一睡もできないのではないかという不安もどこへやら、目が覚めた時にはすっかり朝だった。昨夜はしっかりとカーテンを閉めていたはずの窓からは燦々と朝日が差し込んでいる。もっと繊細かと思っていた神経は予想以上に図太かったようだ。新一は自分がいつ寝たのかさっぱり思い出せなかった。
ふと隣を見れば友人の姿はない。しかも転がしっぱなしにしていたはずの瓶や缶は綺麗に片づけられ、テーブルの上には軽い朝食まで用意されていて、新一は驚いた。だが、フローリングの上で眠っていたはずがいつの間にか敷き布団を敷かれていたことにはもっと驚いた。布団を運び込んだ上に移動させられておきながら、全く気づかなかった。これではどちらが介抱されたのか分からない。
軽く自己嫌悪に陥っていると、ゴミ出しを済ませてきたらしい友人が戻ってきた。
「あ、おはよ。やっと起きたな」
「…はよ」
二日酔いの気怠さなど一切感じられない明るい声。どうやらアルコールは完全に抜けているらしい。流石はプロマジシャンだ。体調管理にも抜かりがない。
夕べのことなどまるで夢だったかのように、友人はいつもの彼に戻っていた。もしかしたら覚えていないのかも知れない。あれだけ飲んだのだから記憶のひとつやふたつ、高性能な彼の脳からだって家出することもあるだろう。
「朝飯作ったけど食う?」
「…ん」
「あ、でもその前に顔洗ってこいよ。時間あるから急がなくて平気だけど」
「…ん」
馬鹿みたいな返事をして、新一は洗面所へ向かった。というか、その場から逃げ出した。正直顔を合わすのが気恥ずかしかった。昨夜のことを覚えているのも意識しているのも自分だけだと思うから、尚更に。
昨日の彼が酔っていたのは間違いないだろう。二日酔いもないし、やはり新一は自分の飲酒量をしっかりセーブしていたのだ。となれば、あの大量の酒は彼の胃袋の中に消えたことになる。人として有り得ない量だと思うのだが、存在自体が規格外みたいな男に今更新たな項目がひとつくらい加わったところで驚きはしない。
それでも。
――告白、されたのだ。そして抱きしめられた。
もちろん本気にするつもりなどない。同性の友人相手にどうもこうも答えようがないし、酔いに任せたジョーダンに答えを返されても彼だって困るだろう。
しかし、忘れることもできそうになかった。マジシャンの魔法の声で囁かれた告白だ。未だ脳髄を掻き回し、シナプスに異常を来している。まるでパブロフの犬のように彼の顔を見ただけであの言葉が脳内再生されるのだ――愛してる、と。
またも思い出しかけ、新一は慌てて顔を洗った。水が冷たい季節、変温動物並みに温度調節機能を欠いた新一は、いつもなら指先を湿らせるだけでも相当の覚悟がいるのに、今は冷たささえ感じない。
火照りが引き、洗いすぎて濡れてしまった前髪を拭き終えた頃、ようやく新一はリビングへ戻った。見計らったかのようなタイミングでコーヒーを持った友人がキッチンから顔を出す。
「おー、ようやく男前になったな」
「…ぬかせ」
「はは。起き抜けの工藤も可愛くていいけど、やっぱしゃきっとしてる方が探偵らしいもんな」
なんだ、その可愛いってのは。
せっかく冷ました火照りを少しだけ再燃させながら、新一はいやらしく笑う友人を睨み付けた。
コーヒーを受け取り、席に着く。目の前に広げられた朝食に眠っていた腹も起きだし、空腹を訴え始めた。いつもはコーヒーだけで満足するくせに、現金な胃は彼の料理の味を覚えているらしい。
いただきますと一応の感謝を伝え、新一は箸を持った。
「あのさ」
食事の途中、遠慮がちに声をかけられ新一は顔を上げた。自分の倍の量をとうに食べ終えた彼がじっとこちらを見ている。
急に箸が重くなって、新一は手を置いた。彼の前でご飯を食べるというなんでもない行為が急に恥ずかしくなった。
「昨日は付き合ってくれてありがとな」
「……う、ん」
「工藤、普段酒飲まないだろ。なのに誘ってくれてすげー嬉しかった」
「まあ…黒羽となら、また飲んでも構わねーよ」
「ほんと?」
やった、と歯を剥いて笑う彼を見ていると、変に意識してしまった自分が馬鹿みたいだと思った。もっと自分に余裕があれば、きっともっと楽しいお酒になったはずなのに。勿体ないことをした。
「…飲みたくなったらいつでも来いよ。介抱はできなかったけど…布団くらい、かけてやるからよ」
友人は、照れくさそうに笑った。
「にしても、失恋も十回目ともなるとまた格別だな…」
「流石にヘコむか?」
「まあね」
眉尻を下げて笑う友人の目許には微かに光るものがある。戯けてみせているが、実際思うところはあるのだろう。
ちょっと考え、新一はアドバイスしてやることにした。恋愛経験が豊富というわけではないが、本人じゃないからこそ気づくこともあるだろう。
「次はお前から告白してみろよ。今までって全部向こうからだろ? 相手も不安だったんじゃねーか?」
「あ、それムリ」
新一の提案はもののコンマ一秒で棄却された。あまりの速さに思わずどもる。
「な、なんで?」
「俺、惚れた相手にしか告らないって決めてるから」
「だから惚れた相手に告白すればいいじゃねーか」
「ムリだよ。だって俺、ずっと前から本命いるもん」
「――はあ!?」
心底、いや、魂の底から呆れた声が出た。
新一の聞き違いでなければ、この男は今「本命がいる」と言わなかったか。つまり本命がいるくせに、今まで十人もの女の子と付き合ってきたというのか。いや、大学入学前からだとしたらもっといるかも知れない。
「そりゃお前、自業自得じゃねーか! 本命いるなら振られて当然だろ!」
「そうでもねーよ。付き合う前にちゃんと本命が別にいるって言ってあるし」
「――はああああ!?」
魂より上のものはなんだろう。細胞か、細胞の中のミトコンドリアか。とにかく、その全てに口があったなら全身で大合唱ができそうなくらい盛大な嘆息が出た。
なんだそれは。意味が分からない。本命がいながら別の子と付き合う彼も彼だが、別に本命がいる男と付き合う女の子はもっと理解できない。
東都大学の心理学部に入学してはや二年。もう半分も経つのに未だ人間の心理を理解できない新一が悪いのか、それともやはり彼らがおかしいのか。
「ふ、ふつう本命と付き合うもんじゃねーの…?」
「普通はな。つーか、それが一番いいに決まってる。でも必ずしも本命と付き合えるとは限らないだろ?」
「そりゃそうだけど…」
耳の痛い話だ。新一だって、ずっと好きだった蘭とは結局ただの幼馴染みに戻ってしまった。気持ちが消えてしまったわけじゃないのに、お互いに相手の存在を「一番」にすることができなかった、ただそれだけの理由で。
「でもムリだったからって急に諦められるもんじゃないだろ?」
「…まあな」
「だったら極端な話、死ぬまでその人のことが忘れられなかったら、ずっと独り身でいるのか?」
「それは…」
「そんなの、さみしすぎる」
新一はなにも言い返せなかった。彼の言い分はいちいち正しかった。本命が別にいることをきちんと相手に打ち明けている分、誠実だとさえ思ってしまった。
でも、このもやもやした感じ。理解はできても納得できていない証拠だ。
「それでも俺は…付き合うなら、ちゃんと本命の子がいい」
偽らずに伝えれば、彼は微笑いながら頷いた。
「うん。分かってるよ。工藤はまっすぐだもんな」
そういうとこが、お前らしくて大好き。
恥ずかしげもなくそんなことを宣う色男に、新一は今度こそ赤面した。
「お、俺のことより、今はお前のことだろ。その本命には告白したのかよ?」
「したよ。本気にされなかったけど」
「…でも諦めらんねーんだろ?」
「うん。もう三年も片思いだし」
「だったらもうちょっと頑張ってみろよ。せめてイエスかノーか答えをもらえるまで」
「ああ」
意外にも彼はあっさり頷いた。
「いろんな子と付き合ってみて分かった。やっぱりどうしてもその人のこと諦められそうにないって。だからもう誰とも付き合わないことに決めた」
もうずっと前から決めていたことなのだろう。彼に迷いはなかった。口元に刻んだ挑むような笑みは、まるでステージを前にしたマジシャンのそれだ。欺くか見破られるかの戦いの場――オトすかオトされるかの真剣勝負。それに挑む覚悟を決めている。
きっと本気になった魔術師に敵う相手などいないのだろう。
その時の新一は、他人事のようにそう思っていた。
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