蜜月のささやき






 タクシーが工藤邸に着くと、新一は結局ずっと握られたままだった友人の手を引いてタクシーを降りた。
 いつもならそれこそプロマジシャンらしく完璧なエスコートを披露してみせる友人も、今日ばかりはまるで子供のようにされるがままだ。しっかりと絡められた指は玄関の前に来ても解かれる様子はなく、新一は仕方なく片手で鞄を漁り、取り出した鍵で開錠して中に上がった。そのままリビングに通し、ソファへと先導して友人を座らせる。
 すっかり黙りを決め込んでいる友人の気持ちを落ち着けるためにも、なにか飲み物を用意しようかと思った新一だったが、やんわりと解こうとした指を逆に引っ張られ、気づけばソファに座る友人の膝上に乗り上げる形で抱き締められていた。
「ちょ…黒羽、」
「頼むから、まだ離れないで」
 胸元に顔を埋められ、腰に回された腕にガッチリとホールドされている。とは言え、きっと新一が本気で抵抗すれば容易く逃れられるのだろう。しかしそんな風に『お願い』されてしまえば、新一にはとてもじゃないが断れなかった。
 仕方なく、自ら解いたはずの指先を友人のふわふわした髪の中に埋め、宥めるように梳いてやる。一瞬、ぴくりと反応をみせた友人は、心地良いのか、されるがままになっている。そうしているとまるできかん気の子供をあやしている気になった。
 そもそもなんで彼を避けていたのか――そんな風に思えてしまうくらい、新一にとってこの距離は自然なもののように思えた。
 一週間、離れてみて思ったのだ。彼と離れているくらいなら、近すぎても傍にいた方がいいと。
 彼にキスをされてびっくりしたけれど、嫌だとは思わなかった。何度もされたから慣れたのかも知れない。けれど他の誰かとなど、慣れるどころかただの一度だってしたくない。正直なところ……女の子とだってできないだろう。人命救助の一環としてならまだしも、そういう妙なところで潔癖なところがあることを新一は自覚している。だから、酔った勢いとは言え何度も唇を重ねてきた彼に、今更嫌悪を抱くなど絶対にあり得ないのだ。
 だったら彼を避ける必要などないような気もするが、やはり新一にとってキスは友人同士で交わすものではなかった。あの時彼がどういうつもりでキスをしてきたのか、それが分からなければやはり以前のような関係には戻れない。
 けれど、ずっと聞けなかったその理由も、今なら聞けるかも知れない。
「――黒羽」
 ゆっくりと体を離して顔を覗き込めば、彼は泣いてこそいなかったけれど、その目は赤く腫れていた。自分が泣かせたのだと思えば、罪悪感を覚えると同時になんだか堪らなくなる。
「落ち着いたか?」
「……迷惑かけて、ごめん」
「バーロー、謝る必要なんかねーだろ。こんなの、ちっとも迷惑じゃねえ」
「だって…工藤に嫌われたと思ったから、工藤が嫌がることはひとつもしたくなかったんだ…」
 そう言いながら、自分で言った言葉にこそ傷ついたように友人は顔を歪めた。
 それを見た新一はくっと唇を噛み締めた。
「…たった……たった一週間じゃねーか。…俺だって、お前といられなくて…つまらなかった」
 ――嘘だ。つまらないどころか、寂しくて寂しくて堪らなかった。新一こそが、彼と一緒にいたかった。
 けれどそう本音を口にできるほど、新一は素直ではなくて。
「一週間は長すぎるよ。一日だって俺には長いのに。ほんとはずっと工藤と一緒にいたい」
 そんな風に言われ、新一は喜ぶよりも苛立った。
 ずっと一緒にいたい、などと言っても、どうせ彼の方から離れていくくせに。いくら新一が一緒にいたいと思っても、本命とくっついてしまえばその人の方を優先するのだろう。それが当たり前で、それでいいと思いながらも、子供染みた独占欲が納得してくれない。
「バーロー、そんなことでどうすんだよ。彼女ができたら、ずっと俺といるわけにもいかねーだろーが」
 だから、まるで突き放すようにそんなことを言ってしまったのだが。
「彼女なんか作らないよ」
「……へ?」
 きっぱりと否定され、新一は面食らった。
 もう三年も片思いなのだと、本命が諦められないから他の誰とも付き合わないのだと豪語していたくせに、彼女を作らない、なんて。意味が分からない。
「だっておめー、本命のこと諦められないんだろ?」
「うん。絶対諦めないよ」
「だったら、その本命とうまくいったら俺とずっと一緒になんて、」
「うん。そうしたら、工藤とずっと一緒にいられるってことだよね」
 新一は目を瞬いた。またもや意味不明な発言だ。常々理解できない思考回路の持ち主だとは思っていたが、今日はいつにも増して意味が分からない。
 新一が眉を寄せて怪訝な顔をしていると、友人はふと吐息だけで笑った。その、よく見慣れたいつもの柔らかい微笑のようで、どことなく冷たさを孕んでいるような笑みに、なぜか落ち着かなくなる。
 そんな新一の戸惑いに気づいているのかいないのか、友人は笑いながら言った。

「まだ分かんない? 俺の本命は、工藤――お前だよ」

 ――何。と、思考が一瞬止まる。
 咄嗟に反応できなかったのは、本気で言葉の意味が理解できなかったからだ。予想もしていなかったこと、と言うよりは、その可能性が存在すらしていなかったからだ。今初めて突き付けられた可能性に、新一は本気で混乱していた。
「あ、……え? 俺が、黒羽の本命?」
「そうだよ」
 一切の迷いなく肯定され、ようやく新一の思考も動き出す。
 自分が、彼の本命なのだという。つまり彼は、本来なら異性に抱くべき恋愛感情を自分に対して抱いているということだ。
 そんな、馬鹿な。
 新一は思ったままを口にした。
「有り得ないだろ。俺もお前も男じゃねーか」
「じゃあ工藤は、好きでもない男にキスできるの?」
 それこそ有り得ない。好きでもなければ、女の子とだってキスなんてできない。
 そこまで考えて、自分の中の矛盾に気がついた。
 好きでなければ女の子ともキスできない、ということは、もう何度もキスしたこの友人のことを、自分は好きだということなのか?
 ――そんな馬鹿な。そんな、馬鹿な。嘘だ。有り得ない。
 だって彼は男で、自分もまた男で。世の中には同性に恋愛感情を抱く人もいることはもちろん知っているが、自分にそんな嗜好があるはずがない。彼のことはもちろん好きだけれど、それはあくまで友愛であって、恋愛ではない。
 つまりは、それほどに彼が特別だということだろう。極端な話、殺人以外のことなら、彼がなにをしようと全て許してしまえるだろう自覚がある。
「黒羽は特別だ。俺にとってのお前がそうであるように、お前にとっての俺もそうなのかも知れないだろ。だからそれはお前が俺を好きだという証拠にはならない」
 きっとその『特別』を恋愛と勘違いしているんだろう、と。
 そう説明してやれば、友人はなぜかくしゃりと顔を歪めた。
「くろ、」
「勘違いなんかじゃない……好きだから、工藤のことが大好きだから、キスしたんだ。ずっとずっと好きだった。
 三年前からずっと、俺は新一だけを想ってきたんだ!」
 そう怒鳴った友人の目から、またも涙が溢れ出した。
 これまで泣き顔など見せたこともない男が、今日はまるで箍が外れたかのように泣いている。それほどに感情を高ぶらせている。
 けれど新一にはその理由がまるで分からず、ただ狼狽えた。
 三年前と言えば、自分はまだ彼と知り合ってもいない。探偵として顔が売れているため、知らない相手に惚れられたこともないではなかったが、しかし彼は本命に告白したけれど本気にされなかったと言っていたではないか。それなら、こんな印象的な男から告白されて覚えていないはずがない。
「でも俺は、お前に告白された覚えなんかないぞ」
 だからそう答えるしかなかったのだが。
「…工藤は覚えてないんだね…」
 そんな風に悲しそうに言われれば、身に覚えのないことなのに、自分がもの凄く酷い男のような気になった。
「あの時も、工藤は今みたいに本気にしてくれなかった。男の俺が男のお前に惚れるなんて有り得ないって、まともに相手にもしてくれなかった。だけど、俺はちゃんと告白したよ。告白して、好きだから付き合ってくれって伝えた」
「う、嘘だろ…?」
「覚えてないってことは、工藤にとっては覚えておくほどの価値もなかったってことかな…」
 寂しそうにそう言って、友人は無理な笑顔をつくった。
 それを見た新一の心臓がギクリと凍った。
 黒羽快斗は感情豊かな男で、よく笑う男だったけれど、そのどれもが心からの笑みだった。マジシャンとして観客に向ける笑顔ですら、自分のマジックを見に来てくれた人たちへの心からの感謝の表れだった。
 その男が、今、作り笑いを浮かべている。まるでそこに見えない壁でも作られたかのような心地がした。
 黒羽、と、確かめるように名前を呼べば、友人はまだ涙に濡れたままの顔でにっこりと笑みを浮かべ、それから新一が恐れていた通りのことを口にした。
「困らせてごめんな。工藤の一番だって言ってもらえて、もしかしたら、って勘違いしたんだ。でも、もう困らせないから。工藤を好きな気持ちは捨てられないけど、工藤が嫌がることはしないって決めたから」

 だから――今までありがとう。

 引き寄せられた耳元でそう囁かれたと認識した時には、友人はもうリビングの扉に手をかけていて。
 黒羽っ、と名前を叫んでも、彼はもう足を止めてくれなかった。
 慌てて後を追って飛び出た廊下に彼の姿はなく、外まで飛び出しても彼を見つけることはできなかった。
「うそ、だろ…?」
 今までありがとう、なんて。そんな、もう会えないみたいな。
 現実的に考えるなら、同じ学部で取っている授業も全て同じなのだから、大学に行けば会えるはずなのだが。彼に本気で避けられたら、新一には彼の姿を視界に入れることさえできないような気がした。

 そしてその予想が外れていなかったことを、早くも翌日には思い知らされたのだった。



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