蜜月のささやき






 濡れた髪も拭わずにルームウェアを着込んだ新一はリビングに直行した。既に廊下にまでご飯のいい匂いが漂っている。この匂いは豚汁だ。寒空の下で事件解決のために奔走していた新一には体が温まる最適の献立である。リビングに入ればテーブルに並んだ豚汁と炊き込みご飯と、それを配膳する友人が新一を迎えてくれた。
 お前、飲み会に参加すんのか。彼に会ったら真っ先に尋ねようと思っていた台詞を言おうと口を開くが、
「あー! なんで髪乾かしてこないんだよ、風邪ひくだろ!?」
 新一の声を飲み込むほどの奇声を上げながら友人が駆け寄ってきた。
「いや、これは、」
「夏じゃないんだから、油断してたらすぐに風邪ひいちまうぞ!」
「それより先に、」
「だーめ! 腹減ってるのは分かるけど、ご飯は髪乾かしてから!」
「そうじゃなくて、俺の話を……ぶっ」
 肩に引っ掛けていたバスタオルを頭から被せられ、がしがしと掻き回される。世話好きな友人は問答無用で新一の髪を拭き始めた。
「ちょっ…自分でできるって、黒羽!」
「いいからこの魔術師様に任せとけって♪」
 なにが楽しいのか、友人は鼻歌を歌い始めた。こうなったらもう彼はテコでも動かない。なんだか話を切り出すタイミングも逃してしまったし、新一は仕方なく彼の好きにさせることにした。なによりマジシャンのしなやかな指は気持ちいい。まるで事件で駆使した頭を揉みほぐされているようだ。
「こっち座って」
 すっかり大人しくなった新一の手を取り、彼はソファに誘導する。それから洗面所にドライヤーを取りに行き、どこからか取り出した耐熱用の櫛を使って丁寧に乾かし始めた。
 この、近頃流行りの「マイナスイオンドライヤー」というのも友人が買ってきたものである。これがどういう構造をしているのか、その知識は持っていたけれど、わざわざそれを買おうと思わないのは、単に新一がそういうものに無頓着だからだった。ただ髪を乾かすために櫛を使ったこともない。正直な話、自然乾燥してしまうことの方が多いくらいである。
 しかしそれを言えば説教を食らうのは分かりきっているので、口には出さない。心配性な友人は新一の体調管理には本人以上に気を遣ってくれているのだ。それもこれも普段の不摂生が災いして何度も彼の世話になったことが原因なので、自業自得だった。
 手持ち無沙汰に、自然と瞼が重くなる。強くも弱くもないドライヤーの風が丁度いい温かさで髪の間をすり抜けていく感触と、優しい指先がまるで撫でるように髪を梳いていく感触が、いっそ眠ってしまえと抗い難い暗示をかけている。難しい事件ではなかったが、普段と違う緊張と興奮を強いられた神経は間違いなく休息を求めていた。
 ――眠い……でもまだ飯も食ってねーし、それに黒羽に聞かなきゃならねーことがあるし……でも……ねむい……

「――はい、乾いたよ」

 眠りの海に沈みかけた意識を唐突に引き上げられて、新一は慌てて飛び起きた。眠るつもりなんかなかったのに、うっかり睡魔に白旗を揚げるところだった。というかほぼ完全降伏状態だった。現実世界に帰ってこられたのは奇跡に等しい。
 ソファの後ろに立っていたはずの友人はいつの間にか隣に座っていて、新一はその胸に頭を預けるようにして眠っていたらしい。
「わ、わりぃ…」
 起こしてくれてもよかったのに、と言った声は囁きに近かった。髪を乾かしてもらった上に彼を枕にしてしまうなんて、どれだけ彼に甘えれば気が済むのか。
 気まずさから遠慮がちに見上げれば、目の前の友人はなにやら顔を背けて肩を揺らしていた。
「黒羽?」
「く、工藤…お前鈍すぎ…」
「は?」
「自分でやっといてなんだけど、そんなんでちゃんと探偵が務まってんのか心配になるぜ」
「…なんの話だ?」
 寝ぼけてさえいなければ、今の会話で彼が何かをしでかしただろうことにも気づけたのだが、生憎とこの時の新一は眠気と心地よさで気が緩みきっていた。本気で分からずに首を傾げれば、彼は笑いを堪えた顔で鏡を差し出してきた。
「なんなんだよ」
 困惑顔でとりあえず鏡を覗き込んだ新一が――固まった。
 ぶはっ、と盛大に吹き出す声が隣からあがった。
「んなんだこれはっ!!!」
 ぴよぴよ。ふわふわ。そんな擬音が似合いそうなほど、新一の髪は見事にカールしていた。カーラーを巻かれた記憶はないから、おそらくこの櫛一本で見事なセットを施してくれたのだろう。全く以て才能の無駄遣いである。
「黒羽、てめぇなにしてくれてんだ!」
「い、いいじゃん、すげー似合ってるよ、工藤!」
「笑ってんじゃねええ!」
 目尻に涙を滲ませながら抱腹絶倒している友人を力一杯怒鳴りつける。新一の怒る様子がまた彼の笑いを助長させているのだろうが、生憎この怒りを収められるほど新一はまだ人間ができていなかった。と言うか、こんな仕打ちを受けても怒ってはならないと言うなら、人間など一生できなくたって構わない。
 眠ってしまったのはこちらの失態だが、それは彼に全幅の信頼を置いているからこそだったのだ。それをこんな形で返されるなんて――腹が立つ!
「もう知らねえ! お前なんか二度と家に入れてやるか!」
 頭から湯気を立ち上らせる新一に流石にまずいと思ったのか、友人は宥めにかかった。腹立たしいことに、彼は引き際もしっかり心得ているのだ。
「悪かった、工藤。もうやらない。そんなに怒るとは思わなくてさ」
「うるせえ、もう絶対信用しねえ」
「――ほんとだよ」
 馬鹿みたいに甘ったるい声を出して、彼は新一の手を掴んだ。掴んだと言っても振り払おうと思えばすぐに振り払える強さでだ。そこがまたこの男の嫌なところだった。新一が本気で嫌がることは絶対にしない。主導権はこちらにあると見せかけて、その実彼は分かっているのだ。どんな悪態を吐こうとも、結局のところ新一には彼の手ひとつ振り払えないということを。
 抵抗しないのをいいことに、彼は掴んだ手を引いて抱きしめた。これには流石に慌てて抜け出そうとするが、彼は更にも力を込めた。
「俺、工藤の世話焼くの、楽しくてしょうがないんだ」
「…はあ?」
 突拍子もない言葉に思わず抵抗を忘れて彼を見上げる。同い年の男の世話を焼いてなにが楽しいのだろう。新一なら自分のような面倒な男、絶対に世話などしたくない。
「工藤ってあんまり人に頼ったりしないだろ。探偵なんてしてると余計にさ。だからこうやって頼ってくれるのは俺だけなのかなとか思うと、特別っぽくてなんか嬉しい」
 だからつい出来心で…と歯を剥いて笑う友人に、新一は赤面した。
 誰か、誰でもいい、この男の口を塞いでくれ。布やガムテープなんかじゃ生温い、接着剤で貼り付けた上にまつり縫いしてやりたいくらいだ。ただ友人と話しているだけだというのに、なぜこんなに恥ずかしい思いをしなければならないのだろう。そんな甘ったるい台詞は女に言うべきだ。
「……もういい、とにかく飯にしよう。俺は疲れた」
「じゃあ温めなおしてくるよ、冷めちまったと思うから」
 お疲れさま。そう告げる友人は、事件ではなく彼の言動にこそ疲れてしまったのだとは思いもしないのだろう。探偵である新一以上に鋭いところがあるくせに、彼は変なところで鈍い。それでも自分のためにいそいそとご飯を温めなおしてくれる彼を見ていると、全部水に流してやってもいいか、なんて思ってしまう自分が一番まずい。
 手伝いもせずに仏頂面で鏡と睨めっこしていると、彼が笑いながら髪を撫でてきた。
「大丈夫だよ、十分もすれば元に戻るから」
 もともとドライヤーの熱で型をつけただけだから、放っておいても自然に落ちてしまうらしい。よかったと、腹の底から安堵した。



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