を見なければどちらも何も変わらない。要するに、どちらにしろプラスマイナスはゼロだ。君は好きな方を選べばいい。僕は別に強制しない」 単純でしょ、と言って笑うノアに、何が単純なものかと快斗は唇を噛んだ。 彼が言っていることは実に0か1かで構成された電子生命体らしい理論だが、問題は資料を見ることで「何」が「どう」マイナスになるのか、だ。 単純に考えるなら、快斗が資料を読むことで変化が生じるものは快斗の知識のみだ。 もしもそこに何かを仕掛けるなら、資料に虚偽を織り交ぜるか、或いは真偽を別としてWGOに内部分裂を来すような情報を植え付けるか、さもなければ能力によって快斗の意識に何らかの支障を来すか、と言ったところだろう。 しかし資料に虚偽を織り交ぜるのであれば、ノアが快斗の前に姿を現した時点で効果は半減だ。敵対組織の人間が提示する情報を鵜呑みにする馬鹿はいない。 同様に、内部分裂を来すような情報、つまり仲間の裏切り行為と言った不祥事を示す情報が書いてあったとしても、やはりノアが姿を現す必要はない。余程の信憑性がない限り、その情報に躍らされてわざわざ敵対組織が望むような状況に陥るはずがないからだ。 となると可能性として最も確率が高いのは、ノアの能力によって快斗の意識に何らかの支障を来すことだが…… おそらく、そのどれもノアの狙いではないだろうと快斗は思った。 根拠はない、ただの勘だ。 だが、おそらく外れていないだろう。 この得体の知れない存在が、そんな単純な理由でわざわざ快斗の前に姿を現したとは思えない。彼の狙いはもっと深く複雑なところにあり、それを見破られないだけの自信があるからこそこうして姿を現した、と考えるべきだろう。 仮にその勘が外れていたところで、能力による攻撃なら快斗は阻止することができる。 「…いいだろう。そもそも、敵の前に姿を現すという危険を冒してまで見せたがる資料ってのにも興味があるしな。その内容をどう捉えるかは別として、知っておいて損はなさそうだ」 それならばと、快斗は静かにファイルへ手を伸ばした。 かなり分厚いファイルだが、コンピュータなみにデータの入力、解析、処理速度が早い快斗なら、ものの十分もあれば完了するだろう。 物凄い勢いでデータに目を通し始めた快斗を、ノアは再び満足そうに微笑みながら眺めていた。 資料を読み進める内に、快斗の眉間には深く皺が刻み込まれていった。 読めば読むほど、彼がWGOにとって如何に重要な人物かが分かる。 そしてなぜ十二使徒が彼を狙ったのかも理解できる。 だが、同じだけの疑問が湧くのだ。 工藤新一。 かつて一世を風靡した大女優藤峰有希子と、大富豪工藤優作の息子。 母親譲りの演技力と父親譲りの知性を持ったサラブレッドにして、当時弱冠十二歳で解いた事件は数知れぬ警視庁お抱えの名探偵。 だが、注目すべきはそこではない。 彼の父親である工藤優作は、表向きは世界的な大富豪なのだが、実際はWGOの運営資金の約五十パーセントを援助している、WGOにとっては欠くことのできない後援者なのだ。 つまりベラクルスと十二使徒にしてみれば、敵対組織の生命線とも言うべき男の息子である。 その子供を誘拐して脅迫すれば、彼らにとって都合の良い要求を突き付けることも可能だろう。 だが、果たしてその人質を誘拐するためだけに、飛行機ごと連れ去るなどという大掛かりな真似をするだろうか。 常識では説明できない謎≠ニは、人の記憶に長く残るものだ。 航空機一機が丸ごと失踪するなどと言う、明らかに物理的には不可能な事件が起きれば、嫌でも人々の記憶には深く刻まれてしまう。 そんな、一般には認められていない超常の力を証明するような危険を犯し、自らの首を絞めるような真似をしてまで誘拐しなければならなかった人物だとは、とても思えない。 それだけではない。 仮に彼が脅迫の材料に使われていたとして、五年もの間、WGOが何の対策も取らなかったはずがない。 そうなれば人質救出は特別機動隊に真っ先に命じられる任務だが、救出どころか人質がいることさえ快斗は聞いたことがなかった。 そもそも、事件から五年も経った今になって、十二使徒が人質の存在を一介の能力者にわざわざ教えに来る意図が分からない。 そこから導かれる答えは――… 工藤新一は、彼らにとって「WGO後援者の息子である」と言う事実以上に重要な存在である可能性があること。 そして、彼らの目的は「人質を盾にとっての脅迫」以外のところにあり、WGO長官のジェームズはそれを承知している可能性がある、と言うこと。 それ故の第一級機密指定≠セろう。 「…工藤新一はおまえらにとって何なのか、聞いたところで答えちゃくれねーんだろ?」 「そこまでサービスはできないよ。でも、ノーヒントでそこまで辿り着いた君にひとつだけヒントをあげる」 ノアが軽く指を振れば、ファイルは元の位置に収納され、抽斗は天井に戻っていった。 そのまま数歩後ずさり、壁にぴたりと背中をくっつけたかと思うと、まるで壁と融合するように体が沈み始めた。 デジタルで構成された体だからこそできる芸当だろう。 この場で深追いすることはあまりに無謀だと、快斗は険しい表情を浮かべながらもじっとその場に留まった。 「実は最近、わざわざ管制塔を乗っ取ってまで手に入れた彼に逃げられてしまってね。使徒の何人かは彼を殺そうと躍起になってるよ」 びくりと、快斗の肩が揺れた。 ――逃げられた? ――殺そうとしてる? 「…精々、守ってあげることだね」 その言葉と突き刺さるような鋭い視線を残し、ノアは姿を消した。 それでも快斗は、しばらく動くことができなかった。 そんなはずはない。 明らかに年齢が違う。 いやしかし、もしもそういう能力者がいたとすれば、強ち有り得ないこととは言い切れない。 ……いや、そうじゃない。 本当は分かっている。 そう考えれば全ての辻褄が合うのだ。 十二使徒に追われ、殺されかけていたのは誰か。 人と違う、能力者とさえ違う力≠持っているのは誰か。 ――コナン。 彼が、工藤新一なのだ。 |
B / T / N |
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ やっとここまで来ましたよ!! これでようやくコナン=新一という構図が整いました。 長かった… でも予定していた第一部の終わりはまだ遠い… 08.02.24. |