−逆さ吊りの神−




















「アメリカ本部から来たジョディ・スターリングよ。二人とも、よろしくね」

 そう言って差し出された手を愛想笑いで握り返しながらも、快斗の心中は穏やかではなかった。
 彼女は長官の勅命でコナンの記憶を回復するために本部から派遣されてきた、高度な催眠技術を持った能力者らしい。
 昨夜のうちに服部経由で連れてこられていたようで、快斗とコナンは二人して応接間に来るよう、朝っぱらから志保に呼び出しをくらったのだが……

 コナンの記憶を取り戻すこと、それ自体に異論はない。あまり態度に出さないが、コナンだって記憶がない今の状況を少なからず不安に感じているはずだ。
 しかし、快斗が素直にそれに賛同しかねる理由は、ひとつ。
 コナンの正体が、実は失踪中の工藤新一だからである。
 昨日判明したその事実を、快斗はまだ誰にも伝えていなかった。
 それを伝えるためには快斗が無断でホストコンピュータに侵入したことも白状しなければならないことも理由の一端ではあるが、その上新たな十二使徒の出現と、何よりコナンが彼らにとって如何に重要な存在であるかまでをも明かさなければならないことが最も大きな理由だった。
 無関係の乗客二四六人を巻き添えにしてまで十二使徒が手に入れたかった存在。そして逃げ出した今尚、息の根を止めようと付け狙う存在。
 それがコナンの正体だと知られれば、WGOはコナンを快斗から引き離し、絶対に彼らの手が届かない場所へと閉じ込めてしまうかも知れない。
 それに、コナンが工藤新一としての記憶を取り戻したらどうなるのか。
 もしかしたら組織に関する重要な証言――たとえば構成員の特徴や能力などの情報が手に入るかも知れない。或いは、組織にとってもっと都合の悪い事態、つまりこちらの強大な戦力となってくれるかも知れない。
 けれどそれ以上に、なぜか快斗は今のこの心地よい関係が崩れてしまうのではないかと感じていた。
 工藤新一となったコナンは、もう自分を必要としてくれないのではないか、と。
 そんなのは――耐えられない。

「…快斗?」

 くい、と袖を引かれ、快斗は慌てて意識を引き上げた。
 いつの間にか思考の海に沈んでいたらしく、様子のおかしい快斗をコナンが心配そうに見上げている。
 なんでもないよと笑みを向けて、快斗は改めてジョディに向き直った。

「催眠って、脳や精神に負担は掛からないの?」
「個人差はもちろんあるけど、全く掛からないことはないわ。特に記憶障害の場合、記憶を取り戻すことに熱心な人はそれが却ってストレスになって、体に支障を来すこともあるわね」
「…」

 黙り込んでしまった快斗に、でもね、とジョディは続けた。

「今のはあくまで一般論よ。私の場合、能力で催眠を行うわけだから、そういう心配はまずしなくていいわ」
「つまり、どう言うこと?」

 大抵の人は今の説明で納得するのだが、実質的にコナンの保護者を務める快斗を納得させない限り、次には進めそうもないと判断したのだろう。
 あくまで鋭く切り返してくる快斗に、ジョディは別段気を悪くした様子もなく、分かりやすく説明した。

 曰く――
 一般的な催眠の定義とは、催眠療法士、或いは催眠技能士などが言葉や器具を用いて、対象者の意識を人為的に狭窄状態にすることで抵抗力を削ぎ、暗示にかけたり意識化に沈んでいる情報を取り出したりすることである。
 しかし、ジョディの能力による催眠では、そもそもの始めから対象者を狭窄状態にする必要がないのだ。対象者が仕舞い込んでしまった情報にかけたリミッターを外しさえすれば、彼女はそれを呼び戻すことができる。能力者には越えられない大原則のひとつである思考≠改竄することは不可能だが、誘導することは可能なのだ。

「だから私は、対象者がリミッターを外してくれさえすれば、心の奥底に仕舞い込んでしまった記憶だろうと、何の負担もなく取り戻させることができる」

 しかし誘導すると言っても、一般に行われる催眠療法に限界があるように、言葉による誘導には限界がある。
 その上思考の接触ともなれば、言わば魂レベルでの接触となるため、余程の信頼関係がなければ成り立たない。それほどの信頼関係を一から築くことも状況によっては可能だが、必ず可能とは言い切れない。
 そこで初めて、彼女の能力は本領を発揮するのだ。

「私の催眠は、所謂暗示による誘導ではなく錯覚による誘導で対象者に呼びかけるもの。つまり、対象者は自らの意志でそれを行うことになる」

 十二使徒に襲われた恐怖からか、或いは能力者の力によるものか、記憶を封じてしまったコナン。
 その恐怖を忘れさせ封印を解き放てば、ジョディはコナンの記憶を呼び戻させることができる。
 それを繰り返していけば、確かにコナンは徐々に記憶を取り戻すだろう。
 そして――快斗を必要としなくなるのだろうか。

「じゃあきっと無理だね」

 と、予想外の人物から反論が返され、その場にいた者は一様に目を瞠りながら彼――コナンを振り返った。

「無理…って、どういうこと?」
「だって、それって要するに俺が思い出したいと思わなきゃ駄目なんでしょ? でも、俺は思い出したいと思ってないもん」

 リミッターを外してから催眠をかけるのが通常のセオリーだとすれば、コナンの場合、まずその大前提が成り立たない。
 たとえジョディの言う錯覚によって記憶への誘導を許したとして、最後の砦である記憶を封じているリミッターを外すのはコナンの意志だ。
 それをコナンが望まなければ、如何にジョディと言えども彼の記憶を呼び戻すことは不可能だった。

「…宮野支部長。長官から伺っていた話と少々食い違いがあるようですが」

 ジョディはただ、記憶障害の子供の記憶を取り戻させてやってくれ、とだけ言われて派遣されてきたのだ。
 しかし当の本人にその意思がなければどうしようもない。
 戸惑う彼女の問いには答えず、志保はコナンの前にしゃがみ込んだ。

「どうして記憶を取り戻したくないの?」
「じゃあ、記憶を取り戻させて俺をどうしたいの?」

 そのあまりにストレートすぎる言葉に、志保は二の句が継げなかった。
 普通に考えれば、身元不明の子供を親元に帰すためだと言う尤もな言い分がこちらにはある。
 にも関わらず、志保が何も言えずにいるのは、自分が何を考えているのか、この子供は正確に理解しているような気がしてならないからだった。
 真っ直ぐ見つめてくる瞳をじっと見返す。
 …大丈夫だ。あの背筋が凍るような瞳ではない。
 しかし、これ以上無理に押し切れば、本当に思考を読まれかねない。

「…貴方のためと思ったんだけど、強制しても仕方ないわね」

 今日は顔合わせだけにしておきましょう、と言い残し、志保はジョディを連れて応接間を出ていった。
 しかし、長官自ら下した勅命で派遣された彼女がこのまま帰ってくれるとは思えない。おそらくコナンの記憶が戻るまでここに滞在するだろう。
 ソファに並んで腰かけていた快斗とコナンは、二人以外に誰もいなくなった室内で、ただ無言で空を睨み付けていた。
 志保が何かを隠していたことは、コナンが見る≠ワでもなく明らかだった。
 おそらく彼女は――いや、長官を含むWGOの責任者六人は、コナンの正体についてある仮説を立てたのだ。
 彼が工藤新一と同一人物であることまで気付いているかは分からないが、きっと快斗と同じ仮説に達したに違いない。
 即ち――コナンがかつて世界を救った救世主、神の使徒である、と。
 十二使徒がコナンの命を狙うのはそのためだ。でなければ、あれほど大掛かりで派手な事件を起こすはずがない。
 しかし、そう考えると幾らか腑に落ちない点もあるのだが……

「――記憶、取り戻さなきゃ駄目かな」

 と、聞き取れるかどうかと言った声でコナンが呟いた。
 いつの間にか足を抱え込むように体を丸めていたコナンは、まるでそうすることで外界から身を守ろうとする子猫のようだ。
 コナンは――怯えていた。

「俺、快斗と一緒にいたいんだ。でも、記憶が戻ったら一緒にいられなくなるような気がする。それくらい、見なくても分かる」

 どうしても必要な時以外、この目は使わない。その約束を守り、コナンは志保の思考を見なかった。
 だが、見るまでもなく分かってしまった。
 志保は、コナンのためだけに記憶を取り戻させようとしているのではない。記憶を取り戻させることによって為したい何かがあるのだ。それが何かまでは分からないが、今の環境が壊れてしまうことだけは確かだろう。
 快斗が言うように、コナンはこの目を使ってしまったばかりに、不要なリスクを招いてしまったのだ。

「…おまえ、俺と一緒にいたいの? 家族よりも?」

 その問い掛けに、コナンはやや逡巡した後、頷いた。
 家族が気にならないわけじゃない。顔も名前も分からないが、きっと大切に思っていたはずだ。できることなら思い出してあげたいとも思う。
 けれど、今のコナンの心に強く存在するのは快斗なのだ。
 いつでも自分の側にいて自分を助けてくれる、快斗なのだ。

「ここのベッドで目が覚めた時、俺は何も覚えてなかった。自分が何も覚えていないことさえ分からなかった。でも、ひとつだけ分かった。快斗が俺を助けてくれたことだけは、はっきり覚えてた」

 視界に映る、知らない景色と知らない人間。
 記憶とともに感情も失くしていたために不安や恐怖は感じなかったが、それはつまり、視界にありながら何ひとつ認識できていなかったと言うことだ。
 もしそこに快斗が現れなければ、コナンは思考能力さえ失っていたかも知れない。自分が何者であるのか、そもそも、自分がものを考え、意思伝達の手段を持った個別の生命であることさえ分からなかったかも知れない。
 だが、快斗はコナンの前に現れた。コナンに話しかけ、頭を撫でてくれた。
 その時、思ったのだ。
 ――自分はこの人を知っている、と。
 ほんの小さな取っ掛かりをもとに、コナンの思考は目覚ましく動き始めた。
 そうだ。
 この人に助けられたから、自分は今ここにいるのだ。
 この人がいなければ、もうここにはいられなかったかも知れない。
 この人以外の人間≠ェ誰なのか分からないが、この人さえ側にいてくれるなら、自分は大丈夫なのだ、と。

「記憶を取り戻すってことは、今の俺じゃなくなるってことだろ。今のままじゃいられなくなるってことだ。そんなの、…嫌だ」

 最後の方は吐息に混じり、ほとんど聞こえなかったけれど。
 立てた膝の間に顔を埋めてしまったコナンを、快斗は自分にできる精一杯の優しい仕草で抱き締めた。
 小さな肩が微かに震えている。
 何事にも動じなかったコナンがこんなにも恐れている。恐れてくれている。
 ――快斗との別離を。
 それだけでもう、全てが満たされる気がした。

「俺、本当はコナンの正体、知ってるんだ」

 びくりと揺れた肩を宥めるように、快斗はコナンを抱く腕に力を込めた。

「おまえがどこの誰で、どうして命を狙われてるのかも分かってる。本当はどうするのが一番いいのかも分かってる。でも、だから、誰にも言わない。コナンと引き離されるの分かってて、言えるわけない」

 両手でそっと頬を包み、俯いていた顔を上向かせる。
 コナンは涙こそ流していなかったけれど、今にも泣き出しそうな顔をしていた。
 出逢ってから初めて見る表情だ。
 快斗は記憶に焼き付けるように、じっとコナンを見つめながら言った。

「コナンと一緒にいられるなら、世界中の人間全部敵に回したって構わない」

 まるで愛の告白だ。
 でも、不思議と何の疑問も浮かばなかった。
 快斗にとってコナンとともにいるのは当然のことで、むしろともにいられなかった今までの方が不自然に感じるほどだった。
 コナンに出逢い、快斗は自分に欠けていたたくさんのものを手に入れた。誰かを必要とする心、その人を守り、そのためなら何を失っても構わないと思えるほどの強い思い。
 それは、誰でも心のどこかに持っているはずの感情だ。しかし、最愛の父を亡くし、大切な人を失うことで傷付く痛みを知った快斗は、自分でも気付かないうちに壁を作っていたのだろう。もう二度と、誰も自分の心の中に入ってこられないように、と。
 だが、コナンはその壁を乗り越えてしまった。
 記憶も言葉も感情も失くし、何ひとつ縋るものを持たなかったコナンが、ただ一人快斗だけに、その小さな手を差し伸べていた。自分がその手を取らなければ簡単に枯れ落ちてしまうだろう、一片の花弁のような儚さで。その手を振り払うことが、どうしてできるだろうか。

「快斗も…俺と一緒にいたいと思ってくれるのか…?」
「見なきゃわかんねーか?」

 不安そうに見上げてくる瞳を、快斗は不敵な笑みで見返す。
 弱気なコナンも嫌いじゃないが、いつもの強気なコナンの方がずっと彼らしいと思うのだ。好奇心旺盛で、知識に対して貪欲で。おそらく彼が工藤新一だった頃からそうだったのだろう。これだけ豊富な知識を持っていれば、稀代の名探偵とも持て囃されるはずである。
 次第にいつもの元気を取り戻し始めたコナンを、快斗は今一度ぎゅっと抱き締めた。

「大体さー、なんか俺、おまえのこと前から知ってるような気がすんだよな」
「え? 快斗も?」
「コナンもか?」

 思い掛けない符合に、快斗とコナンは互いに見つめ合いながら瞬いた。
 それは前々から感じていたことなのだが、まさか同じ思いを相手が持っていたとは思いもしなかった。

「もしかしたら、コナンになる前のおまえと会ったことがあるのかもな」
「俺になる前の俺?」
「うん。実はおまえ、俺と同い年なんだ」

 だから、もしかしたら記憶にも残らないような幼い頃に会ったことがあるのかも知れない、と言えば、ふうん、と大した興味もなさそうな相槌を返され、快斗は思わず苦笑を零した。
 自分のことだと言うのにまるで他人事だ。
 普通に考えて、どう見ても七歳児にしか見えないコナンが十七歳の快斗と同い年だなどと言われれば、驚くなり疑うなり、それなりの反応があっていいはずなのだが。
 自分の過去にはとことん興味がないのか、或いは快斗の言葉を全面的に信用しているのか。

「おまえの本当の名前、知りたい?」
「…いや」

 コナンは、時折見せる少し大人びた眼差しで首を振った。

「俺が記憶を取り戻しても大丈夫だと快斗が思ったら、その時に教えてくれ。もし駄目だと思ったら――教えなくていい」

 それまでは、もう暫くコナンでいたい。
 何かを覚悟するようなその呟きに、快斗も無言で頷いた。
 二人の意志を余所に、周囲はすでに動き始めている。じっとしていれば出遅れてしまうだろう。
 それならば。

「明日おまえの親に会いに行くよ。それで、可能な限りの情報を集める」

 コナンにはちょっと寂しい思いさせるかも知れねーけど、とすまなそうに眉尻を下げる快斗を、コナンは思わず笑ってしまった。

「分かってるよ。俺のためにしてくれるんだもんな。キッドと大人しく留守番してるさ」

 だから心配すんな、とコナンが笑う。
 それは何に対する言葉だったのか。
 快斗は、まるでこの世の全てのものから覆い隠すように、三度コナンを抱き締めた。

 一緒にいたい。ただそれだけだ。
 離れたくない。ただ、それだけなのに。
 もしもそのささやかな願いさえ叶わないなら、その時は――

 全て壊れてしまえばいい。










B / /
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
なんか快斗が破滅的(笑)
まあこのお話の彼はもともとそう言う設定ですが。
てかそろそろ、誰がどんな能力持ってたか忘れそうだ(ワタシが)
08.02.29.