斯くて――新一の心配は的中していた。
目の前にはずらりと並んだ空のグラス、グラス、グラス。別に店員がさぼっているわけではない。単にペースが早すぎて手が回らないのだ。意識が正常な状態で初めて見る友人の酒豪ぶりに、新一を始めその場にいる誰もが驚きを隠せなかった。
「く、黒羽君て、すごくお酒に強いんだね…」
「そう? まだまだ数の内じゃないけどね」
「うそ…!」
意外にも庶民的な金銭感覚を持つ彼のこと、これが普通のオーダーであればもう少し自粛もするところだが、飲み放題とあっては元を取らなければ勿体ないとでも思っているのだろう。言葉に違わず、これだけ飲んでも彼は顔色ひとつ変えていなかった。
一方の新一も、アルコール度の低いカクテルを一杯飲んだだけなので、まるで酔っていない。ゼミの仲間には「いつ警視庁から呼び出しがあるか分からないから、一杯で止めておくことにしてるんだ」と尤もらしい言い訳をしてあるため、場が白けることもなかった。参加してくれただけでも十分だと彼らが思ってくれているから、というのもあるが、こうして友人が信じられないほどのハイペースで酒を飲み続けていることも理由のひとつだろう。酒を飲まない探偵より、酒に強いマジシャンに食いつくのは当然だった。そして、それが確信犯であることも。
「おい…あんま無茶すんなよ。酒に強いっつっても限界はあるんだ。それで病院送りにでもなったら笑えねーぞ」
「大丈夫だって。工藤の方こそ無理するなよ。しんどくなったら適当に話合わせて抜けようぜ」
彼にだけ聞こえるようにこっそりと耳打ちすれば、そんな台詞を返される。こんな時までこちらを気遣ってみせる友人に、新一は少し腹を立てた。
彼ときたら、こちらの心配など余所に、いざ料理を注文しようとなった時も、実に巧みな話術で彼らを誘導し、誰にも疑われることなく見事魚料理を避けてみせたのだ。きっと今までもこうしてひた隠しにしてきたのだろう。四六時中一緒にいる探偵の新一でさえ二年も気づかなかったのだから、ただの友人が気づくはずもない。
だが、新一が心配なのはそれだけじゃない。そろそろ酔いの回り始めた彼が誰彼構わず告白し始めるのではないかと思うと、気が気じゃない。もしこの場で告白劇なんてものを始められたら、これだけの目撃者の証言を覆すことは、如何に新一と言えども不可能だった。
ゼミの人数は自分と彼を入れて六人。内男が二人、女が二人という構成で、そのまま今日の飲み会のメンバーだ。そして次から次へと彼に話を振り続ける女性陣の目が完全に彼に向かっていることは、疑いようのない事実だった。
その状況に普通なら男性陣が怒りだしそうなものだが、彼らも彼らで有名マジシャンと親しくなりたいらしく、先ほどから必死に話し掛けている。その余波なのか、彼と仲がいい新一にまで彼女はいるのか休日にはなにをしているのかと話を振られ、返答に窮する度に、見かねた友人に助けられていた。
おかげで新一の機嫌は下降する一方である。別にちやほやされたいわけじゃないが、まるで彼と親しくなるための道具のように扱われるのは腹が立つ。親しくなりたければ、堂々と正面から向かっていけばいいのだ。
それなのに――
「工藤って米花に住んでるんだろ? 俺ん家、結構近いんだ。今度遊びに行ってもいいか?」
「あ、それなら俺も! 確か、中学の時から一人暮らしなんだろ? 飯とか困ってんじゃねーか?」
「あんたらばっかズルイ! あたしも工藤君ち行くー!」
「あたしおあたしも! 料理なら得意だし、任せて!」
どうして家の場所や、中学から一人暮らしだったことを知っているのか、とか。許可してもいないのに勝手に話を進めるな、とか。飯なら黒羽のおかげで間に合ってんだよ、とか。いろいろと言いたいことはあったが、女性陣と一緒になって姦しく騒ぐ彼らに、新一は心底辟易していた。そろそろ我慢も臨界点に近づいている。
すると、「ちょっとトイレ」と言って席を立った友人から携帯に電話が入り、新一は天の助けとばかりにその場を離れた。名残惜しそうな学友たちを放り出し、トイレに向かう。そこにはニヤリと口元を歪ませた友人が待っていた。
「サンキュー、黒羽。まじ助かった…」
ようやく息が吐けるとばかりに額を押さえながら溜息を吐けば、友人は「お疲れさん」と新一の頭をぽんぽんと撫でた。
「だから無理すんなって言ったのに」
「うるせー。あんなに話振られるとは思わなかったんだよ」
それも下らない話ばかりだ。別に彼らにこの友人ほどのレベルを求めるつもりはないが、もう少し実のある話でなければ、嫌でもこちらの意気も下がるというものだ。その理由が彼と親しくなりたいからとなれば、尚のこと。
すっかり憔悴した新一を見て、彼は苦笑を浮かべた。
「まあ仕方ないよ。みんな工藤のことが好きみたいだからね」
「は? 俺? なんで?」
「なんでって…」
「あいつらはお前と仲良くなりたいから俺に話振ってたんだよ。見てたら分かるだろ?」
ちょっと拗ねたように唇を尖らせれば、友人は――がっくりと肩を落とした。
「黒羽? どうした?」
「…鈍い鈍いとは思ってたけど…ここまでくるともう国宝級だよな…」
「はあ?」
一体なんの話だと眉を寄せる新一を、彼は唐突に抱きしめた。
うわ、と短い悲鳴を上げる。ここはいつ誰が入ってくるとも知れないトイレの中だ。普段からスキンシップ過剰な彼のこうした行為にも最近ではすっかり慣れつつある新一だが、ここは公共の場である。傍目にはどう映ることか。
振りほどけないほど強く拘束されているわけではないが、だからこそ慌てて振りほどくのもおかしい気がして、新一はただ彼の名を呼んだ。
「黒羽?」
「うん。安心して、工藤。俺の一番は工藤だから、誰にもとられたりしないよ」
「――ばっ!」
バーロー、誰もそんなこと言ってねーだろ。その言葉は、喉に詰まって出てこなかった。一瞬で真っ赤に染まり上がった新一は、見事なリンゴになっていた。
幼稚な独占欲を見抜かれていただけでも恥ずかしいのに――この男は、どうしてこうも吐く台詞の全てに砂糖をまぶすのだろうか。いや、砂糖なんて生温いものじゃない、これは蜂蜜だ。こんな蜂蜜漬けの言葉責めに遭った日には、胃がもたれるどころの話じゃなかった。
「お…お前は…そういう恥ずかしい台詞を真顔で言うなよ…」
「ほんとのことだからいいんだよ」
二の句が継げない新一の耳元に、彼は更なる蜜を投下する。
「だから工藤の一番も、俺のためにとっといてね…?」
新一は――堪らずに俯いた。もう顔は火事になっているのではないかと思うほど熱かった。今なら真冬のプールに飛び込んでもいいとさえ思う。
このおかしな状況に、新一は戸惑いを隠せなかった。こんな場所で男が二人抱き合って、しかも片方はこれ以上ないほど赤面しているなんて。
それともこれが普通の友人同士の戯れなのだろうか。こんなにドキドキするのが普通なのか。だったら、とても身がもたない。
「…俺の一番なんて、とっくにお前で埋まってんだよ」
「ほんと?」
「ああ…たぶん、これからも変わんねーよ」
自棄っぱちでそう言えば、友人はさっきの台詞なんて比べ物にならないくらい甘ったるい笑みを浮かべた。それはそれは幸せそうな微笑みだ。
「うれしい」
一言告げて、また抱きしめる。今度は優しく、包み込むように。
見たこともないその笑みに鼓動はまたも煩く跳ねたけれど、新一も遠慮がちに彼の背中に腕を回すと、思い切って抱きしめた。そうすれば彼がもっと喜ぶと分かっていたからだ。案の定、彼はこの上なく嬉しそうに新一を抱きしめる腕に力を込めた。
どれくらいそうしていたのか。きっと時間にすると僅か十秒にも満たない間だったのだろうけれど、永遠とも刹那とも感じた抱擁の後、彼はようやく新一を解放した。
「そろそろ戻らなきゃな」
「…ああ」
「あ、でも、工藤は電話ってことで抜けてきたんだよな。ならもう少し休んでいきなよ。で、警部に呼ばれたってことにして帰ろうぜ」
彼の提案は新一にとっても有り難かったので、素直に頷いた。これ以上学友たちの相手をするのも疲れるし、友人の気が確かな内に帰った方がいい。なにより、この紅潮した顔と乱れた鼓動をどうにかしなければ、とても人前になんて出られない。
独りになったトイレで、新一はほっと息を吐いた。結局彼に頼ってしまっている自分が情けなくなるが、当初の目的だけは果たせそうだ。
正直なところ、今日は楽しくなかった。あまり親しくない学友との食事は気を遣うばかりだし、まるで尋問のような質問攻めは、飲み会というより記者会見だった。そんな席で落ち着いて酒が飲めるはずがない。
それでも。
――俺の一番は、工藤だから。
思い出して、撃沈する。思わずしゃがみ込んで膝頭に埋めた顔は、再びリンゴになっていた。
あの言葉だけは嬉しかった。もの凄く、嬉しかった。あれを聞くためだけに今日の飲み会があったのだとしたら、今日あった全ての嫌な出来事を忘れてやってもいいとさえ思う。
「…一番、なんだ…」
口にすれば、じんわりと胸に広がっていく温もり。
一番の親友――それはたぶん、ずっと新一が欲しかったものだ。
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