花も嵐も踏み越えろ






 その電話を受けた時、思わず涙が零れそうになった。

「俺、戻ったから」

 そんな、いっそ無愛想なほど端的な言葉の裏に秘められた優しさを知っている。
 彼が薬を飲んだと知った日から、自分がどれほど心配していたか。
 いや、心配なんて生易しい言葉では言い表せないほどに苦しんだ。
 罪悪感。恐怖。絶望。そして、縋り付くような希望。
 本当は電話が鳴る度に手が震え、鼓動が速まり、血が凍る思いだった。
 もしかしたら。そんな思いで、受話器を取るのがいつも遅れた。
 聡い彼は、そんなこちらの様子などお見通しだったに違いない。

「…そう。とりあえず、おめでとうと言っておくわ」

 そう言った声は震えていなかっただろうか。
 いつも通り、小憎らしい態度を装えただろうか。
 …答えは、どちらも「否」だったに違いないのに。

「別に、予定通りだ。どうってことねえよ」

 そうして彼は、またひとつ嘘を吐いた。















chapter 09 : 優しい嘘

















「俺って酷いヤツだよな」

 頭上からそんな呟きが聞こえ、キッドは作業の手を止めて彼を見上げた。
 少し顔色が悪い。綺麗な肌はところどころ擦り剥けている。
 当たり前だ。組織の仕掛けた爆弾に吹き飛ばされて、危うく死ぬところだったのだ。
 何とか重傷は免れたものの、彼の左大腿部には硝子が突き刺さり、多くの血を流してしまった。
 キッドは今、その止血を行っているのだ。

「なんだ。今頃気付いたの?」

 一瞬の迷いもなく肯定してやれば、新一は困ったように笑った。

「いや、ちょっと昨日の電話を思い出してさ」
「哀ちゃん?」

 そう、と頷いた彼は、ぐっと締め付けた包帯がきつかったのか、小さく呻いた。

「知ってるよ。今日のこと、言わなかったんだろ」

 昨夜は、およそ二週間ぶりの電話だった。
 哀は彼の体調のことをかなり気にしていたようだが、こちらには彼女と同じくAPTX4869の研究者だったモニカもいるからと、日本にいる哀に連絡を取るという危険を冒すよりも彼女に任せた方がいいと判断したらしく、新一の体調管理はモニカに一任していた。
 そのため、まるで結果報告のような形になってしまったのだが…

 新一は、今日自分たちが組織に潜入捜査を決行することを哀に告げなかった。

 現在、新一とキッドは組織の本部とも言うべき研究施設の地下へ侵入を果たしている。
 そして、そのことは既に組織の人間に気付かれていた。
 それ故の爆撃だ。
 だが、その侵入者がどこの誰で、どこに潜み、何を企て、何を仕掛けようとしているのか、それに気付かれていない自信はある。
 この戦いを生き抜き、勝ち残る自信はある。

「弱気になってんのか?」

 新一の足下に膝をつき、新一の膝に手を置き、キッドは新一を見上げる。
 蒼い瞳は、微かに揺らいでいた。

「人が、たくさん死ぬ」
「うん」
「俺たちが奪う命も、ある」
「うん」
「それでも、生き汚くても、俺たちは生き残る」

 不意に込み上げてくる感情が何か、キッドは知っている。
 もうずっと、知っている。

「――新一」

 名前を呼ばれ、新一がキッドを見下ろす。
 紫紺の瞳は、微かにも揺るぎない。

「俺はおまえと一緒に生きたい」

 新一は目を瞠り、次いできつく瞼を閉じ、そして真っ直ぐにキッドの目を見つめ返しながら頷いた。

 何者にも、それこそ巨大な犯罪組織を相手にも負けない自信はあるけれど。ただひとつ、この心を挫くことができるとしたら、それは数え切れない嘘を積み重ねてきた自分たちの罪深さだろう。
 大事な大事な幼馴染みに。
 協力者であるはずの者たちに。
 そして、コナンとして関わった全ての人々に。
 嘘を嘘と見抜かれないための嘘を、これからも積み重ねていく。
 でも、だからこそ、この相手にだけはどんな虚構にも惑わされずに、有りの儘の自分を見ていて貰いたいと思った。
 たとえそれが、月明かりのない暗闇で縮こまって震えている子供のように、頼りなく情けない姿だったとしても。

「おまえは優しいな…」

 そう言って泣き笑いのような顔を見せる新一を、キッドは力一杯抱き締めた。
 こんなスキンシップはいつものことで、今の状況でのこの行動に驚いてはいるものの、新一はキッドの抱擁を大人しく受け入れている。

「キッド?どうした?」

 戸惑う彼に、けれどキッドはすぐに言葉を返すことができなかった。

 ――違う、と思った。
 優しいのは彼であって、自分ではない。
 彼の吐く嘘は、その全てが温かい。
 こんなにも優しく人を欺く人を、キッドは他に知らなかった。

 白い衣装を纏い夜を駆ける度、キッドはひとつづつ嘘を重ねていった。
 誰も巻き込まないため。彼らを守るため。
 そんな風に言い繕ってみたところで、結局は自分が犯罪者だと知られないために、キッドは嘘を吐いてきたのだ。
 自分の意志で選び取り、信念を持って進んできた道なのだから、世間が何と言おうと後悔などしないけれど。
 幼馴染みやその父親、学校の友人、そして母だけは別だ。
 彼らに責められたら。詰られたら。或いは、許されたとしても。
 そんなのは、とても耐えられないと思った。
 キッドの吐く嘘は、相手の気持ちを思いやっていると見せかけて、その実ただ自分の保身しか考えていない、身勝手なものなのだ。

 優しい彼は、そんなことを言えば否定するかも知れない。
 或いは「買い被るな」と、同じところへ堕ちてきてくれるかも知れない。
 だが、キッドは知っていた。
 全ての嘘を貫き通すと言った彼は、秘密を共有できなかったことの辛さや苦しさを誰にも味わわせないために、その嘘を貫くのだ。
 それはなんと優しい嘘だろう。

「…なんでもないよ。そろそろ行こうか。だいぶ時間をロスしちまった」

 抱き締めていた体をそっと離し、いつもの不敵な笑みを浮かべる。
 本当は怪我を負った彼にはこのままじっとしていて欲しいくらいだけれど、この組織を相手にそんな甘いことは言っていられない。
 僅かに歯を食いしばっただけで気丈に立ち上がってみせた新一に頷き、キッドは己のステージへ向かうために足を踏み出した。
 その背中に、声が掛かる。

「キッド。俺も、おまえと一緒に生きたいよ」

 ――嘘吐き。
 喉まで出掛かった声をすんでで飲み込み、キッドは笑みを残して音もなく走り去った。



 彼は気付いていないのだ。
 その優しさが、暗闇に生きる自分たちには眩しすぎるということに。
 冷たい水底で生きてきた自分たちには、温かすぎるということに。

 貴方は、本当に――

「「…酷いヒト」」





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