蜜月のささやき






「悪いな、その日は予定があるんだ」
「飯ならもう済ませちまったよ」
「これから警視庁に行かなきゃならねーんだ。また今度でいいか?」

 そんな言葉で、もう何度友人からの誘いを断っただろう。
 もちろん偶然などではない。中には本当に警視庁から呼び出しをを食らっていたこともあったが、なかったらなかったで別の理由を捏造するのだから、わざとであることに変わりはない。
 要するに、新一は友人を――黒羽快斗を避けていた。
 これまでは、多い時には週の半分以上を工藤邸に泊まっていくことさえあった彼を、この一週間は家に上げることさえしなかった。
 理由は単純明快だ。彼と二人きりになりたくなかったからである。
 新一はどうも自分が押しに弱く流されやすいということに、最近になってようやく気づいた。いや、普段はむしろ押しが強い方だと思うのだが、どうもあの友人にだけは強く出られないようなのだ。
 あの時も、あの時も、あの時も――別に相手に強引な態度に出られたわけでもないのに、新一は友人の頼みを断ることができなかった。断って彼に悲しい顔をさせたくなかったし、滅多に人に頼らない相手だからこそ、自分にできることならなんでも叶えてやりたいと思ってしまうのだ。
 それが普通の頼み事ならなにも問題はないのだが、キスをしたり抱き合って睦言めいたことを囁いたりするのは、なにか違う。
 そのことに今更になって気づいた新一は、もう二度と妙な雰囲気にならないためにも、友人と二人きりになるのを避けていた。
 二人きりにさえならなければ、彼はいつも通りの黒羽快斗だった。新一のことを名前で呼びもしなければ、キスを仕掛けてくることもない。
 そもそもあの日――大学の医務室に運ばれた日――酔ってもいないのに、彼がなぜ新一のことを名前で呼び、キスをしてきたのか、それは今でも分からない。あれ以来二人きりになるのを避けてきたし、誰かに聞かれたい話ではないから、今日まで聞けずにいる。
 しかしあの日以来友人にそうした素振りはないし、二人きりになることさえ避ければ、今まで通り普通の友人として付き合っていけるのだと新一は思っていた。
 だから新一は、大学では相変わらず彼と二人で行動しながらも、プライベートで彼と二人きりになることだけは全力で避けていた。
 その変化を友人がどう思っているのか。
 はっきりと聞いたことはないが、彼の物言いたげな顔を見れば、納得していないことは聞くまでもなく分かっていた。
 そしてあの日からきっかり一週間が経ったその日――新一が恐れていた一言を、友人がとうとう口にした。

「俺、工藤に避けられてるよね」

 大学からの帰り道。
 今日も今日とて夕食に誘ってきた友人に、いい加減言い訳も尽きてきた新一が返答に窮していると、友人は見たこともないような悲しそうな笑みを浮かべながら、悲しそうな声でそう言った。笑っているのに、まるで泣いているようだ。新一は胸がぎゅっと締め付けられ、その痛みから逃れるように目を逸らした。
「そんなこと…、」
「あるだろ。気づかないほど、鈍くないよ」
 当たり前だ。鈍いどころか、この男ほど鋭い人を新一は他に知らない。
 巧い言い訳も思い浮かばずに焦っていた新一は、友人を見てぎょっと目を瞠った。
 彼の目からは、涙が溢れていた。
「くっ、くろ――…」
「俺、嫌われちゃった? 工藤にあんなことしたから、もう工藤の一番じゃなくなっちゃった?」
 友人の頬をぽろぽろと涙が伝う。
 彼がそんな風に泣くところを――そもそも泣くところ自体を初めて見た新一は、大いに狼狽した。
「ばか、そんな、嫌うわけないだろ」
「でも、俺のこと避けてる」
「だから避けてなんか…、」
「避けてるよ。だって、工藤といる時間が減った。一週間、ずっと寂しかった」
 あまりにもストレートな訴えに、新一は言葉を詰まらせた。
 どうしよう。どう考えても自分が彼を泣かせているのに、彼の言葉が嬉しいなんて。不謹慎すぎる。
 それでも、新一だってこの一週間は寂しかったのだ。これまでだって彼がいない日はもちろんあったというのに、こんな時に限って、一人きりになった途端なにをしていいのか分からなくなってしまった。なにをしても悲しそうな友人の顔がちらついて、なにも手につかなかった。
 だから、同じように彼も寂しく思っていてくれたことは単純に嬉しかったのだ。
「工藤が怒ったんなら、謝る。工藤が嫌なら、もうしないから。だから…嫌いにならないで」
 さらにぼろぼろと涙を零す友人に焦り、新一は右手の袖をぐいと引っ張ると擦らないように気をつけながら涙を拭った。
 けれど、拭っても拭っても友人の涙が尽きることはない。
 キリがないそれに、新一は堪らなくなって友人の頭をぐいと抱き込んだ。
「だから、嫌いになんてなるわけねーだろ!」
「……ほんと?」
「本当だ。ちゃんとお前が俺の一番のままだから、安心しろ!」
「ほんとに? 俺のこと、怒ってない?」
「怒ってもいない。ただちょっと……びっくりしただけで……」
 思い出して、カッと頬に血が上る。そもそも彼はどうして自分にキスしたりしたのか。
 ちょうどいい機会だからと口を開きかけたところで、ハタと新一は気づいた。いつの間にやら遠巻きにちょっとしたギャラリーが出来上がっている。
 それもそのはず、ここは大学の通路のど真ん中で、つまり自分たちはそんなところでこんな恥ずかしい遣り取りをしていたのだ。ただでさえ名前も顔も知れ渡った東都大学の有名人二人、しかも友人は人目も憚らず盛大に泣いているのだ、これで注目されないはずがない。
 新一は大いに焦った。なにかまずいことを口にしなかったか、と。事故みたいなものとは言え、男同士でキスしたなんて、知られるわけにはいかない。
「とっ、とにかく場所を移すぞ!」
 新一はそう言うなり子供のように泣いている友人の手を掴み、モーゼの海の如くサッと拓けたギャラリーたちの合間を早足で潜り抜けると、正門を出たところで拾ったタクシーにさっさと乗り込んだ。
 ゆっくり話ができるところとなれば自宅をおいて他になく、この一週間頑なに拒んでいたはずの友人を連れ込むために、新一は運転手に自宅の住所を告げた。
 そこでようやく一息吐いて友人を見遣れば、涙こそ止まっていたものの、俯いているためにその表情は窺えない。けれど、新一が咄嗟に握ったはずの手はいつの間にか指と指を絡めるようにぎゅっと握られていた。
 新一は僅かに逡巡した後、そのまま握っておくことにした。
 第三者の視線は気になったけれど、この位置ならバックミラーでも見えないだろうし、なによりここでこの手を振りほどいたらまた彼を泣かせてしまうかも知れない。
 新一は安心させるように、きゅっと力を込めて握り返した。
 間髪置かずにそれ以上の力で握り返されたことが、なんだかひどく胸に響いた。



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