蜜月のささやき






「――なんなんだよ、黒羽のやつ!」

 ドンッ、と派手に音を立てながら、空になったグラスをテーブルに叩き付ける。
 既に何杯目になるか分からないその中身は、もちろん水などではなく酒――焼酎が入っていた。
 水で割っているとはいえ、量を飲めば当然酔う。ただでさえ例の薬の影響で酒に弱い新一は、既に泥酔の域だった。
「俺がなにしたってんだよ!」
「ちょお工藤、もうそのへんにしといた方がええんとちゃうか?」
「なんだよ服部、オメーはあいつの肩を持つのかっ?」
 肩を持つもなにも、新一の言うあいつ――黒羽快斗なる人物がどういう男か全く知らない服部は、絡んでくる新一に辟易しながらも、持ち前の人の好さの所為で無下にすることもできずに「そういうわけやないけど…」と律儀に返した。
 そもそも関西の大学に進学した服部がなぜ東都の居酒屋でこうして新一と肩を並べて酒を飲んでいるのかと言えば、唯我独尊探偵に「今すぐ来い」とメールで呼び出されたからだ。それだけで来てしまう自分を自分でもどうかと思う服部だが、自分から押しかけることはあっても滅多なことでは呼び出さない相手だからこそ、なにかあったのかと慌てて飛び出してきたのだ、が……。
「ちゃんと聞いてんのかよ、服部!」
 泥酔した名探偵工藤新一に絡まれるとは、まさか思いもしなかった。
 それも――恋愛相談をされるとは。しかも――男同士の。
 まさかもまさかだ。服部は自分の人の好さを心底恨んだ。
「ちゃんと聞いとるって。要するに、その色男の黒羽に会えんようなって寂しいっちゅーねんやろ?」
「な、ちが…っ」
 新一の顔が赤くなる。
 いやいや、もとから赤かったはずだ。なにせこの名探偵は泥酔しているのだから。赤いのはアルコールの所為であって、図星を指されて照れているからなどでは断じてない。その証拠に、「そそそんなわけあるわけないだろ!」と本人も否定しているではないか。
 ……どもっている辺りが果てしなく怪しいが、突っ込んだら負けだ。
「まあ、どっちでもええねんけど。そんで工藤はどないしたいん?」
「ど、どうって…」
「男に告られて気色ワルゥー、ゆうんやったらこのまま放っといたらええし、また前みたいに会いたいんやったら、探したらええやん?」
 新一の話を聞く限り、はっきりと断ったわけではないようだから、好きな相手が本気で自分を捜していると知ったら姿を現すはずだと服部は睨んでいた。振られたショックで大学を辞めてしまったというならまだしも、相手はちゃんと在学しているのだし、まだきちんとした返事も聞いていないのだから、その可能性は低くないはずだ。ちゃんと通学していながら新一にも姿を見せない辺りは、流石は人気絶頂のマジシャンと言うべきか。
「そんな気色悪いなんて…それに、探したけど見つからなかったんだから仕方ねーだろ…」
 さっきまでの勢いはどうしたのか、そう言ってしょんぼりと項垂れる新一を見ていると妙に心が痛む。
 しかしそこは付き合いの長い服部平次、そんな罪悪感に流されることもなかった。
「そら出てくるわけないやろ。だって工藤、会ってなんて言うつもりなん?」
「なにって…別に…」
 口籠もる新一に、服部は呆れたように溜息を吐いた。
「ちゃんと分かってるか? 自分、告白されてんねんぞ。イエスなりノーなり言うことがあるやろが」
「……でも、あいつはなにも聞かなかったし」
「アホか。それでも答えるんがマナーやろが」
 このまま離れるにしても元の関係に戻るにしても、新一が答えを出さなければどこにも進めない。告白をなかったことにして元の関係に戻る、という選択肢もあるが――というか、新一はそれを望んでいるのだろうが、それでいいなら相手は始めから姿を眩ましたりしないだろう。
 普段の彼ならそれが分からないわけもないのに、恋愛音痴の探偵はどうやら自分が当事者になると途端に目が曇ってしまうらしい。
 空のグラスの中でじわじわと溶けていく氷を睨みながら、新一は拗ねたように言った。
「だって…なんて答えればいいんだ? 男から告白されたのなんて初めてだし、まして黒羽は友だちだ。好きか嫌いかと聞かれたら、好きに決まってる。一緒にいて楽しいし、男でも女でも、俺以外の誰かがあいつの一番近くにいるなんて、絶対に嫌だ。今だって、俺の知らない誰かと一緒にいるのかと思うとムカムカする。そんな風に独占したいと思うのは、黒羽のことが好きだからだ。
 でも、それってあくまで友だちの好きだろ?」
 服部は――ガックリと肩を落とした。
 なにが「友だちの好き」や。いっぺんしばいたろかと、心中で独りごちた。
「なんや…全く知らんけど、その黒羽っちゅーやつが気の毒になってきたわ」
「なんだよそれ!」
「鈍いにもほどがあるやろ。わざと言うとるんやったらまだしも、天然とか、そっちの方がよっぽど質悪いわ」
「はあ? なんの話をしてんだよ」
「お前の話に決まっとるやろが、この鈍感男」
 酔いと怒りで赤く染まった新一の額を拳で小突く。生憎と密度の高すぎる脳みそがカラコロ鳴ることはなかったが、「なにすんだよ」と頬を膨らませている新一の顔を服部はまじまじと見返した。
 この、整いすぎた顔が悪いのだ。中身はとんでもなく凶悪だというのに、この美貌とも呼ぶべき整った容姿が人の目を狂わせているに違いない。
 工藤新一という男は、老若男女の分け隔て無く、とにかくよくモテた。それは服部自身にも言えることだが、彼と服部が大きく違うのは、それを自覚しているかしていないかだ。
 実を言えば服部自身、同性から告白されたことは何度かあった。人気と知名度ならアイドルにも負けない有名探偵なのだから、それも仕方のないことなのだと今なら分かる。だから新一が男に告白されたからと言って別段驚きはない。
 問題は、男からも恋情を向けられているという事実を新一が認識できていない点だ。
 おそらく彼は同性愛という嗜好の存在を認識していても、その対象に自分がなる可能性が彼の中には一切存在しないのだ。だから「男から告白されたのは初めてだ」などと言えるのだろう。
 服部にしてみれば、それはとんでもない勘違いだった。
「工藤、お前、今までに男のダチから『好きや』て言われたこと、何回ぐらいある?」
「何回って…んなもん覚えてるわけないだろ」
「あるんやな?」
「まあ…」
 それがどうしたんだよ、と新一は怪訝そうに眉を寄せている。
 逆に言えば、このずば抜けた記憶力を誇る探偵をしても覚えきれないほどの数だけ、好きだと言われたことがあるということだろう。これでどうして気づかないのか、全く理解に苦しむ。
 服部はいかにも呆れたように額を押さえながら盛大な溜息を吐いてやった。
「あんなあ、ダチ同士、それも男同士で、そんなしょっちゅうスキスキ言うわけないやろ。工藤は俺の親友やけど、スキやなんて、さぶぅて冗談でもよぉ口にせんわ」
「へ?」
「そら、そいつらがお前に告白しとったんや」
「はあ!? だって俺、男だぞ!? 男が男にそうホイホイ惚れるかよ!」
「せやから、工藤がそんだけ魅力的やっちゅーことやろ? 俺かて、初めて工藤を見た時は痺れたしなあ」
 あの時は江戸川コナンが工藤新一だなんて思いもしなかったから、突如現れた彼が電光石火の速さで事件を解決したのを見て、まさに雷に撃たれたような衝撃を受けたものだ。極めつけに、あの言葉だ。「推理には上も下もない」というあの言葉は、服部の探偵としての在り方を変えるほどのものだった。
 しかしそうは言っても、服部が新一に惚れることはないだろう。
 工藤新一に告白しようなどと思う者は、彼がどういう男か知らない身の程知らずだけだ。深く付き合えば付き合うほど、工藤新一という男がどれほど手の届かない相手か――高嶺の花かを思い知らされる。付き合いの深い者ほどそれを知っているから、告白などしようとも思わないのだ。それはあの毛利蘭でさえも例外ではなく、だからこそ、彼女が新一と付き合うことはなかった。
 だが、そんな新一に初めて「告白」を「告白」として認識させる者が現れたのだ。
 果たしてその黒羽快斗なる男は、ただの身の程知らずなのか、それとも彼に釣り合う人物なのか。
 俄に興味の沸いてきた服部は、いったいどんな人物なのか聞きだそうと隣を向き直り、ぎょっとした。
「ちょ…っ、工藤! どないしてん!」
 新一はぼろぼろと両目から涙を零し、しとどに頬を濡らしていた。
 言い過ぎたかと思わず謝りかけた服部だったが、新一は服部など目にも入っていない様子で独りごちた。
「そんな…『好き』が『告白』だって言うなら、俺、知らない内に何度もあいつを傷つけてたのか…?」
 つまりは何度も『好き』と言われてきたのかと、服部は最早呆れて言葉もなかった。むしろそれだけ言われてきた『好き』をただの友人としての『好き』としてスルーしてきた新一の方が、ある意味凄いかも知れない。
 それからはすっかり落ち込んでしまった新一を慰めるでもなく放置していた服部だったが、流石に五杯目のグラスが空になった辺りからは、自棄を起こしたように飲みたがる新一を宥めるのに必死にならざるを得なかった。お陰で酔い潰れてしまった新一とは逆にすっかり酔いが醒めてしまった服部だ。
「…ったく、工藤が泣き上戸やとは知らんかったわ」
 文句を言いながらも二人分の会計を済ませ――もちろん後日きっちり請求するつもりだ――酔っ払い探偵を一人で放り出すわけにもいかないからと――こんな傍迷惑な据え膳を放り出せば、善良な一般市民の十中八九が犯罪者になってしまうのは明白だ――服部は仕方なく酔いどれ探偵の腕を肩に回して担ぎ上げようとした。
 しかし、肩にのし掛かるはずの重みが忽然と消え、思わず「へ?」と間の抜けた声を上げてしまった。
 そして振り向いた先の光景を目にして、そのまま固まってしまった。

「――こいつに触るな」

 そう言って鋭く睨みつけてくる見知らぬ男が、眠る新一を軽々と抱き上げ、まるで宝物のように抱き締めていた。



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