−逆さ吊りの神−




















 群青の中に浮かぶ緑の深い孤島。
 鬱蒼と茂る木々に覆われるようにして、その屋敷は建っていた。
 吹き抜ける風に揺らされる枝葉の間から木造の屋根が時折覗くものの、それさえも草木の色と同化してしまい、景色の中に溶け込んでいる。
 かつては小さな島にも人が住み活気があったものだが、「最初の終焉」の余波で、今ではただの無人島と化している。
 そのひとつであるこの月影島が、ベラクルスと十二使徒の知られざる拠点であった。

 誰からも忘れ去られたような孤島でありながら、この屋敷はあまり傷んでいない。
 風雨にさらされた跡もなく、まるで時の流れからさえも置き去りにされたような風情で佇んでいる。
 その中、何の飾り気もないだだっ広い部屋にぽつりと取り残されたグランドピアノに、成実は腰掛けていた。
 室内にはピアノの静かな旋律が流れている。
 ベートーベン作曲のピアノソナタ第十四番「月光」、その第一楽章だ。
 もの悲しくなるような、そんな静かな旋律が緩やかに鼓膜をくすぐっていく。

「あんた、よっぽどその曲が好きなんだな。いつもそればかり弾いてる」

 銀色の髪を後ろで束ねた隻眼の青年――ザザが部屋の中に現れた。
 扉を潜ることもなく、窓を飛び越えることもなく、唐突に。
 しかし驚くことは何もない。
 自分たちはその姿を自由自在に変化させ、千里を刹那に渡ることのできる能力者なのだから。
 いや、そもそも能力者などという言葉がまずおかしい。
 それは何も特別なことではないのだ。
 そもそも生命は全てひとつであり、大いなる存在の一部に過ぎない。
 個≠捨て全≠ノ身を委ねれば、形や距離など在って無きが如し。
 それを知らないのは人間だけだ。
 自分というものを誇示しすぎるから、視野が狭くなる。
 どれだけ知能が発達しようとも、その根本を知らないというだけ、人は畜生より劣っていると言えるだろう。
 成実はピアノを弾く手を止めることなく、軽く後ろを振り返った。

「昔、いろいろあってね。俺にとって特別な曲なんだ」
「ふーん…」

 自分で聞いておきながら気のない返事を寄越すザザに、成実は思わず苦笑を零す。

「どうした、今日はやけに静かだな。ジンかロイか、それともノアにでも怒られたか?」
「…あいつらは関係ねえよ」

 途端に声が低くなり、これは図星だなと、成実はあらゆる面で容赦のない年長組を思い起こして溜息を吐いた。
 ザザは現在覚醒している使徒の中で最も若い。
 使徒としての使命は理解しているが、肉体年齢はまだ十九歳なのだから、もう少し大目に見てあげてもいいと思うのだが。
 ジンやロイはもちろん、見た目だけなら十歳児であるノアでさえ容赦がない。
 ノアはあれでいて使徒の中で最も毒舌家なのだ。
 おかげでこの拠点を――ホームを離れられない成実は、拗ねて帰ってくるザザの面倒をいつも任されるはめになる。
 それでももともとの性格ゆえか、面倒だとは思っても嫌だとは思わなかった。
 こんなのでも仲間だ。兄弟だ。
 自分たちは――あの方は――繋がり合うものを決して見捨てない。

「…あの方は?」

 本当は開口一番にそれを聞きたかったのだろうに。
 逸る思いと浮ついた感情を悟られまいと平静を装う様が逆に不自然で、思わず笑ってしまいそうになる。
 しかし機嫌を損なえば取り繕うのが大変だと、成実はすんでのところで堪えた。

「寝室にいらっしゃるよ。いちいち俺に確認してないで、直接会いに行ったらどうだ」
「……」

 小言に無言を返すザザの心境など手に取るように分かる。
 ただ怖いのだ。
 期待と現実の落差にどうせ打ちのめされるのなら、少しでも衝撃はやわらかい方がいい。

「…会ってくる」
「行っといで」

 ぱたぱたと足音が遠ざかっていく。
 ザザがいなくなってしまえば、後はピアノの旋律が響くだけだった。



 ザザは寝室の前で足を止めたきり、なかなか動くことができなかった。
 ノックをしようとした手が止まる。
 意味のない行為だ。
 いや、意味のない行為だと思い知らされることをこそ恐れている。
 しかし使徒たる者のケジメとして決然と戸を叩けば、予想外に室内からは声が返された。

「――入れ」

 ……違う。これはあの方≠フ声じゃない。
 ザザは落胆を隠さずに戸を開けた。
 そこにはいっそ目に煩いほど眩しい金髪の男――ローエングライムがいた。

「帰ってたのか、ロイ」
「悪いか? ノアから聞いたぞ。また勝手に狩りに出たらしいな」
「…うるせえな」

 ノアめ、余計なことを。
 舌打ちは図星であることを白状しているようなものだが、同じ説教を二度も聞かされては堪らない。

「あんたこそ、油売ってる暇があるならちゃんと仕事しろよ。ここは暇つぶしで立ち入っていい場所じゃないだろ」
「その言葉、そっくりそのまま返そうか。私は報告があって来たんだが、お前にはいったいどんな用事があるんだろうな?」
「……っ」

 ああ言えばこう言う大人の口弁には腹が立つ。
 自身の未熟さを突き付けられている気分だ。
 この上幼稚な反論を並べて醜態をさらすなど、以ての外だ。
 己の発言に則って踵を返したザザを、しかしロイは肩を掴んで引き留めた。

「そう熱くなるな。だからお前は未熟だと言うんだ」

 その言葉に激昂しかけたザザの頭を掻き回しながら、ロイは珍しく苦笑を浮かべた。
 いつものザザなら「子供扱いするな」と腹を立てるところだが、彼の珍しい行動につい、戸惑う。

「お前を見てると昔の自分を見ているようで、つい口を出したくなるらしい。気に障ったなら謝ろう」

 ザザは今度こそ何か変なものでも見るように目を眇めた。
 この男は、まさしく唯我独尊を絵に描いたような男だった。
 十二人の使徒をまとめる一の使徒である彼は、主の命令にしか絶対に従わない。
 他の一切の意見に耳を貸さず、彼の命令に背こうものなら容赦なく糾弾される。
 それが常だった。
 しかし今、その男が、たとえ言葉の上だけだったとしても謝罪している。

「…なんか悪いもんでも食ったのか?」

 だからそれは、ザザとしては当然の疑問だったのだが。

「そうか、お前にはそう見えるか」

 なにが楽しいのか、ロイは口元を笑みに歪めた。
 戸惑うザザに、ロイは更に混乱させるようなことを言い募る。

「ノアに言われた。私は言葉が足りないとな。
 私がお前を狩りに出さないのは、お前が未熟だからじゃない。お前の力が狩りに向かないからだ。お前だけじゃない、成実やノアも向かない。だから出さない。もし狩りに出して怪我でも負えば、主が悲しむ。もちろん、私も」
「…は? あんたが俺の心配をするだって?」
「当然だ。私たちは兄弟だ。兄は弟の面倒を見るものだ、そうだろう?」

 あんたが兄弟について語るのかよ、という言葉は、実の兄であるらしい銀髪の青年を思い起こし、言い留まった。
 あの男と己の関係もまた一般的な「兄弟」の範疇からは大きく外れている。
 そうなるとザザ自身、兄弟のなんたるかを知っているとは言い難い。

「…今までの高圧的な態度は全部誤解だって言うのかよ? 心配の裏返しだって?」
「まあ、そんなところだな」
「冗談も大概にしろ。どんな天の邪鬼だ」
「だから、お前と私は似ていると言ったんだ」

 ぴく、とザザの眉が吊り上がった。
 今のは聞き捨てならない言葉だ。

「俺が天の邪鬼だって?」
「その通りだろう。図星を指されれば逆らいたくなる。事実、今も」

 用がないならここに立ち入るな。
 子供染みた八つ当たりでそう口にした手前、今更それを撤回することもできなくて、引き返そうとした。それこそが天の邪鬼だと言わずして何だというのか。
 ただ会いたくて来た、その一言が口にできないとは、確かに素直じゃないとザザ自身認めるところだ。
 しかしそこが目の前の男と似ていると言われれば、やはり否定せずにはいられない、筋金入りの頑固者だった。
 うるせえよと、先ほども口にしたその一言を返すのが精一杯だった。

「大体、用がなければここに来てはいけないなどと誰が決めた?」
「それは…だってここは、あの方の部屋だから。俺たちが軽々しく入っていい場所じゃないだろ」
「それはお前がそう思っているだけの話だ。主は一度として我々の入室を咎めたことなどないぞ」
「それはそうだけど…」

 そうは言っても、あの方≠ヘ自分たちの主である。
 あの方≠ェ自分たちを統べる存在である以上、立場の違いは明確にして然るべきだと思うのだが。

「――ザザ。どうもお前は、間違った認識をしているようだな」
「…?」

 来い、と無言で促してくるロイの後を、躊躇いながらもついていく。
 まだ昼前だと言うのに室内は薄暗かった。
 分厚く積み重なった木々とカーテンに遮られ、陽の光はここまで届かない。
 まるで小さな箱の中に閉じ込められているようで、ザザはこの場所が嫌いだった。
 なによりこんな場所にあの方≠閉じ込めておくことが耐えられない。
 誰よりもこの世界を愛しておられる方だと言うのに。

 閑散とした室内にただひとつ置かれた大きなベッド。
 その上に横たわる人物を前に、ザザは堪らず跪いた。
 この方の前では膝を折らずにいられない。
 魂に刻み込まれた忠誠と親愛がそうさせるのだ。

 世に大罪人と名高い破滅の使徒――ベラクルス。
 世界で最も危険視される人物が、そこにいた。
 ……その貴い双眸は、固く閉ざされていたけれど。

「まだ…目覚めないのか」
「まだだ。まだ四人足りない」

 舌打ちしそうになる衝動を危うく堪える。
 主の御前だ、いくら眠っていようとも無礼な真似はできない。

「俺はこの方をいつまでもこんな場所に閉じ込めておくなんて、我慢ならない」
「それは皆同じ気持ちだ」
「――だったら!」

 なにをちんたらしているのかと、怒鳴りかけた言葉を飲み込んだ。
 ロイは思わず怯んでしまうほどの憤怒の形相を浮かべていた。
 一瞬、己の不用意な言葉に怒ったのかとも思ったが、ロイの目は彼方を見ていた。

「…どうした?」

 遠慮がちに声をかければ、ロイは苦い笑みを浮かべる。
 しかし目に怒りを宿したままではまるで般若のようだった。

「主が悲しむ。その鎖さえなければ、私が今すぐにでもこの世を破壊し尽くしてくれるものを。主の傷みを知らずにぬくぬくと生きている、あの男が心底憎い」

 この身が焼き切れそうなほどにな。
 その言葉に、ザザは総毛立った。

「あの男だと? 奴に会ったのか?」
「ああ」
「…ちゃんと殺してきたんだろうな」
「いや」
「――なぜ!」

 まるで獣のように吠えかかるザザに、ロイはただ静かに首を振った。
 ザザは怒りで我を失い、ロイに掴みかかった。

「場所を言え! 今すぐ俺が殺してきてやる!」
「駄目だ」
「なぜ!!」

 噛みつかんばかりの勢いのザザの頬をロイの手が張った。

「主の意志だ。でなければ疾うに私が屠っている」

 ――ああ、そうだ。この誇り高い男の意志を曲げられるのは、この世で唯一人、我らが主だけだった。
 それが主の命令ならば、自分もまた従わなければならない。
 悔しさに唇を噛むザザに、ロイは呆れたように溜息を吐いた。

「言っただろう。お前のその認識は間違っている」

 まるできかん気な子供を宥めるような態度に苛立ちながらも、なにが、とぶっきらぼうに返す。
 ロイは静かに眠る主を見つめながら呟いた。

「主は神ではない。私たちは神に仕える使徒ではない。
 どれほど優れた存在であっても大いなる意志≠フ前に、生命は皆平等なのだ。私も、お前も、主でさえも」

 地べたを這いずり回る虫もまた命なら、自分たちもまた同じ命。そこに貴賤はない。
 ロイが主に従うのは、主が優れているからではない。
 主の思いに共感し、主の願いを叶えてあげたいと思うからだ。

「私たちは対等だ。主を慕い敬うのは勝手だが、己を卑下するな。主が悲しむ」

 その言葉は、まるで頭を鈍器で殴られるような衝撃をザザに与えた。
 あの日――初めてこの方に会った日、涙を止められなかったザザをこの方は優しく、強く抱きしめてくれた。
 貴方に全てを捧げる、そう言ったザザに、困ったように笑いながら言った――自分たちは家族だよ、と。

 主は優しい。ザザが知る限り、世界中の誰よりも。
 だからこそ、世界で一番深い傷を抱えていた。世界の傷を一身に受け止めているような人だった。
 だから、守ろうと思った。
 たった十二人の兄弟で、主を傷つける全てのものから守らなければならないのだと。
 ――それなのに。

「…ごめん、なさい」

 悄然と呟くザザの頭をロイの手がくしゃりとかき混ぜる。
 不思議と、煩わしいとは感じなかった。










* * *

 石と鉄格子に囲まれた暗闇の中、ベルモットはなにをするでもなく目を瞑っていた。
 ――五年もの間、ずっと。
 しかし出られないからここにいるわけではない。出る必要がないからここにいるのだ。
 ここにいることこそが、彼女の役目だった。

 それはとても静かな日々だった。
 ただ無為に過ぎていく日々はなんと無意味で、なんと愛おしかったことか。
 時とはこんなにも穏やかに過ぎていくものなのだと初めて知った。
 彼女はここでの生活が決して嫌いではなかった。
 たとえ監獄の中であろうと、彼女の人生の中で、間違いなく最も幸福な時だったろう。

 だが、彼女が選ぶのはいつだって嵐なのだ。
 平穏がどれほど愛おしくとも、刹那の躊躇いもなく投げ捨てる。
 そして二度と振り返らない。
 嵐の中へと突き進む。

 そしてそれは、彼女だけでなく。

「黒羽快斗は子供の正体に気づいたよ。彼の今後の動きによっては、君にもすぐにここから出てもらうかも知れない」

 暗闇に浮かんだホログラム――ノアを、ベルモットは静かに見つめた。
 嵐の前の一時の安らぎ。
 それが終わる日は近い。










B / /

2年ぶりの更新…! ひいすみません!
今回は十二使徒サイドでお送りします。
ようやく名前を出せた使徒が二名、新しい使徒が一名です。うふふ。
あ、ちなみに、ここだけの話ですが十二使徒のメンバーがこっそりと変更されました(笑)
イメージに合う人がいなかったからもうオリジナルにしてしまおうかと悩んでいたのですが、
ぴったりな方がいらっしゃったのでその方にv
まだ出てませんが、乞うご期待v
その他ちょこちょこ変更されたところがありますが(主に時間軸)ご容赦下さい。
10.03.14.