完璧な男は料理もうまい。彼の作ってくれた豚汁は母親が作るものよりも、それどころか幼馴染みが作るものよりも美味しかった。初恋の少女に夢見る男としては少々複雑である。
「お前が彼女と長続きしない理由って、なんでもできすぎるからじゃねーの?」
「そんなことねーよ。俺にだって苦手なものくらいある」
それは意外だ。ミスターパーフェクトにも苦手なものがあったとは。
不意にむくむくと好奇心が湧き上がる。旺盛すぎる好奇心で身を滅ぼしかけたというのに、こういうところは相変わらずだった。尤も、そうでなければ探偵などとっくに廃業しているだろうが。
「黒羽の苦手なものか…」
「こればっかりは工藤にも教えてやんないよ」
「バーロ、俺は探偵だぜ? 知りたいことは自力で暴く」
友人の顔が引きつった。完璧主義者の彼のことだ、自分の欠点を人に知られるなんてかなりの屈辱なのだろう。しかし常に一枚も二枚も上手である彼の弱みを握れるなんて、これほど楽しいこともない。食事中でありながら推理モードに突入してしまった新一に、ただ溜息を吐く彼は既に匙を投げていた。
正直、学問や技術面において彼が苦手とするものがあるとは思えない。彼に理解できないものは誰にも理解できないだろうし、彼が体得できない技術は人間の能力の限界を超えているのではないかとさえ思う。それとも、完璧すぎる演技力によって隠し通してきたのだろうか。
「そうなだ…おそらく、あまり多くの人が苦手とするものじゃないんじゃないか? 動物や心霊現象を怖がる人もいるけど、そういう一般的なものなら逆に自分のパーソナリティにしちまう奴だもんな、お前は。たぶんもっと珍しい、人に言いにくいものだ。違うか?」
「…自力で暴くんじゃなかったの?」
「尋問も立派な情報収集だろ。たとえ真実を口にしなくても、表情、仕草、気配からだっていろいろ読み取れる」
同じ心理学部に通う学生だ、それぐらい心得ているだろうに。余程人に知られたくないらしい。僅かに瞳に滲む動揺を見る限り、当たらずとも遠からずと言ったところか。今頃「苦手なものがあるなんて言わなきゃよかった」と後悔しているに違いない。
「…推理もいいけど、食わないと飯が冷めちまうぞ」
苦し紛れの誤魔化しだとは分かっていたが、ご飯に罪はないので、新一は大人しく止まっていた手を動かした。
だが、そこでふと気づいた。今日の献立は豚汁に炊き込みご飯と出汁巻き卵、それからつけ合わせにほうれん草のお浸し。典型的な和食だ。しかし定番と言えば定番のものがない。つまり――魚だ。まあ炊き込みご飯が主食とおかずを兼用しているようなものなので省いたところで問題はないが、決して小食とは言い難い成人男子二人の夕食にしてはややタンパク質が足りないような。
しかしよくよく考えてみれば、ここの食卓に和食が並ぶこと自体がとても珍しいことだった。新一自身は特に拘りもないのだが、海外生活の長い家庭環境ゆえに、これまで洋食を主とすることが多かった。気の利く友人はそこを考慮してくれたのだろうと勝手に思っていたのだが、もしや他の思惑があったのだろうか。記憶を遡ってみれば確かに一度も食卓で目にしたことがない――魚を。
「…黒羽。お前もしかして、」
「――皆まで言うな」
ご飯をじっと見つめたきり黙り込んでしまった新一になにかを察した彼は、気のせいではなく明らかに青ざめた表情で新一の口を塞いだ。あてがわれた指先は微かに震えてさえいる。
そんなに知られたくなかったのだろうか。おもしろ半分で暴くべきではなかったと心中で反省する新一の耳に、彼は弱々しく呟いた。
「俺の前でアレの名前は呼ばないでくれ。じゃないと……気絶する」
――は? …気絶?
思いも寄らなかった単語に、咄嗟に言葉が出ない。気絶と言えばショック症状の一例だ。余程の衝撃を受けるか、余程気の弱い人でなければそうそう陥らないと思うのだが。そしてこの友人は、お世辞にも気が弱いとは言えないと思うのだが。
「気絶ってお前…そりゃいくらなんでも大袈裟じゃ…」
「俺は大真面目だよ」
「…つーか名前聞いただけで気絶するなんて、そりゃもう好き嫌い以前の問題じゃねえか。なんかサカ」
「うわああああ!」
「……アレにトラウマでもあるのか?」
うっかり名前を口にしかけた途端、友人は頭ごと抱えるように耳を塞いでうずくまってしまった。カランカランと、箸が床に転がる音が虚しく響く。稀代のマジシャンの目尻には涙さえ浮かんでいる。
これは重症だ。気絶というのもあながち本当かも知れない。名前を聞くのも無理だというなら、実物を見せたら一体どうなるのか――脳裏を過ぎった疑問は、後生なので忘れてやることにする。
「……分かった。お前がどうしてそこまでひた隠しにするのか、その理由はよーく分かった」
ここまでくるともう死活問題だ。これがただの大学生なら問題ないが、新進気鋭の若手マジシャン、世界の黒羽快斗が魚で失神するとなれば世間が放っておいてくれないだろう。今までよくばれなかったものだと逆に感心してしまう。
とにかくこの話題にはこれ以上触れない方がよさそうだと、何か別の話題をと考え、新一はそこでようやく当初の予定を思い出した。
「あっ、そうだよ黒羽! お前ゼミの飲み会参加すんのか?」
「なんだよ急に…」
未ださっきの衝撃から立ち直れていないらしく、友人は珍しく疲れた顔をしていた。
「さっき言ってただろ、ゼミの奴らから飲み会に誘われたって。あれ、お前は参加すんのか?」
「ああ…他に予定がなければ参加するつもりだけど」
当然のように頷く友人。それもそのはずだ、彼にはあの晩の記憶がないのだから、酔った彼が何をしでかしたかなんて知る由もない。きっと記憶が吹き飛ぶほど飲んだことなどそうないのだろう。
あの晩の彼の箍が外れてしまったのは、新一にとっての彼がそうであるように、彼にとっても新一が気の置けない友人だったからだ。自惚れてもいいなら、毎日顔を突き合わせても飽きないほどには信頼されていると思う。
彼のような男がゼミの飲み会で酔いつぶれるなんて醜態をさらすとは思えないが、万が一ということもある。用心するに越したことはない。「あまり飲み過ぎるな」と忠告することも考えたけれど、もしその理由を聞かれたりなんかしたら、うまく誤魔化す自信はなかった。なんでもないふりをできるほど、新一はまだあの晩の衝撃を自分の中で消化しきれていなかった。
「それ、もう行くって言っちまったのか?」
「うん。たぶん工藤は行かないと思ったから、俺だけでも出とこうと思って」
それでは彼の参加を今更止めることもできないだろう。彼は自分のファンを大切にするように、友人もとても大切にしている。こうして甲斐甲斐しく新一の世話を焼いてくれるのもそのためだ。余程のことがなければ一度交わした約束を反故にしたりしない。
それに今回の参加を断らせたところで、他の飲み会に参加するなら同じことである。断らせるなら全ての誘いを断らせなければ意味がない。だが、そんなことができるはずもなかった。
それならもう奥の手を使うしかあるまいと、新一は腹を括った。即ち、
「――俺も行く」
自分が彼のストッパーを務める他ない、と。
彼は驚いて目を瞠った。
「えっ! 工藤はやめといた方がいいって!」
「俺だってゼミの仲間と親睦を深めたいんだよ」
「あからさまな嘘吐くなよ。そんなキャラじゃないだろ」
確かに「面倒くさい」と豪語していた男の台詞ではない。新一は仕方なく、別の方向から攻めることにした。
「だって、お前は平気なのかよ? 飲み会っつったら当然居酒屋だし、居酒屋っつったらアレの料理が出てくるじゃねーか」
「うっ…」
「もし勧められでもしたらどうすんだよ」
「ううっ…」
鈍い悲鳴をあげながら気の毒なくらい顔色が悪くなっていく友人。珍しく言い負かせそうだ。魚効果は絶大である。連打はできないが、ここぞという時には使えるかも知れない。
「だから、お前が自分の苦手なもん隠したいっつーなら協力してやっからさ。もしアレが出てきたら俺が食ってやるよ。今回だけに限らなくても、俺も知ってる奴との飲みなら付き合ってやれるしな」
「…でも…工藤にそんな迷惑かけられないよ」
「バーロ、お前だって言ってただろ。普段人に頼んねー奴が頼ってくれるのは嬉しいんだよ。俺は別に迷惑だなんて思ってねーし」
むしろ新一こそが心配なのだ。状況が分からずに家でハラハラしているより、現場で星を押さえていた方が性に合っている。
「…それに、いつも俺ばっかりお前に頼っちまってるからな。たまには俺もなにかしてやりたいだろ」
特に今日はまるで駄目だった。風呂の準備からご飯の用意までしてもらった上に髪まで乾かしてもらったなんて、まさに駄目な男のお手本である。いったい自分はいくつのガキだと、穴があったら入りたいくらいだ。
けれどそれも彼だからこそだった。彼の言葉を認めるのは癪だけれど、彼は確かに特別な存在だった。かつてこれほどまに気を許した人はいない。
「…ズルイな。そんな風に言われたら断れないじゃん」
友人は照れくさそうにはにかんだ。
新一は初めて、この相手から一本取った気分で笑った。
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