うとうとしていただけのつもりがいつの間にか本格的に寝入ってしまっていたことに気づいたのは、タクシーが家に着いた時だった。
「工藤。家に着いたぜ、工藤」
優しい手つきでやんわりと肩を揺すられながら声をかけられ、新一はうっすらと目を開けた。すぐ目の前に男前な友人の顔がある。
「ん……くろば……?」
「寝ぼけてるな。いいよ、寝てても。連れて降りてあげるから」
友人はくすりと笑みを零して、新一の前髪をさらりと掻き分けたかと思うと――あろうことか、額に口づけを落とした。しっとりと柔らかいその感触に、新一は一気に覚醒した。したが、目を見開いたまま硬直してしまった。
今、この男はなにをしたのか。
自分が寝ぼけていたのかとも本気で疑った新一だが、さっさと精算を済ませようとする友人の向こう、運転席から身を乗り出すようにこちらを振り返った運転手の顔が赤い。しかも目が合った瞬間、なぜか思いきり逸らされてしまった。
――見られた。
瞬時に理解した新一の顔が、一瞬にして染まり上がった。
恥ずかしい。いい年した男がこんなだるだるに甘やかされて、しかもおでこにキスなんて、お互いしか目に入っていない恋人同士だって滅多に人前ではしないようなことをされて。
なんで、どうしてと考えるけれど、スキンシップ魔である彼のこと、きっと深い意味などないのだろうとも新一には分かっていた。親が子供にそうするように、ただ親愛の情を示してくれたに違いない。なにせ彼は相当な量の酒を飲んでいるし、海外生活も長いのだから、愛情表現がグローバルになるのも仕方ないではないか。
誰にともなく心中で言い訳を言い連ねながら、新一はふらふらとタクシーを降りた。自分に負けず劣らず赤い顔をした運転手と同じ空間にいる苦行に、これ以上耐えられなかった。
だと言うのに一人マイペースな友人は、更にもとんでもないことをしでかしてくれるのだ。
「あ、こら、先に行くなよ、工藤。危ないだろ」
タクシーを降りようと車外に放り出した足を掬い上げるように腕を回したかと思うと、もう片方の腕を背中に回し、なんと姫抱きするように抱き上げたのだ。新一を、軽々と。
「な……っ!」
「酔っ払いがふらふら出てっちゃ危ないだろ」
自分などより余程飲んだ男が何を言っているのか。そもそもたった一杯で歩けなくなるほど酔うわけがないじゃないか。いや、それ以前に、なんで抱き上げられなきゃならないんだ!?
抵抗しようとした新一は、けれどその瞬間、ぽかんとこちらを見つめる運転手と目が合ってしまった。その目が雄弁に語っている。おでこにキス、その上抱っこだなんて、と。
最早言い訳の言葉もない。新一は運転手と見つめあったまま、カカーッ、と、二人して赤面した。
その上、
「部屋まで運んであげるから大人しくしてなって、お姫様」
などと、留めにそんな恥ずかしい台詞を耳元に吹き込まれるように囁かれて、いっそ腰が抜けそうになった新一はもうただただ彼にしがみつくことしかできなくて。
その後はへろへろと発進したタクシーが遠ざかって見えなくなるのをぼんやりと見送っている間に、新一は友人に抱き上げられたまま、玄関を潜ってリビングのソファまで運ばれていた。そして新一をソファに下ろした友人は何事もなかったかのように「風呂の準備してくるね」と部屋を出ていってしまった。
――疲れた。
新一はどっと押し寄せる疲労感に流されるまま、ソファに深く身を沈めた。
未だに頬が熱い。あの友人といることで顔から火を噴きそうな場面にもう数え切れないほど直面させられてきた新一だが、今日のはダントツで恥ずかしかった。恥ずかしさで死ねるなら今日だけで十回は死んでいる。今までの分を加算すれば……考えるだに恐ろしい。
けれど、恥ずかしくはあったけれど、不思議と嫌だとは思わないのだ。それはきっと彼の行動が全て好意によるものだと分かっているから。自分が男で彼の友人だからこそ恥ずかしいのであって、もし女で彼の恋人だったなら、彼のあのような行動もきっとなんの抵抗もなく受け入れられただろう。
あれを素でやれるのだから、全く以てモテるはずである。こんな男から告白されてそれを本気にしなかったという女の気が知れないと、新一は深く溜息を吐いた。
と、そこへ風呂の準備を終えたらしい友人が戻ってきた。
「風呂沸いたら入っといでよ、工藤」
「サンキュ。……オメーはどうすんの?」
「んー、風呂だけ借りよっかな」
そう言って新一の隣に腰かける。
だけ、と言うことは帰るつもりなのだろう。なんとなく機嫌が下向きになって、新一はぼそりと呟いた。
「……別に、泊まってけばいいのに」
今日は金曜だ。明日も明後日も大学は休みなのだし、素面に見えてもかなりの量を飲んでいるのだから、こんな夜中にわざわざ出ていかなくてもいいだろうと思ったのだが。
「――いいの?」
ぱあ、と、花が咲くようなその、嬉しそうな笑み。まるで満点のテストを親に褒められた子供のような、無邪気であけすけな笑みに、ドクン、と心臓が跳ねた。そのままドクドクと急速に回転数を上げていく。
なにが起きたのか、新一には分からなかった。
友人はただ笑っただけだ。いつも笑みの絶えない男だ、笑うことなど珍しくもない。それなのに、いつもとなにが違うのか。
「工藤がいいなら泊まっていきたい」
「あ、ああ、もちろん構わねーよ」
「やった♪」
ぎゅう、と抱きついてくる友人に、更に心臓が跳ね上がった。それどころか、きゅう、と締め付けられるような痛みまで覚える。いったい自分の体はどうなってしまったのか。彼に引っ付かれているだけでどんどん胸が苦しくなる。
そんな新一の不調を悟ったわけではないだろうが、彼は体を離すと「けど俺、どこで寝たらいい?」と聞いてきた。
「急な話だし、客間も用意できてないよな」
「ああ…そういや、シーツ引っ剥がしてそのままだったかな」
「でも今から準備したんじゃ大変だよな」
うーん、と悩む友人の隣で、新一は話題が逸れたことにこっそり安堵していた。あのままあの笑顔の友人に抱き付かれたままでいれば、きっと新一は一生分の脈拍を使い切ってしまったことだろう。その先にあるのはやはり死だ。恥ずかし死にしたり心臓を使い切ったりと、この友人といると本当に心臓がいくつあっても足りない。
けれど、逸れたと思った話題はとんでもないカーブを描いて戻ってきた。
「じゃあさ、工藤のベッドで一緒に寝ていい?」
「へっ?」
思わず素っ頓狂な声が出た。しかも声は裏返った。それぐらい、予想外な言葉だった。
「ダメ?」
「え、あ、その…」
「ダメなら、ここのソファで我慢するけど…」
そんな殊勝な台詞を、こんな捨てられた子犬のような顔で言われて、「じゃあそうしよう」などと宣えるほど豪胆な人間がどれほどいるだろう。いや、世の中には大勢いるかも知れないが、少なくとも新一には無理だった。だって彼は新一の大事な……一番の……
――一番の親友だからって、ひとつのベッドで寝るものなのか?
二十歳も過ぎた男二人が、果たしてひとつのベッドで寝るだろうか?
ふと冷静になりかけた思考は、けれどすぐに友人の追い打ちによって霧散してしまった。
「ごめん、やっぱ嫌だよな。俺と一緒に寝るなんて…」
しゅんと項垂れ、馬鹿なことを言ったとでも言うように目を伏せる友人。捨てられ、その上道行く人に総スカンを食らった子犬のようだ。
気づけば新一は力一杯否定していた。
「嫌なわけねーだろ!」
「…ほんと?」
「本当だ」
「…気ぃ遣ってねえ?」
「気ぃ遣ってんのはオメーだろ。大体、ソファで寝かすくらいなら泊まってけなんて言わねーよ」
我ながら尤もな反論だと頷く。そもそも泊まっていけと誘ったのは自分なのだから、彼をもてなすのは当然のことなのだ、と。
そこで「じゃあ手間でもいいから客間を用意しよう」という考えに至らない辺り、見事な墓穴を掘ったわけなのだが、その時の新一はそのことに全く気づきもせず。
「ありがと、工藤」
と言って嬉しそうに笑う友人に満足そうに頷いた。
「じゃあ風呂入っといでよ。そろそろ沸いたと思うし」
「そうだな。あ、疲れてたら先に部屋行っててかまわねーから。書斎で時間潰しててもいいし」
彼のことだから、新一の許可がなければいつまでもこの部屋にいるだろう。キッチンや風呂場はまだしも、新一の自室や書斎などのプライベートな空間には、彼は決して無断では入らなかった。無頓着そうに見えて、そういうところは妙に気を遣う男なのだ。
「ありがと。じゃあさ、この間開けたウイスキーもらっててもいい?」
「お前、まだ飲む気かよ!」
「だって、あんまり飲んだ気しねーんだもん。外で飲むより工藤と飲む方が楽しいし」
そんなことを言ってむくれる男を、いったい誰が責められようか。新一はなんだかムズムズした。それはまさに今日、新一が思っていたことだった。
新一は滲み出しそうになる嬉しさをなんとか仏頂面の奥に仕舞い込み、なんでもないように、殊更無愛想にこう言うだけで精一杯だった。
「……好きにしろ」
back // top // next |