蜜月のささやき






 なにが起きているのか。どうしてこんなことになっているのか。
 口内に忍び込んだ舌を拒むことも押し返すこともできず、新一はただ必死で考えていた。
 友人の口と自分の口がくっついていて、舌と舌が絡んでいるということは、これはキスなのだろうか。だとすれば、どうしてそんなことをしているのか。
 普通、友人同士でキスはしないだろう。服部の顔を思い浮かべてみて、新一はすぐにその顔にバツをした。
 ――有り得ない。想像しただけで鳥肌が立った。
 服部だって決して顔は悪くない。この友人に比べれば落ちるが、裏表のない笑顔には好印象を持てるし、性格的にもいい奴だ。ちょっと煩いが。
 それでも、服部と顔面を五センチ以下の距離に近づけることなどできそうもなかった。どうすればそんな状況に陥るのかも想像つかないが、もしそんなことになろうものなら防衛本能が働いて蹴り飛ばしてしまうに違いない。この上マイナスなんて論外だ。有り得ない。とんでもない。冗談じゃない。
 そんな勝手な想像でおののいていると、新一の気が逸れたことに気づいたのか、友人はキスを一層深いものへと変えた。
「……ん、ん……っ」
 あまりの気持ちよさに思わず声が漏れる。甘ったるい、鼻から抜けるようなそれが恥ずかしくて、けれど振り払って逃げ出したいとは思えなくて。
 服部相手では想像しただけで鳥肌が立つのに、なぜか彼とするキスは平気だった。それどころか、もっとそうしていたいとまで思った。
 彼と服部と、いったいなにが違うのか。程度の差はあれど、同じ男前で、同じ気の置けない友人で。それなのに服部は駄目で、彼なら平気なのはなぜなのか。
 一番の親友だからなのか。
 それとも――もう散々にキスをした所為で、感覚が麻痺してしまったのか。
 けれどそれは新一の話で、友人にその記憶はないはずだった。酔って新一を女と見間違えてキスをして、そして彼は記憶を吹っ飛ばしてしまったはずだった。
 それなのに、どうして酔ってもいない今、こんなことになっているのか。
「んっ、……ろば、も、はなせ……っ」
「……違うだろ? ちゃんと、呼んで?」
 なんとか唇から逃れれば、友人はそっぽを向いて露わになった耳朶に吹き込むようにそう囁いた。
 背筋がぞくぞくして、なにも考えられなくなる。頭の中を彼の声だけが木霊している。
「しんいち……?」
 懇願するように名前を呼ばれ、新一は友人の服をぎゅっと握り締めた。
 なにを求められているのかは分かっているつもりだ。彼は名前を呼ばれたがっていた。
 けれど、ここで彼の名前を呼んでしまえばなんだかいろんなものが変わってしまいそうで、簡単に口にすることができなかった。
 もし呼んでしまえば――きっと新一にはもう、彼を拒むことができなくなる。こんな風に名前を呼ばれ、抱き締められ、キスされることを。それどころか、自分から求めてしまうかも知れない。
 だって、彼の腕の中は堪らなく心地いいのだ。全身で己を求めてくれているのが分かるから、安心して全てを委ねることができる。それに、人気者で愛想もいいくせに、肝心なところには誰も踏み込ませないこの男が、自分にだけは甘えた顔を見せてくれるのが、実はなによりも嬉しい。自分が彼の特別だと、何度も言われたその言葉をまるで体現されているようで。
 だから困るのだ。だって勘違いしたくなる。自分が彼の特別なら、彼を自分のものにしてしまってもいいじゃないかと思いそうになる。誰にも――彼の友人にも、彼を好きだという女の子たちにも、あまつさえ彼が片思いをしている相手にさえも、渡したくなくなってしまう。
 友人相手にこんな独占欲を抱く自分は、どこかおかしいのかも知れない。
 だからそれを秘密するためにも、彼の名前を呼ぶことはできない。
 それでも、だ。
「しんいち……」
 寂しそうに零される声があまりに切なくて、新一は服を掴んでいた手を背中に回すと、ぎゅっと抱き締めた。
 驚いたように一瞬固まった友人も、すぐに新一以上の力を込めて抱き締め返してくる。まるで温もりに餓えた捨て犬のようだ。
 誰からも好かれているくせに、この男は自分なんかを一番にして、自分に名前を呼んでもらえないだけでこんなにも寂しそうな声を出すのだ。
 彼のそんな声を聞いていると、なにもかもどうでもよくなってしまう。
 だって彼は自分の一番の友人で、彼の望むことなら、自分はどんなことでも叶えてやりたいと思っているのだから。
「お願い、しんいち……」
 トドメのお強請りに、覚悟を決めた新一が思い切ってその音を声に乗せようとした、その時。

「……か、」

「――すみませーん、黒羽君いますか?」

 ガラガラと引き戸が引かれる音と同時に友人の名を呼ぶ声が聞こえ、新一は息ごと声を飲み込んだ。
 その瞬間、一気に現実が戻ってくる。
 大学の医務室のベッドの上、今にも顔と顔がくっつきそうな距離で友人と抱き合って、名前を呼ぶ呼ばないのと、まるで恋人同士の睦言のような会話を交わして。
 自覚すると同時に一気に熱が再発した。いや、忘れていた熱を認識したと言うべきだろう。キスをされた辺りから、もうずっと心臓はフルスロットルだった。
 そうして動揺する新一を余所に、カーテンの向こうからは友人を訪ねてきたらしい女子学生と保険医の暢気な会話が聞こえてくる。
「あら、青木さん。どうしたの?」
「教授から頼まれものしちゃって。具合が悪くなった工藤君を黒羽君が連れて行ったって聞いたから、ここにいるんじゃないかと思ったんですけど……」
「それなら、そこのベッドで看病してくれてるわよ」
 コツ、コツ、と歩み寄ってくる足音が聞こえ、新一はビクリと肩を跳ねさせた。こんな抱き合っているところを見られては、なにか変な誤解をされてしまう。
 慌てて友人を見上げれば、どことなく不機嫌そうに顔をしかめていた彼は小さく溜息を吐き、にっこりと微笑んでから新一の額に唇を押し当てた。そのまま体を起こし、カーテンが開けられる前に新一を残して出ていってしまう。
 きっと赤い顔をした新一を気遣ってのことだろう。だが、気遣うくらいなら最初からキスなんかしなければよかったのだ。そうすれば自分を残して出ていく必要もなかったのに。
 そこまで考え、新一はハッとなって首を振った。
 なんだかとてもまずい方向に思考が流されている。これじゃあまるで残されたのが寂しくて拗ねているみたいじゃないか。そんな馬鹿な。有り得ない。
 ぷるぷると首を振る新一は、外から聞こえてくる会話を聞くともなく聞いていた。
「あ、黒羽君!」
「ごめんね、青木さん。教授から頼まれものだって?」
「うん、この間のレポートのことで……」
 声しか聞こえないが、新一は青木と呼ばれた女子学生の姿を正確に思い浮かべることができた。なぜなら彼女は自分たちと同じ心理学部の生徒で――黒羽快斗の彼女だった人だった。いつかのクリスマスに、彼が新一に付き合ったがために別れることになってしまった、あの彼女だ。
 新一はぎゅっとシーツを握り締めた。
「それにしても……こうやって話すの、久しぶりだよね」
「ああ……そうだね」
「黒羽君は、今は誰かと付き合ってるの?」
「いや。前に話しただろ? 今俺、例の本命に猛烈アタック中なの」
「そうなんだ……! うまくいくといいねえ」
「ありがとう」
 なんだか、気持ちが悪い。新一は白くなるほどに唇を噛み締めた。
 そうだ。彼にはもう三年も片思いしている思い人がいるのだ。そしてあの日、「本命が忘れられないから本命以外とは付き合わない」と宣言した通り、本命を口説いているのだという。たったそれだけのことだ。再確認するまでもなく、知っていたことのはずだ。
 なのに、なぜ、こんなにも動揺している?
 ――分かってる。
 まずいと思っていたはずなのに、勘違いしてしまったのだ。彼を自分のものにしてもいいのだと。誰にも渡さなくていいのだと。
 もちろん、そんなはずはない。この男は自分のものではない。今は誰よりも自分の傍にいてくれるけれど、所詮はただの友人だ。いずれは思い人のところへ行ってしまう。今のように、自分を残して。
 ――勘違いしては駄目だ。思い上がるな。じゃないと、後で泣きを見ることになるぞ。
 呪文のように己に言い聞かせ、新一は一度だけきつく目を瞑ると、ベッドから起き上がった。
 頭に昇っていたはずの熱もいつの間にか下がっていた。それでも今日はもう授業を受ける気にはなれなかった。
「あっ、おい、起きて大丈夫なのかよ?」
 話の終わったらしい友人が戻ってきて、起き上がった新一に慌てて駆け寄る。
 新一はにっこりと笑いかけた。
「ああ、平気だ。けど、念のために宮野に診てもらうことにするよ」
「そ、う? …じゃあ送って、」

「――黒羽」

 はっきりと名字を呼べば、友人はなぜか泣きそうな顔をした。
 いつもならぐらりと揺れる新一も、今日ばかりは微塵も揺るぎない。
「博士に迎えを頼むから、お前はちゃんと講義に出ろ」
「……でも」
「次、必修だろ? 俺の分もちゃんと聞いといてくれよ。ノート、期待してるぜ」
 なにかを言いかけた友人の声を遮ってそれだけ言うと、新一は保険医に「お世話になりました」と声をかけて医務室を後にする。
 背中に突き刺さるような視線を感じながらも、新一は決して振り返らなかった。



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