風呂から上がった新一は、早速後悔していた。なにをって、もちろんアレだ。一緒のベッドで寝ようなどと約束してしまった自分の馬鹿さについてと、友人に飲酒を許してしまった自分の愚かさについて、だ。
彼は新一の部屋にいた。リビングの灯りが消えていたから部屋にいるのだろうと当たりを付け、彼に風呂を勧めるために、新一は湯上がりにバスローブを引っ掛けた姿でさっさと部屋に上がった。案の定、友人はそこで宣言通りにウイスキーを飲んでいたのだが……
「しんいち……」
忘れもしないあの日、あの夜、新一の脳髄を掻き回し、掻き乱し、シナプスに甚だしい障害をもたらしたあの艶めいた低い声が、新一の名を呼ぶ。
その瞬間、新一は悟った。
――この男は酔っている。
普段、彼は新一のことをファミリーネームで呼ぶ。別に呼び方にこだわりがあるわけではないが、呼ばれ慣れないからこそ、ファーストネームで呼ばれたただ一度の記憶は新一の中にきっちりと刻み込まれていた。そしてその記憶は固く封印したはずのあの台詞までもを甦らせるのだ。
愛してるよ、しんいち――と。
その途端、新一の体温は急上昇した。アドレナリンが噴出し、心臓が信じられない速さで暴れ出す。彼の声で呼ばれる自分の名前、その響きを思い出すだけで、新一の体は己の意志を離れて制御不能に陥る。
こうなると分かっていたから封印したのに。
またあの恥ずかしい告白攻撃にさらされるのだろうか。そうだとして、自分はそれに耐えきれるだろうか。あの時のように逃げ出そうにも、ここが新一の部屋なのだ。どこにも逃げ場はない。
そうこうして新一が狼狽えている隙に、いつの間にか新一の手を取っていた友人はそっとその手を引き、ベッドに腰かける彼の腕の中へと閉じ込めていた。
新一は慌てた。このままでは本当にあの夜の二の舞だ。
「くっ、くくく黒羽! 風呂、風呂空いたから! 入って来いよ!」
「今は風呂よりしんいちがいい」
「バ、バーロ、お湯が冷めちまうだろ!」
「なら、しんいちが温めて…?」
「――こ、の、酔っ払いめ……!」
風呂上がりの所為ばかりでなく、体は燃えるように熱かった。その熱を分けてもらおうとでもいうように、友人の体が更に密着する。既に心臓は全力疾走だ。
なぜこんなことになったのか。新一は必死に考えた。
居酒屋で飲んでいた時の彼は、酔った素振りなどまるで見せなかった。それどころか家に帰ってきた時に新一を抱き上げて運んだほどだ。その時の足取りにもなんら怪しいところはなかったように思う。やや記憶が曖昧なのは友人の奇行に疲弊していた所為である。
それなのに、風呂から上がってみれば彼は完全に酔っていた。相変わらず顔には一切出ていないが、サイドテーブルに置かれたウイスキーのボトルは確実にその残量を減らしている。
けれど、新一が風呂に入っていたのは精々二十分ほどだ。長風呂好きな新一だが、客を待たせて長湯もあるまいと早めに出た。それなのに。
「しんいち……大好き、しんいち……」
ぴたりと頬をくっつけて、鼓膜に直接吹き込むように睦言を囁き続ける友人。
新一はぎゅっと目を瞑った。熱く掠れた声が鼓膜を通じて骨の髄までもを震わせ、四肢から力を根こそぎ奪っていく。ここから抜け出すどころか、もう立ってさえいられない。
「黒羽……も、放せ……」
「だめだよ。俺から離れないで? 誰よりも俺の一番近くにいて」
そう言って彼は、手も、体も、グズグズに溶けてひとつになってしまいそうなほど、隙間なく体を密着させた。今や新一は彼の膝の上に向かい合って乗り上げている形で、背中にきつく回された腕は僅かな胸の隙間さえ許せないとばかりに抱き寄せている。
新一は眩暈を覚えた。近すぎる体の所為か、甘すぎるその言葉の所為か。きっとその両方だ。
酔っ払いの戯れ言だと分かっているのに、勘違いしそうになる。誰よりも彼の一番近くにいていいのだと。誰も、家族も友人も恋人も、誰ひとり入り込む隙がないほどこうしてきつく抱き合い、取り返しがつかないほどの近さで触れ合っていてもいいのだと。
だって、本当は自分だって離れたくない。自分の一番近くには、彼にこそいて欲しい。
そうして、また、吹き込まれる。
甘く、熱く、とろけるような――蜜を。
「俺の全てで、お前を愛してあげる」
きゅう、と胸が締め付けられた。同時に、とろりと、何かが溶け出した。
それは胸の奥から溢れ出し、蜜が流れ出すような焦れったさで、ゆっくりと全身を浸していく。
もう、なにも、考えられない。
「……かい、と……」
未だかつて呼んだことのない名を囁けば、彼は驚いたように目を見開いた後、今まで見た中で一番幸せそうに微笑んで。それはそれは嬉しそうに微笑んで。
「うれしい。もっと、呼んで」
と、囁いて。
背中に回されていたはずの手が頬を包んでいた。くっついていたはずの頬は離され、正面から目と目が合った。額を合わせ、くすぐるように鼻先を擦りつけられて。そして。
彼の目が、閉ざされた。
その直後、唇に温かい感触を覚えた。
――なにも、考えられなかった。
軽く触れた唇が離れ、閉ざされた目が開かれ。じっとりと見つめてくる熱っぽい瞳を呆然と見返せば、今度は目を開けたまま、薄く開かれた唇が食むように何度も啄んできて。
それがキスだと気づいた頃には、他人の舌を口内いっぱいに迎え入れていた。
「ふ……っ」
苦しかった。口の中を知らない肉が暴れ回っている。
それでいて、優しかった。どうしていいのか分からずただ縮こまるしかない新一の舌を彼はやんわりと撫で、包み込み、そっと巻き込んでいく。
蜜をささやき続ける舌は、やはり甘かった。触れる先からとろとろにとかされていった。
新一はその甘さに酔いしれるように目を閉じ、そして――
気がつけば、朝だった。
やわらかく降り注ぐ日差しと優しく抱きしめる腕の中で、新一は目覚めた。
眠る新一を背中から包み込むように抱きしめて眠る友人。項にかかる吐息がくすぐったくとも、脇から差し込まれた両手がしっかりと腹の前で交差しているため、身動きも取れない。
初めはなにがどうなったのかまるで分からなかった新一だが、徐々に覚醒するにつれて昨夜の記憶が甦り、新一は言葉もなく身悶えた。
自分はいったいなにをしているのか。酔っ払いに流されて、あろうことか、友人と、その――キス、をしてしまっただなんて。
思い出すだけで消え入りそうになる。もうどんな顔をして彼に会えばいいのか。いや、会うもなにもすぐ後ろで密着して寝ているのだが。
とにかく、なぜこんなことになったのかと、新一は昨夜に続いて必死に考えた。昨日は友人の蜂蜜攻撃の所為で途中から意識を吹っ飛ばしてしまったが、今なら蜂蜜男は夢の中だ。考えるなら今しかない。
そもそも新一は男である。いくら酔っているからといって、男相手に告白できるものだろうか。あまつさえ、キス、をするなんて。人工呼吸でもない限り、新一には無理だ。それも、あんな舌を絡め合うようなキス、なんて。
思い出しかけて、新一は慌てて頭を振った。駄目だ。あの記憶も早々に封印しなければ。文明人らしい生活が送れなくなってしまう。
所々で脱線しつつも、新一はあるひとつの結論に達した。
非常に不本意ではあるが、それはおそらく母親似のこの顔の所為ではないか。
新一の母親は日本の元大女優で、引退して二十年経った今でも根強いファンを抱えている。その元大女優に似た顔を、不本意ながらも女と間違えられたのではないか、と。
人前では絶対に酔ったりしない友人だが、どうやら新一の前でだけは気が緩んでしまうようだし、酔った頭でなら自分を女と見間違うことも有り得ないことではないだろう。
一応の理由に思い当たった新一は、昨日の記憶を綺麗さっぱり忘れることに決めた。
友人相手に告白することだって十分恥ずかしいのに、その上キスまでしてしまったなんて、それを知れば彼はきっと落ち込んでしまうだろう。新一自身は犬に噛まれたとでも思えば済むことだが、きっと優しい彼は必要以上に気にしてくれるだろうから。
だから、ようやく友人が目覚めた時、新一は昨夜のことなどまるでなかったかのように平然と笑いながらこう言ったのだ。
「おはよう、黒羽。覚えてないだろうけど、お前、昨日は随分酔ってたみたいで、風呂も入らず寝ちまったんだよ。だから、よかったら朝風呂してこいよ」
その時の友人の顔を、なんと言えばいいのか。呆然と、まるで信じられないものでも見るような、それでいてなぜか今にも泣き出しそうにも見えて、新一は首を傾げた。酔って記憶を飛ばしてしまったことがそんなにもショックだったのだろうか、と。
結局、何度か口を開こうと試みた友人はなにも言わずに、なんだかひどく肩を落としながらすごすごと風呂場へ消えていった。
その背中を見送る新一の頬は、ほんのりと赤かった。
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