気づけば会場の中はがらんとしていた。入学式は一時間も前に終わっていた。会場に残って記念写真を撮ったりお喋りに花を咲かせたりしていた者たちも、なんの色気もないこの場所に飽きて思い思いの場所へ移動してしまった。
その中に新一が居座り続けている理由はひとつ。
今や完璧にこちらへ寄りかかって眠っている男の所為だった。
式が終わってすぐ、有名すぎる有名人である二人のもとに殺到する学生は大勢いた。学生どころか保護者や教職員、ホテルのスタッフまで来た。しかしその全てが大した言葉も交わせずにすごすごと引き返していった理由は、やはり安らかに眠るこのマジシャンのためだった。
カメラを手に果敢にも声をかけようとする女の子もいた。しかし連れの女の子に肩を掴まれ、その上眠るマジシャンを見ながら人差し指を立てた「静かに」というジェスチャーをされれば、後ろ髪を引かれながらも引き返さないわけにはいかなかった。
手帳とペンを持ってサインをねだりに来る人もいた。しかしペンを受け取ろうにも右肩が枕にされているために動かせずにいると、やはり残念そうにしながらも帰っていった。
そうして結局誰一人相手にすることなく今に至っている。もし彼が起きていたらにわかサイン会や写真撮影会が開かれていたかと思うと、眠っていてくれて助かったとこっそり感謝した。
だが、そんな殊勝な考えも三十分前にどこかへ行ってしまった。もともと新一は気が短い。人が好いとも思わない。なのに人を枕にしたままいつまで経っても起きない相手に、そろそろ辟易していた。
別に彼が起きるのを親切に待ってやる必要はないのだ。今日初めて会った相手である。無理矢理叩き起こしたところで文句を言われる筋合いはない。むしろ枕になってやった謝礼を言われるべきところだろう。
しかし彼は、こちらが起こすのを忍びなく思ってしまうくらいぐっすり眠っていた。さっき交わした会話が妙に気安かったのもいけない。少しくらいなら起きるまで待ってやってもいいか、なんて気になってしまった。そうこうしている間に気づけば一時間も経ってしまったわけだ。自分で自分に呆れてしまう。
とは言え、ここまで待ったのだからもう彼が起きるまで待ってやればいいような気がしていた。言い訳なら簡単だ。自分も寝ていたと言えばいい。感謝はされないだろうが、今日知り合ったばかりの相手に延々肩を貸してやるようなおかしな奴とは思われずに済む。
そんなことを考えていると、ようやく彼は起き出す気配を見せた。寝苦しそうに小さく唸りながら身じろぎしている。
起きる――そう思って新一が目を閉じようとした時には、もう彼の目は開いていた。
ぱちぱちと数回瞬いた目がこちらを見上げている。肩に頭を乗せたまま不思議そうに新一を見ている。
視線はがっちり噛み合っていた。寝起きを装おうはずが、これでは彼が起きるのを持っていたと言っているようなものである。
取り繕う暇もなく、新一は――赤面した。
「あ……っ」
慌てふためくあまりに声も出ない。探偵にあるまじき失態だ。きっと今なら恥ずかしさで死ねるだろう。できることなら今すぐここから逃げ出してしまいたいと泣きつく本能を、最後の理性で押さえ込む。
そんな新一の葛藤など知らないだろうに、彼はきょろきょろと辺りを見回したかと思うと、えへへと恥ずかしそうに笑った。
「ごめん、付き合わせちまったみたいだな。あんたの肩があんまり気持ちいいもんだから手放せなかったみてぇ」
――別に。ただ起こせばよかっただけの話だ。彼が自分を拘束していたわけでもなければ、彼を起こしてはいけない理由があったわけでもない。それなのに、まるで彼こそが失態を演じたかのように振る舞ってくれている。新一を辱めないために。
たぶん、その時決まったのだ。これから始まる大学生活をともに過ごす相手は、彼なのだと。
この上妙な自尊心で彼の厚意をはね除けるような醜態は晒せないからと、新一は素直にそれを受け取ることにした。
「…寝る暇もないなんて、売れっ子は大変だな」
「それを言うなら工藤もだろ? なんたって日本警察の救世主だもんな」
新一の揶揄を余裕で返し、彼はやらしい笑みを浮かべた。人を食ったようなあまりよくない笑みだ。でも不思議とこの男には合うような気がした。品のいい笑みなんかよりもずっと彼の本質が表れているようで、なんとなく憎めない。これが親しい者にしか見せない彼の本性だとすれば、自分が「友人」にカテゴライズされたようで嬉しかった。
「で、その救世主を枕にしてくれた見返りは当然あるんだろうな?」
「ええっ、救世主のくせに見返り求めんのかよ! セコイ救世主だな!」
彼が声を立てて笑う。気持ちいいくらい明け透けな声だ。腹の底から笑ってる、そんな声だった。
「この後時間あるなら飯でも奢ってやるよ。まあ二時間ちょっとのレンタル枕じゃ、精々ファーストフードか牛丼だけどな」
冗談のつもりだったのに本気にされて新一は慌てた。本気で見返りを要求する気なんてなかった。
「いや、いくらなんでも初対面の奴に奢られるわけにはいかねーよ。それにお前、空港から直行してきたんだろ? 寄り道しないで帰って休めよ」
「へー…工藤って意外にヤサシイんだ」
「ああ? 意外ってなんだよ」
「だって新聞とか見てると、なんか唯我独尊っぽいから」
新一の眉がぐぐっと寄る。
「あれは…嘗められるわけにいかねーから」
「うん、分かってるけどよ。唯我独尊の奴が枕になってくれるわけねーし」
しかめっ面が赤くなる。
「それは…お前があんまり気持ちよさそうに寝てるから」
「うん、よく寝れた。おかげで疲れもとれたし、腹も減ったから飯食いに行かねえ?」
新一はなんと答えていいか分からなくて黙り込んだ。
ご飯は――食べに行ってもいい。と言うかむしろ行きたい。彼ともっと話せるというのは魅力的な誘いだ。
でももし彼が自分に気を遣って誘ってくれているのだとしたら、ここは無理にでも断るべきだろう。そもそもあんな体勢で寝たところで疲れがとれるはずがない。
新一はなるべく当たり障りがないように断ることにした。「この後予定がある」と言えば、彼も引き下がってくれるだろう。
しかし新一が考え込んでいる間に、彼はその逃げ道さえも奪ってしまうのだ。
「せっかく工藤と仲良くなれるチャンスなのに帰って寝るなんて勿体ねーじゃん」
そんな風に言われて断れるはずがなかった。
ここで断れば「貴方と仲良くする気はありません」と言っているようなものだ。新一こそが彼と親しくなりたいのに、知り合ったその日に絶交宣言なんてできるはずがない。
「…飯食ったらまっすぐ帰るんだろうな」
「ぶはっ! なんだお前、母親みたいな奴だな!」
「な…っ」
人が親切で言ってやってるのに、こいつは。
真っ赤になって怒る新一の鞄をひょいと掴むと、彼はさっさと会場から出ていってしまった。人質を取られた新一は後を追うしかない。
「返せよ、黒羽」
「へへーん、財布がなきゃ帰れねーだろ。こいつは人質!」
「バーロ、それじゃ電車にも乗れねーだろが」
「俺が払ってやるよ、お坊ちゃま」
「この野郎…!」
下らない挑発に易々と乗せられ、結局新一は彼に付き合ってその日一日を遊び倒してしまった。しかもファーストフードでの食事とゲーセンのテレビゲームで白熱バトルという、ベストセラー作家の息子と売れっ子マジシャンとは思えないほど低予算な豪遊っぷりだった。
でもそんなところが妙に気安くて楽だった。自分も彼も、四六時中探偵やマジシャンでいられるわけじゃない。
今日会ったばかりなのに、もう何年も連んでいるような気安さで二人は別れた。住所も携帯番号も知らないのに、じゃあまた明日、なんて。明日も会えることを疑わない友人同士でなければ言えない台詞だ。
だけど、なんとなく確信していた。明日も彼に会うだろう。明後日も、その次も、この先ずっとこんな風に彼と連んでいるのだろう、と。
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