昔から、新一の周りには常に人がいた。大女優だった藤峰有希子と世界的にも有名な推理作家工藤優作の子供である新一は、生まれた時からある意味では有名人だったからだ。将来は母親のような大物俳優になるのか、はたまた父親をも凌ぐ大作家になるのかと、周囲は期待を持って新一の成長を見守った。或いは有名人の子供として、両親とのコネクションを得たがる者ならそれこそ掃いて捨てるほどいた。
そう言うとまるで新一の人格を無視した者しかいないように聞こえるが、もちろん新一の人格に惹かれて寄ってきてくれる者もたくさんいた。グローバルな両親のお陰で海外を飛び回る幼少期を送った新一には、世界中に友人がいる。彼らは掛け替えのない友人だった。けれど、親友ではなかった。親友には成り得なかった。
なぜなら、新一の見ている世界が昔から人と違っていたからだ。それは成長するにつれてより顕著になり、物心がつく頃にはもう変えようもなく自分の中に根を下ろしていた。それを自分でも理解していたし、友人たちもまた理解していた。たったそれだけのことが、しかしどうしようもなく大きな溝だったのだ。
その溝を初めて跳び越えてきたのは服部平次だ。彼は新一と同じ探偵として、少なからず新一と同じ世界を見ていた。同じものを見て、同じものを求め、互いに互いを競い高め合う友人だった。
その服部でさえ親友になれなかった理由は――彼が新一を畏敬していたからだ。
人は自分と違う存在には恐れを抱く。それが自分を凌駕する存在であれば、畏敬を感じる。世界中にいる友人たちは皆、新一を「自分とは違う存在」と見ていた。新一と同じ世界を見る服部でさえ、「自分を凌駕する存在」だと感じていた。そんな不平等な友情を果たして友情と呼べるのか?
だから、新一は疾うに諦めていた。誰も自分の中の「一番」になれないように、自分も誰かの「一番」になれることはないのだと。
だが、その全てを黒羽快斗は覆した。
彼は完璧だった。何をやらせても人の十歩も百歩も先を歩いているような男だった。それでいて、何も特別なところがなかった。砂の中に紛れ込んだ金剛石でありながら、同時にただの石でもあった。彼は知っていたのだ。凡百の砂粒とて全ては異なった別個の存在であり、金剛石とてその価値を決める者がなければただの石礫に過ぎないことを。
だから、彼が新一にとっての「一番」になったのは当然のことだった。
その彼の「一番」に、自分もなれたのだという。
これほど嬉しいことはなかった。
「……そろそろ戻らねーとマズイな」
新一は立ち上がると、手洗い場の鏡で自分の顔を確認した。まだ赤みが残っているが、居酒屋特有の薄暗い照明がなんとか誤魔化してくれるだろう。むしろあまり遅れると心配性の友人が様子を見に来て、また同じことの繰り返しになりそうだ。
それで拭えると思ったわけではないが、新一はなんとなく右手の甲で赤い頬を一度だけ拭うと、よし、と気合いを入れてトイレを出た。
最近の居酒屋によくあるように、この店も個室を売りにした居酒屋だった。お陰でどんなに飲んで騒いでも仲間内にしか姿が見られない開放感からか、どこの個室もかなり盛り上がっている。
そこでハタと気づき、新一は戻る足取りを速めた。どれくらいの時間あの場でしゃがんでいたのか。一分か、それとも十分か。自分で思う以上に動揺していたらしく、普段は正確に働いている体内時計が完全に狂っていて、どのくらい時間をロスしたのか見当がつかない。
短ければいい、けれどもしも何分もあの場でぐだぐだしていたとなると、先に戻った大酒飲みの友人がまた盃を空けているかも知れない。気が利きすぎる彼のことだから、なかなか戻らない自分を待つ間を取り持つためにと無理をしているかも知れない。新一から見ても底の見えない胃袋を持った友人だが、確かにあの日、記憶をすっ飛ばした前科があるのだ。今日がそうならないとも限らない。
――頼むから、戻ったら告白現場でした、なんてのだけは勘弁してくれよ!
個室の扉はどこも同じ造りになっているが、自分たちの個室の位置を正確に覚えていた新一は躊躇いなく扉を開けた。するとそこには、告白現場こそなかったけれど、友人の前に悠然と並ぶ空きグラスの群れが。
やはり遅かったかとやや青ざめつつも、最悪の事態だけは免れたのだ。新一は「おかえり」と言って片手をあげる友人にちらりと目線を送り、ゼミの仲間たちに辞去の旨を告げた。
「悪いんだけど、警視庁から呼び出しがかかっちまったから、先に失礼させてもらうな」
「ええ〜! 工藤君、帰っちゃうの?」
「もっと話したかったのにー!」
「馬鹿、無理言うなって! もともとそういう約束で来てもらったんだから」
引き留めようと騒ぎ出した女の子たちも、男連中がうまく宥めてくれたお陰で納得してくれたらしい。
そこですかさず友人も立ち上がって。
「工藤が帰るなら俺も帰ろうかな」
すると今度こそその場はブーイングの嵐になった。当然だ、今日の主賓が事件かぶれの探偵に付き合って帰ろうというのだから。
彼を残していくわけにはいかないからとは言え、新一はなんだか申し訳なく思った。
「なんで黒羽君まで帰っちゃうのっ?」
「ごめんね。工藤も飲んでるし、一人で帰らせるのも心配だし」
「あ! それなら俺が送ってくけど! ホラ、結構家近いし!」
「いや、いいから。お前らは女の子たちに付き合ってあげてよ」
「で、でも黒羽ん家は江古田だろ? 俺なら同じ米花だし…」
「そ、そうそう、俺らよりお前が付き合ってやった方が絶対コイツら喜ぶし…」
……申し訳なく、思った、けれど。なんだかだんだん苛立ってもきた。
そんなに女の子たちと彼をくっつけたいのか、と。自分を送っていく、なんてあからさまな言い訳をしてまでも、と。
それは確かにこの友人はよくモテる。男として対抗心を持とうという気にもならないほどに、よくモテる。それならいっそ外野に回って囃し立てていた方が楽しいと感じる気持ちも分からなくはない。新一だとてこれがこの友人でなければ無責任に囃し立てていたかも知れない。
けれど、彼はだめだ。彼だけはだめなのだ。新一にとって「一番」の友人で、得難いことに彼もまた自分を「一番」と言ってくれる友人で。その彼が苦しい片恋をしていると知っていながら無責任な言葉を投げかけることなんてできるはずがない。
新一の中で何かが音を立てて崩れた。
有り体に言えば――キレた、のである。
「悪ぃけど、どうせ同じとこ帰るんだし、黒羽も連れて帰るよ」
言うなり、友人の手を掴んで歩き出す。飲み放題、食べ放題のコースということで始めから金額の決まっていた飲み会だったため、お金も最初に回収しているし、なんの問題もない。あるとすれば自分の態度こそ大問題だったが、もともとゼミ仲間というだけで特別親しくなるつもりもなかった彼らにどう思われようとどうでもよかった。
それよりも、だ。
羞恥で赤くなる顔をどうしてくれようかと、そればかりが新一の脳内を回っていた。
分かっていた。これは子供染みた嫉妬だ。大事な友人を誰にも取られたくないという、もの凄く子供っぽい独占欲だ。しかも、もしかせずともそれは彼の友人だけでなく、彼を好きだという女の子相手にまで感じていることに気づいてしまった。彼を引き留めようとする女の子たちにこそ、新一は苛立っていた。
「…工藤?」
常にない強引さに戸惑っているらしい友人が遠慮がちに声をかけてくる。その声が怒っていないことだけが唯一の救いだ。
新一は店を出て通りに出たところで足を留め、ずっと掴んでいた友人の手を離して振り返った。友人は、なぜか綻ぶように笑っていた。
「…悪い。ちょっと強引だったよな」
「ううん、すげー嬉しいよ? 同じとこに帰るって、お前ん家行ってもいいんだろ?」
「う、ん…だってお前、かなり飲んでたし…」
「へへ。工藤が迷わず俺を選んでくれて、すっげー嬉しい」
それは自分を送るの送らないのと言っていた彼らのことを言っているのだろうか。だとしたらとんだ的外れだと、新一は呆れた。彼らはこの友人と女の子たちをくっつけるためにあんなことを言い出したのだから。
それでも、怒るどころかなぜか喜んでくれたらしい友人に、新一も照れくさそうに笑い返した。
「じゃあタクシー拾って帰ろうぜ」
「うん。工藤も一杯だけだけど酒入ってるし、あんま体動かさねー方がいいもんな」
そこへ折良く通り掛かったタクシーを捕まえ、自宅の住所を告げ、二人並んで後部座席に乗り込んだ。
心地よい車の振動と何事も起きなかった安堵のためか、自然と瞼が重くなってついうとうとしていると、隣から伸びてきた手が当然のように頭を肩へと導いた。いつかの新一がそうしたように、今日は彼が枕になってくれるらしい。
新一はふと笑みを零して、それに甘えることにした。普段の自分ならつい意地を張ってしまうことでも、今日だけは素直になれそうな気がした。なぜって、ここにいるのは、新一の一番の親友なのだから。
――そうして微睡みの中に沈んでしまった新一は、だから知らなかったのだ。
二人のいなくなった居酒屋で、ゼミ仲間たちがこんな話をしていたことなど。
「……見たか? 黒羽のあの顔」
「み、見た……。笑ってんのに目が全然笑ってねーの。超コエー!」
「俺、思わず鳥肌立った……」
「馬鹿ねえ、工藤君にちょっかい出すからよ」
「そうそう。アンタらあの噂知らないの?」
「噂ってアレか?」
「そう、アレよ」
「てゆうか、うちの学部の子みんな言ってるじゃない」
「――黒羽君の本命は工藤君だ、って」
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