その日、新一は警視庁からの呼び出しで午後いっぱいの講義を欠席した。試験前の大事な時期だが、事件に「待った」は通用しない。いつものように出席とノートは友人に任せ、新一は現場に向かった。
事件で呼び出された日は決まっていつも家で友人が待っていた。最初のうちは「ノートを見せるついでに一緒に飯食ってこうと思って」という彼の言葉を真に受けていた新一だが、ある時気づいた。彼は自分を迎えるためにこそ待っていてくれるのだ、と。
あれは去年の冬のことだ。警部から呼び出しを受けた新一はいつものように現場に向かった。しかしそこには予想を遥かに上回る凄惨な光景が広がっていた。殺人現場や人の死体にはある程度の免疫を持つ新一や警部でさえ目を背けたくなるような光景だった。
当然、事件の解決には時間がかかった。三日も四日も警視庁に泊まり込んだ。無能だなんだと被害者の家族には散々罵倒され、マスコミにも叩かれて。ようやく犯人を捕まえた時にはみんなもうボロボロだった。
こんな夜は一人でいるのがいい。人に気を遣う余裕なんてないから誰とも顔を合わせない方がいい。しかし家に帰れば友人がいる。家に向かう新一の足取りは重かった。
だが、五日ぶりに帰った家で待っていたのは気を遣わなければならない知人ではなく、気心を知り尽くした親友だった。
ただ笑って「おかえり」とだけ言った彼になにも言えなくなった。言い訳ばかり考えていた頭を軽く撫でられ、「頑張ったな、お疲れさま」と言われた時には本気で泣くかと思った。
なにも聞かない。慰めてもくれない。それは新一が必要としないものだ。ただ認めてくれたことが嬉しい。事件は解決した、それだけが新一の全てだったから。
その後のことは正直あまり覚えていない。ただ疲れ切った頭で、ただいま、とだけ返して。彼が沸かしてくれていた風呂で、堪えきれなかったものを少しだけ零した。そしてご飯の用意されたリビングに入る頃にはもう気づいていた。こうして疲れ切った自分を迎えるためにこそ、彼はここにいてくれるのだと。
――あれから一年。未だにその習慣は続けられている。
だからその日も、彼が夕食を作って待っていることは分かっていた。ただいつもと違ったのは、いつもなら笑顔で迎え入れてくれる友人の顔が曇っていたことだ。
「どうかしたのか?」
玄関に突っ立ったまま新一が首を傾げる。いろんな表情を見せる友人だが、こんな風に困った顔を見せるのは珍しい。
「今日、飲み会に誘われた」
「なんだ。いつものことじゃねーか」
まだ学生とは言え、彼は二十歳を迎えたプロマジシャンである。打ち合わせや打ち上げの席でも酒が出るのは珍しいことじゃない。仕事としての自覚があるためか、彼がそうした席で酔いつぶれたこともない。そもそもザルを通り越してただの枠のような男だ。
だが新一の予想は外れた。
「仕事の話じゃなくて、来年のゼミの奴らに誘われたんだ。親睦会しようって」
「へえ、ずいぶん気の早ぇ話だな」
「へえって、当然工藤も誘われてるんだからな」
「げ! なんで俺が?」
「同じゼミ取ってんだから当たり前だろ」
確かに、彼だけ誘って新一を誘わないはずがなかった。
飲酒喫煙に対するモラルが低いこの国で、今まで新一がこの手の誘いを回避してこられた理由は明白だ。警視庁の刑事や警官と懇意にしている成人前の探偵に酒を飲ませて万が一にもばれたら、新一の探偵生命が切れてしまうからである。
同様の理由で学友たちからの誘いを蹴ってきた友人だが、二人揃ってめでたく二十歳を迎えた今、自分たちを飲みに誘ってはいけない理由はなくなってしまった。東都きっての有名人の二人である。ゼミの親睦会なんて尤もな理由を手に入れた者たちがこの機を逃すはずもなかった。
「うう…困ったな…」
「俺は別に構わないけど、工藤は酒に強くないからさ。あんまり外では飲まない方がいいと思う」
彼が困っていたのはそういう理由かと、新一は玄関にしゃがみ込んでしまった。
タイミングが悪い。新一本人がいればまだその場で断ることもできたのだが、警部に呼び出されていたために一旦話を預かることになってしまった。一度保留となった話を断るわけだから、どうしたって印象が悪い。これから卒業までをともに過ごそうというゼミ仲間だというのに。
しかし嘆いてみたところで友人を困らせるだけだ。いくら気の利く友人だって新一に確認も取らずに返事はできないし、断る理由まで彼にでっち上げろなんて言えるはずもない。
「めんどくせぇことになったな…」
「とにかく話は風呂入って飯にしてからにしようぜ。適当な理由考えないと、これからいくらでもこの手の誘いは来るだろうしな」
「笑えねぇ…」
苦笑する友人に見送られ、新一は風呂に向かった。キッチンに消えた彼は夕食の準備をしてくれるのだろう。
脱衣所には既にバスタオルとフェイスタオルが畳んで置かれていた。寒がりの新一のために風呂場ばかりか脱衣所まで暖められている。
よくよく考えるまでもなく、変な状況だった。身内でもない男に合い鍵を渡し、家政婦でもないのにご飯の用意から風呂の準備までしてもらっている。新一がだらしないから、と、幼馴染みからも散々世話を焼かれた新一だが、ここまでしてもらったことはない。精々ご飯を作ってもらうか掃除を手伝ってもらう程度だ。幼馴染みと言っても異性、それも好意を抱く相手に合い鍵なんて渡せるはずがなかった。
それが、この友人相手だとどうも気が抜けてしまう。同性である気安さも多分にあるが、彼独特の空気によるところが大きいだろう。要するに、彼は新一を甘やかすのがべらぼうにうまかった。
たとえばこうして事件で呼び出される度に家で待っているのだって、面と向かって「心配だから」なんて言われたら大丈夫だと突っぱねただろう。ご飯や風呂にしても、「俺がいないと」なんて言われたら馬鹿にするなと跳ね返したはずだ。新一はそもそも負けず嫌いなのだ。
しかし彼は「ノートを見せるついで」と言った。「一人で食べるより二人で食べる方が楽しいから」と言ってご飯を作り、「工藤んとこの風呂でかくて気持ちいいから借りたい」と言って風呂を焚いた。そうしていつの間にか、それが習慣となってしまっていた。
気づけばすっかり彼に甘やかされている。日本警察の救世主ともあろう者が。だがなによりの問題は、それを全く嫌だと感じていない新一自身だろう。
バスタブの中で膝を抱えながら、ちら、と新一は目を上げた。洗い場にはシャンプー、リンス、ボディーソープのボトルが並んでいる。壁には体を洗うタオルが掛かっている。その全てが友人によって揃えられたものだった。
極端に肌に合わないとか、匂いが我慢ならないとか。こだわりを持たない新一は特別な理由がない限り、シャンプーやボディーソープを買い換えることは滅多にない。しかしプロのマジシャンである友人には特別なこだわりがあるらしく、二年の付き合いの間で徐々に買い換えられていったのだ。
それはなにも風呂場に限った話ではない。長年使われなかったキッチンの惨状を知るや、鍋やらフライパンやら調理器具を新調し、更に買い物に行った先で気に入ったものを見つけると衝動買いをして。そうこうするうちに工藤邸には彼好みの日用雑貨がどんどん増えていった。彼専用のマグカップを始め、洗面所には歯ブラシやタオルもある。何を隠そう、用意されていたバスタオルも実は彼と色違いで揃えられたものだった。
――これじゃまるで同棲してるみたいだ。
顔の半分を湯に沈め、口から吐いた息を気泡にしてぶくぶくと泡を立てる。なんだか逆上せそうだ。新一は頭を振ってふやけた思考を一蹴した。
そんなことよりも、今はどうやって飲み会の話を断るのかを考えなければならない。誘われる度に理由を考えて断るのも面倒だから、なにか外で酒を飲めない理由を適当にでっち上げた方がいいだろう。どうせ飲むなら大勢で飲むより彼と二人で飲んだ方がずっと楽しいし気も楽だ。それに、酔った彼のあの恥ずかしい告白攻撃を人前でさらされるのはちょっと勘弁してほし……
「……ちょっと待て。あいつ、酔って告白なんかしちまったらヤバイじゃねーか!?」
本命がいると言っていた。もう三年も片思いだとも。
しかし黒羽快斗は非常によくモテる。砂鉄の中に放り込んだ磁石のように女を引っ掛ける男だ。本人が望む、望まずに関係なく、言い寄る女は山ほどいるだろう。そんな男から、たとえ酔った勢いとは言え告白なんかされた日には――
まずい。これはまずい。仕事関係ならまだしも、学友との飲み会なんてハメを外すために飲むようなものだ。彼が酔いつぶれるのは目に見えている。
――なんとしても、黒羽の飲み会参加を阻止しねーと!
新一は慌てて風呂から上がった。
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