蜜月のささやき






 ――考えてみれば、最初から強引な奴だった。
 リビングに友人を放置して布団の中に飛び込んだものの、なかなか訪れない眠りの所為で新一は昔のことをぼんやりと思い出していた。
 こうして思い返してみれば、知り合ったその日から彼には振り回されっぱなしだった。それは大学生活が始まってからも同様で、彼の突拍子もない行動に新一は驚かされるばかりだった。
 たとえば、一年生のゴールデンウィークの時のことだ。突然旅行に行こうと言い出した彼に、フランスに連れて行かれた。土日と合わせてもたった五日しかない休みを使って、フライトだけでも片道十三時間はかかる長旅だ。それを、とある有名マジシャンの特別公演が見たいという理由だけでフランスまで連れ出された。
 それから、クリスマスの時のことだ。今年は予定がないとうっかり漏らしてしまったら、カップルだらけのトロピカルランドを一日中引っ張り回された。彼には恋人がいたにも関わらず、である。案の定、年が明ける前にはその恋人と別れていた。理由は言わずもがな。その年の正月はいつ後ろから刺されるものかとヒヤヒヤしたものだった。
 そんなめちゃくちゃな男だが、どうしても縁を切ろうという気になれないのは、彼がそれ以上に優しい男だと知っているからだった。
 半ば無理矢理連れて行かれたフランスで、実は五月四日が新一の誕生日だと知った彼は、バースデープレゼントと称して急遽ステージに乱入し、新一のためのマジックショーを披露してくれた。クリスマスの時だって、長年曖昧な関係だった蘭とただの幼馴染みに戻ったと新一が漏らしてしまったからこそ、彼は自分のクリスマスを棒に振ってまで新一に付き合ってくれたのだ。
 彼ほど優しい人はそういない。それでいて決して押しつけがましくないから、知らないうちに助けられているなんてこともしょっちゅうだった。
 そんな男だから、彼の周りにはいつも人が絶えない。同じ学部の人から、どこで引っ掛けてくるのか他学部の人まで。みんな彼といるのが楽しいからどこにいてもすぐ人に囲まれてしまう。おかげで一緒にいる新一まで取り囲まれてしまうのだ。明るくて面白くて格好いい、彼は絵に描いたような人気者だった。
 なのに、彼はいつも新一の隣にいた。同じ学部だから必修の講義がかぶるのは当たり前だが、選択必修から副専攻科目までかぶるのは明らかに故意だ。問い質してみれば、「だって工藤がいないとつまんなくて授業なんて聞いてらんねーんだもん」と悪びれもせずに言っていた。呆れるやら嬉しいやらで、結局「じゃあ警部から呼び出しくらっても代返は完璧だな」と答えたのはまだ記憶に新しい。
 そうして四六時中一緒にいるものだから、今では彼に関することで知らないことの方が少ないんじゃないかと思うほどだった。
 たとえば、彼は非常によくモテる。誕生日、クリスマス、バレンタインという代表的な記念日はもちろんのこと、彼がマジックショーを行う前後や試験前なんかにもプレゼントを渡しに来る女の子が後を絶たない。いや、理由などなくても貢ぎに来る子だって大勢いる。
 そんな風だから、彼は常に恋人に事欠かなかった。クリスマスを新一に付き合ったために恋人と別れた彼だが、年が明けて大学で再会した時にはもう新しい恋人がいた。それだけ聞くと女を取っ替え引っ替えしている遊び人のように聞こえるが、未だ刃傷沙汰になってないところからも分かるように、彼はどの相手にもきちんと誠意を持ってお付き合いしているのだ。クリスマスに別れた恋人にしても、「これ以上欲張りになって黒羽君に嫌われたくないから…」という理由で別れたらしい。彼もできた男だが、その恋人となる女の子も相当できた人たちだった。
 そういった理由で彼は非常によくモテたが、恋人と長続きしたことがなかった。できすぎた恋人を持つと、余程の自信家でもないと上手くいかないのだろう。友人というポジションではあるが、新一には少しだけ彼女たちの気持ちが分かる気がした。
 そして今日は、彼が大学に入ってから別れた恋人が二桁目に達したという、ちっともめでたくない日だったのである。
 ――そうだ、そもそもなんで飲もうっつー話になったかって、失恋して落ち込んでるあいつを元気づけてやるためだったじゃねーか。
 新一は酒に弱い。過去に服用した薬物の影響もあるかも知れないが、アルコールが入るとすぐに心拍数が上昇し呼吸が速くなる。下手をすると前後不覚になることだってある。だから普段はよっぽど親しい相手とでなければ頼まれたって飲みに行かないし、理由もなく家で一人で飲んだりもしない。
 でも今日は、いつも明るい友人が珍しく落ち込んでいて。自分の家ならベッドもあるしトイレもあるし、最悪隣には医者もどきの科学者もいるからと、自分から彼を誘ったのだ。酔いつぶれても俺が介抱してやるよ、と。
 新一は飛び起きた。暢気に寝ている場合じゃない。
 彼はいつだって自分のためによくしてくれたのに、彼が落ち込んでいる時に自分はなにをしているのか。酔っ払い相手に動揺して、勝手に腹を立てて。元気づけるどころか、布団もかけずに放置するなんて。
 新一は部屋を飛び出し、階段を駆け下りた。リビングの扉を開ければ、自分が飛び出した時の姿のままフローリングに横たわっている友人がいた。慌てて駆け寄り、彼の肩を叩く。
「おい黒羽。起きろよ、風邪引くぞ」
 ぴくりともしない彼に、今度は肩を掴んで揺さぶった。しかし唸るばかりで目は覚まさない。
「しょうがねーな…」
 一瞬、客間まで連れてってやろうかと考えた。しかし体重六十キロはある成人男子を担いで階段を上がるのは危険だと考え直した。平常時ならまだしも、新一も飲んでいるのだ。万が一にも階段から落ちてマジシャンの体を傷つけないとも限らない。
 新一はちょっと考えて、客間の布団を運ぶことにした。もう十一月だ。フローリングは寒いし、敷き布団も持ってこなければいけない。
 立ち上がろうとした新一は、しかしうつぶせですっ転んだ。大した衝撃がなかったのはクッションが優れているからだ。いつの間にか目を覚ましていた彼が腹の下から見上げている。その手に掴まれたシャツの裾が転倒の原因だろう。
「てめ、危ないだろが、」
「しんいち」
 ――放せよ。
 そう続かせるはずの言葉が喉に詰まってしまったのは、彼の声があまりに弱々しかったからだ。
「黒羽?」
 体を起こして顔を覗き込む。いつもと変わらない、ちょっと心臓に悪いくらいの男前がいる。それでも少し違って見えるのは、あの悪戯な輝きが消え、酔いのためにやたら水分過多になった目の所為だろうか。
 黒羽、ともう一度名前を呼べば、彼は裾を掴んでいた手で今度は新一を抱きしめた。うわ、と短い悲鳴を上げて再び彼の胸の上に落ちる。
 新一の体温は一気に沸点を振り切った。頬と頬が密着している。有り得ない距離だ。離れようにも、下手に動けば鼻やら口やらがあらぬところにぶつかってしまいそうで身動きが取れない。
 その耳に、囁かれた。

「さみしい」

 ……聞き間違いかと思った。寒い、を、聞き間違えたのだと。
 でも、違うとも分かっていた。
 こんなに優しい人なのに。あんなにみんなに愛されてるのに。――さみしい、なんて。
 勢いよく飛び起きれば、意外なほど簡単に彼の腕は外れた。それが逆に腹立たしくて、新一は着ていた上着を脱ぐと彼の顔面に投げ付けた。
「それ持ってちょっと大人しくしてろ!」
 怒鳴りつけ、またもや二階へ駆け上がる。今度は客間に飛び込んでベッドから布団を剥ぎ取った。本当は敷き布団も敷いてやるつもりだったが、もうそれどころじゃない。一刻も早くあの馬鹿のもとへ戻らなければと、新一は階下へ布団を放り投げた。
 ――そうだった。あの男は優しいが、それ以上に馬鹿だった。
 さみしい、なんて、よく言えたものだ。こんなべろべろに酔わないと本音のひとつも零せないなんて呆れた男だ。その上べろべろに酔っても我が侭ひとつ言えないなんて、もう呆れを通り越して腹が立つ。
 リビングに戻れば、友人は新一のシャツを持ったまま呆然と座り込んでいた。新一は無言で近寄りシャツを奪うと、その顔面に今度は布団を投げ付けた。
「ぶっ! く、くどう?」
「うるせぇ、黙れ、俺は眠いんだ」
 シャツを着込み、すっかり冷えてしまった体を持ってきた布団でくるむ。困惑顔の友人も巻き込んで、フローリングの上に転がった。
「く、くどうくん…?」
「うるせぇっつっただろ。いいから寝ろよ、お前も」
 彼は酔いも眠気も覚めてきたらしいが、今更引き返せるものかと、問答無用で電気を消した。
 リビングの中は真っ暗だ。冬用の分厚い遮光カーテンが外の灯りまで閉め出している。なにも見えない。だからなにもばれない。
 それでも彼に背を向け、言った。
「…これでちったぁさみしさも紛れんだろ」
 本当は。死にそうなくらい、顔が熱かった。心臓がうるさくて、眠気なんて欠片もなかった。
 ――でも、お前がさみしいって言うなら、一晩くらい一緒に寝てやるから。
 慣れないことをしてガチガチに固まった背中に、ありがと、と嬉しそうな声がかけられ、新一は少しだけ肩の力を抜いた。



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