蜜月のささやき






 どうしてこう、司会進行人の声というものは機械のように抑揚が欠けているのだろう。じわじわとにじり寄る睡魔に孤軍奮闘しながら、新一はもう何度目かも分からない欠伸を噛み殺した。
 新一の記憶が確かなら次が総代の挨拶だ。名前を飛ばれて慌てて飛び上がるなんて格好悪い真似は死んでもできないからと、なんとか意識を繋ぎ止めていたが、これさえ終わったら絶対に寝てやる。
 そんな不謹慎な決意を固めていると、不意に視界の端で開く扉が目に映った。そこから薄暗い会場の中へと滑り込む人影がひとつ。偶然目にしなければ気づけなかったほどの静かな足取りでこちらに近づいてくる。
 ――黒羽快斗だ。
 大事な式典に遅刻しておきながら遅刻者用の後方座席でなく新一の座る最前列に座ることが許されるのは、彼が新入生総代だからに他ならない。
 新一は影をじっと見つめた。それは徐々に輪郭を成し、一メートルの距離に近づいた時にはもうはっきりと相手の顔が判別できた。
 鼻筋の通った整った顔立ち。フランスでの武者修行のおかげか写真で見るよりずっと逞しく、時折貫禄のようなものさえ覗かせている。それでいて悪戯っぽい目の輝きは変わっていない。
 その目と視線が交差した。彼もまた、新一を見ていた。
 一瞬の邂逅――特になんでもない場面のはずだった。でもこの瞬間のことは、五十年先でも思い出せるだろうと新一は思った。
 やがて彼の口元が緩んだ。お世辞にもあまり品がいいとは言えない笑いは、入学式に遅刻してしまった失態を誤魔化そうとするものだったが、まるで悪戯がばれた子供が見せるどこか誇らしげでさえあるそれに、こちらの方が毒気を抜かれてしまった。
 その上、
「――セーフ?」
 なんて、初対面ということを忘れてしまいそうなほど自然に話しかけてくるものだから。
「…ギリギリ、な。次が出番だぜ」
 こちらも旧来のツレに話すようにぞんざいな物言いをしてしまった。
 自分が生来無愛想であることを自覚している新一は、いつもならもう少し和らげた言葉遣いで初対面の相手とは接するようにしている。でなければ相手は嫌な顔をするか怯んでしまうからだ。
 なのに彼は嫌な顔をするどころか、実に嬉しそうに歯を剥いて笑った。へへへ、なんて下品な笑い声をたてながら隣の席に座る。
「よかったー、間に合って。実はもう駄目かと諦めてたんだ」
「知ってる。飛行機の離陸が遅れたんだろ、フランス帰りのマジシャン君?」
 不思議そうに目をぱちぱちさせる男に笑いを噛み殺し、新一はネタバラししてやった。
「学長から聞いたんだよ。おかげでこのつまんねー挨拶を俺ひとりで読まされるかと思ってヒヤヒヤしたぜ」
「ああ…奥田の爺さんか。俺の個人情報はだだ洩れだな」
「二人で総代なんだから仕方ねーだろ。テメーの都合で人を振り回すな」
 新一の憎まれ口など意にも介さず、彼は「そりゃそーか」と闊達に笑った。
 なんだかこの男が相手だとなんの気負いもなく話せる自分が不思議だった。

「――次は、新入生総代の挨拶です」
 機械仕掛けの司会進行人が二人の名前を呼ぶ。ここでちょっとどころでないざわめきが起こるのは許してあげてほしい。今日本で最も有名な学生二人の名前が呼ばれたのだから、天下の東大生だって驚きたくもなるだろう。そんなざわめきなど毛ほども気にせず、二人は言われていた通りに席にを立ち、新一を先頭にステージへ上がった。
 ざわめきは増す一方だった。保護者席からは大量のフラッシュが焚かれ、まるで芸能人かなにかの記者会見状態だ。大学側も特に規制するつもりはないのか、式はそのまま進められた。むしろこうして写真を撮らせて話題にすることで、東都大学に入学したこの二人の天才児を今後の大学の顔にするつもりなのかも知れない。「東大卒の有名人」などという欄にいつまでも名前が刻まれるのだろう。あまりぞっとしない。
 二人は演壇の前で並んでお辞儀をし、まずは新一が挨拶文を読み上げた。途端に静まりかえった会場に新一の少し高めの声が朗々と響く。
 別段感動はなかった。事件現場で推理を披露する時のような高揚などもちろんない。元来、新一はエンターテイナーではないのだ。いつか誰かも言っていたが、探偵はあくまで批評家なのだから。
 しかし、自分の朗読が終わって黒羽快斗とバトンタッチした瞬間から、新一は会場の雰囲気がガラリと変わったことに気づいた。
 彼は原稿を受け取らなかった。手渡そうとした新一の手を笑顔でやんわりと拒絶し、ぴんと伸びた背筋ときゅっと引いた顎でまっすぐに会場の学生たちを見据えた。
「――今日から私たちの母校となったこの東都大学で、私たちはこれから何を学びますか。誰と接し、何を楽しみ、何に励みますか。この世界に、何を残しますか」
 頭にじんわりと響くテノール。耳から入り込み、鼓膜を、脳髄を震わせる。
 まるで魂に呼びかけるような声だと思った。それは会場にいる誰もが感じているようで、機械人形かと思っていた司会進行人の女性でさえ彼の言葉に聞き入っていた。
 黒羽快斗は――天性のエンターテイナーだった。
「歴史に名を残すような発明をするのもいいでしょう。世界に貢献し、未来に夢を残すのもいいでしょう。或いは、たった一人の誰かの心に名を残し、その人の希望となるのも素晴らしいことです」
 死ぬほどつまらないと思っていた文字の羅列が、思わず涙ぐんでしまいそうになるくらい感動的に読み上げられていく。
 きっとこの男は魔法が使えるのだと思った。彼はこの声ひとつで魔法をかけるのだ。入学式の会場が、いつの間にかマジックショーさながらの熱気に包まれている。
 後で聞いたことだが、彼は事前に挨拶文を教えられていたらしい。エンターテイナーであるマジシャンらしく、視線を手元の原稿に落として読み上げるなんて無様な真似はできないという理由からだそうだ。たかが大学の入学式でこれなのだから、余程プロ意識が強いのだろう。事実、彼は玄人も恐れをなすほどの才能に満ちた若手マジシャンなのである。
「平成――年、四月一日。工藤新一、黒羽快斗」
 最後に総代の名前を読み上げ、挨拶は終わった。辛うじて彼と並んでお辞儀をするという義務を思い出した新一だったが、司会進行人は完璧に自分の仕事を忘れていた。挨拶が終わってからの数分間、奇妙な間が空いた。しかしそれを詰る者は誰もいなかった。
 その後の式は、それこそ夢心地の中で進められた。
 挨拶前の眠気などすっかり飛んでしまった新一の横で、黒羽快斗は爆睡していた。機内で眠れたとは言え、フランスから直行してきたのだ。かなり疲れていたのだろう。
 時折もたれかかってくる頭に文句を言う気もおきず、新一は大人しく枕に徹してやった。本当はもう少し彼と話がしたかったのだが、背後から向けられる羨ましげな視線も悪くない、なんて思っていた。



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