蜜月のささやき






 あれから、また数日が経った。
 あの日は一日中様子がおかしかった友人だが――というのも、なにか言いかけては口を閉ざしたり、なにかを訴えるようにじっとこちらを見つめてきたりしたのだが――翌日にはもういつも通りの彼に戻っていた。
 そのことに新一は内心でほっと安堵した。たとえ友人の頭からあの晩の記憶がすっぽりと抜け落ちていようとも、新一の優秀な頭脳は鮮明に覚えていた。彼の言葉も、彼の体温も、――唇の感触も。
 不意に思い出しかけて頭を振る。諸々のマズイ記憶とともに封印したはずなのに、こうして時折ひょっこりと顔を覗かせるのは、やはり脳みそのデキが宜しいからだろう。こんな時ばかりは優秀すぎる頭脳も考え物だ。
 それに、だ。
 彼に無言で見つめられると落ち着かないのだ。
 まさか――まさか――覚えているのではないか、と。酔って自分に迫った挙げ句、キス、してしまったことを覚えているのではないか、と。そう思うと、恥ずかしく感じるどころか、肝が冷えた。
 酔っ払いの勢いに流されたとは言え、抱き寄せられ、抱き締められ、好きだの愛してるだのと散々囁かれ。それだけでも有り得ないほどに恥ずかしいのに、彼にせがまれるまま、何度も何度も彼の名前を呼んだ。挙げ句が、キスだ。それも一度や二度ではない。自分の記憶が確かなら、酸欠やら精神的なオーバーロードやらで自分の意識が吹っ飛ぶまでの数十分間、ずっとキスし続けていたのだ。
 自分も酒が入っていたとは言え、新一が飲んだのはたった一杯のカクテルだ。抵抗しようと思えばいくらでもできたはずだ。彼を突き飛ばすことだって、最悪、蹴って気絶させることだってできたはずだ。
 それなのに。
 新一が取った行動と言えば、酔って自分を女と勘違いしている彼にただひたすら流されて、未だかつて誰とも交わしたこともないような濃密なキスを延々と交わし、意識をすっ飛ばした上に彼の腕の中に抱かれて眠りこけて。
 そんな自分のとんでもない大失態を万が一にも覚えられていた日には、もう顔も合わせられない。
 いや、新一に気を遣ってなにも言わないだけで、本当はもう呆れられているのかも知れない。
 そうして悩み出せばキリがなかった。
 だから、あれから数日、彼の態度が普段のそれのままであることに、新一は心底ほっとした。まだ彼と友人でいられるのだ、と。

「――工藤。工藤ってば」
 間近から声をかけられ、新一の肩がびくりと跳ね上がった。気づけばたった五センチほどの距離に友人の顔があり、下から見上げるようにこちらを見つめている。
 顔の近さにも驚いたが、吸い寄せられるようにその唇を凝視してしまい、新一は慌てて視線を逸らした。
 意識しているとバレたら駄目だ。新一はなるべく平静を装った。
「ななななんだよ」
 ……なるべく、だ。どんなに頑張ってもどもってしまうのだから仕方ないじゃないか。バコバコ煩い心臓も赤くなる顔も、もうどうしようもない。
「なにって、もう講義終わってるんだけど……教室移動しねーの?」
「……へ?」
 そう言われてきょろりと周りを見渡せば、教授の姿は疾うになく、学生の姿もまばらにしかない。どうやら思考に没頭している内に講義は終わってしまっていたらしい。特別真面目に聴講しているわけではないが、一時間まるまる意識を飛ばしていた自分に自分で呆れてしまう。
 唖然とする新一を心配してくれたのか、友人は存外真面目な顔で新一を見つめてきた。
「ここのところよくぼーっとしてるよな。顔も赤いし、熱でもあるんじゃねーのか?」
「そっ、そんなことねーよ」
「ほんとに?」
 諸悪の根元たる友人が疑わしげに眉を寄せる。しかし「オメーの所為だろ!」と怒鳴ってやることもできない。
 本当だ、と頷く新一だったが、新一の言葉だけでは信用できないと思ったのか、友人はさらりと前髪を掻き上げたかと思うと、新一の額と自分のそれをコツンと合わせてきた。
 新一は絶句した。
 だってこの距離は、忘れもしないあの晩、とろけそうな愛を囁きながら新一の唇を何度も奪った時と同じ距離だ。ほんの少し動いただけで簡単に唇が触れてしまう、それほどの距離だ。
「――っ!」
 新一の顔が一瞬にして茹で上がった。頭の中までも沸き返る。
 直にその変化を感じ取った友人が慌てたように言った。
「工藤、すごい熱だ。お前、ほんとは具合悪いんだろ?」
「う……そ、そう、かも……」
 なんでもいいからもう離して欲しい。
 その一心で適当なことを言った新一だったが。
「なら、医務室に行った方がいいな」
 言うなり友人はまたも新一を抱き上げ、多くの学生が見守る中、医務室へと向かって駆けだした。
 まだ教室に残っていた女生徒たちから黄色い悲鳴があがる。
 咄嗟に反応できなかった新一はその悲鳴で我に返り、こちらを見ながらきゃあきゃあと騒ぐ彼女たちに気づくと、とんでもないことをしでかしてくれた友人の腕の中から逃れようと暴れ出した。
「くっ、黒羽! なにしてんだよっ、自分で歩ける!」
「馬鹿言うな。そんな熱で、階段でも踏み外したらどうすんだよ」
 顔が赤いのは熱の所為じゃない、誰がそんなドジ踏むか、と思った新一だったが、動揺しまくった今なら有り得ないことでもないような気がして、思わず口籠もる。
 その隙に友人は人ひとり抱き上げてるとはとても思えない身軽さで階段を駆け下りていく。
 道々すれ違う学生たちの驚いたような顔が見ていられなくて、新一はもういっそ人事不省状態を装ってしまえと、顔を隠すように快斗の胸に頭を預けた。
 大して体格も変わらないはずの同い年の男に軽々と抱え上げられてしまう事実は悔しいが、自分のことを心配してのことだと思えば怒る気も失せてしまう。新一だって彼が熱を出して倒れていれば、無茶でもなんでも抱えて運ぶくらいのことはするだろう。
 そうしてひたすら羞恥に耐えている間に医務室に到着し、両手の塞がっている友人は器用にも足で扉を開けると中へ入った。
「あら、黒羽君?」
 常駐の保険医はすぐに訪問者に気づいた。
「どうしたの……って、工藤君っ?」
「すみません、ちょっと熱があるみたいなんで寝かせてやってもいいですか?」
 そう言うなり友人は保険医の返事も聞かずにさっさとベッドに新一を下ろした。
 別に具合が悪いわけでもなんでもない新一はおろおろしている保険医を申し訳なく思ったが、ここまで友人に抱き上げられて運ばれてしまった手前、せめて病人らしく振る舞わなければそんなことをされた理由がなくなってしまうからと、大人しくベッドを拝借することにした。
「熱って……風邪かしら? 解熱剤でも処方しましょうか?」
「いえ、俺が看てるから大丈夫ですよ」
「なに言ってるの。貴方は医者じゃないでしょう? それに授業だって……」
「工藤のことなら先生よりも俺の方が詳しいですよ。主治医からもよろしく頼まれてるし、下手な薬を投与されても困りますから」
 医者の勤めを果たそうとした保険医を、友人はばっさりと両断した。
 だがそれも仕方ない。新一は例のAPTX4869の影響で安易に薬物を摂取できない体になっていた。
 もちろんそんな毒薬を飲んだことや新一が小学一年生の体に縮んでしまっていたことを友人が知る由はなかったが、常に一緒に行動し、何度も無茶をして寝込んだところを介抱される内に、今では主治医である宮野志保からもすっかり保護者として認定されている。そのため、どれが摂取可能な薬物なのかなど、新一よりも詳しいくらいだった。
「工藤のことは俺に任せて下さい」
 にっこりと、妙に迫力のある笑みで見返され、気の毒な保険医はたじろいだ。
 普段は無駄に愛想がいいくせに、この友人は健康面には殊更煩いのだ。新一が捜査協力で倒れた時など、いったいなにを言われたのか、青ざめた目暮警部に土下座する勢いで謝られたこともあった。
 気の毒な保険医がすごすごと引き下がると、友人はカーテンを引いて即席個室を作り、新一の髪をさらりと撫でてきた。
「工藤、大丈夫か? 辛くない?」
「……平気、だ」
 頭に昇っていた血もだいぶ下がってきたし、もともと体調など悪くないのだから全く問題ない。髪を梳く友人の手つきのあまりの優しさに、また熱がぶり返しそうではあったけれど。
 すると友人は心底ほっとしたように柔らかい笑みを浮かべた。
「よかった……頼むから無茶だけはするなよ。俺はいつだって工藤のこと、心配してるんだから」
「バーロー、俺はそんなにヤワじゃねーよ」
 負けず嫌いが顔を出して思わず反論すれば、友人は苦笑しながら掌でそっと頬に触れた。
「そういうことじゃなくて。工藤のことが大好きで、大事だから」
 そのままするすると頬を撫でられ、新一の熱は一気にぶり返した。
 だから、どうしてこの男はそういう台詞を臆面もなく吐けるのか。「大好き」なんて、普通、友だち同士で言ったりするだろうか。
「バっ、バーロ! そういうのは、だから、おお女に言えってんだ…!」
「言わないよ。俺の一番は工藤だって言っただろ?」
 するりと、頬を撫でていた手が額に伸び、前髪を掻き上げる。そのまま覆い被さるように上体を屈めてきた彼がなにをするつもりなのかと、新一は近づいてくる顔に耐えきれずにぎゅっと目を瞑った。
 心臓がまた馬鹿になっている。顔どころか体中熱くて、いっそ燃えてしまえば水をかけてもらえるのにと、馬鹿なことを思った。そうすればこのどうしようもない熱も引いてくれるかも知れない。
 けれど、もちろん彼が水を浴びせてくれるはずもなく、降ってきたのは彼の唇だった。
 額に、瞼に、鼻先に、頬に。羽根のような優しさで何度も降り注ぐそれに、新一の体温はいや増すばかりだ。
「ちょ……、なに、して……!」
「ん……早く元気になるように、おまじない」
 全く逆効果だとも知らず、友人の『おまじない』は続く。
 けれど唇のすぐ横にまで『おまじない』をされ、新一は焦った。酔っている時ならまだしも、素面の時にキスをしたのでは冗談にならない。
 焦って目を開けた新一は、けれど。

「――大好き、新一」

 そう言ってやけに男くさく笑った友人の顔が、目の前で。
 抗う暇もなく、新一の唇は彼のそれで塞がれていた。



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