花も嵐も踏み越えろ
「作戦変更です。今すぐB≠ニ合流してください」
耳に仕込んだインカムから唐突に入った指示に、赤井は眉を寄せた。
指示は全てあの探偵が出すと言っていたのに、今の指示は怪盗からのものだ。別に組織を潰せるのなら怪盗と手を組むことにも異論はないが、指図を受けるとなると話は別だ。
一瞬の沈黙でそんな赤井の葛藤を察したかのように、怪盗は続けた。
「B≠ヘ今、軸足を負傷しています。私は予定通り陽動を仕掛けますが、あの男が素直に騙されてくれるとは思えないので、貴方にはB≠フ補佐について頂きたいのです」
怪盗の言うところの「あの男」とは当然、赤井にとっても因縁の深い、あのジンのことだろう。
確かに、彼を相手に負傷した探偵だけでは少しどころでなく荷が重そうだ。それに、ジンと真っ向から対峙できると言うならそう悪い話でもない。
「…了解」
本当は彼の傍を離れたくないだろうに、それでも任務執行のためにその役目を自分に譲ろうと言う怪盗に免じて、赤井は急ぎ探偵の向かった場所へと駆けだした。
chapter 10-1 : 罪
新一は密かにジャックしたコンピュータで情報を操作し、組織のメインコンピュータルームへの侵入を果たしていた。
ここにいた構成員たちは噴出式の睡眠薬で眠らせ、動きを封じて端に転がしてある。キッドの仕掛けた陽動に掛かって人員が減っていたことも幸いした。
非戦闘員と思われる科学者の姿もあることから予想するに、彼らは組織を相手にここまで侵入を果たす者などいないと高をくくっていたのだろう。残念ながら、こうして最深部への侵入までも許してしまっているわけだが。
新一はウエストポーチに詰め込んでいた機械を広げると、次々にコードを繋げていった。素早くキーボードを打ち込みながら、システムに掛けられたプロテクトを解除していく。
新一の任務は、この組織の目的が何かを調べるために、研究データをここから持ち去ることだった。
しかし、足に怪我を負った所為で思ったよりも移動に時間が掛かってしまった。ここのデータをダウンロードするにはそれなりの時間が必要だと言うのに…
(だが、必要なのはAPTX4869のデータだけだ。他は全て消去する)
新一は、APTX4869に関するもの以外のデータは全て、始めから消去するつもりだったのだ。
ここにある全てのデータを入手することは、まず不可能だ。
莫大な容量を有するここのデータを別の媒体にコピーするには、この巨大なシステムに匹敵するだけの記憶装置が必要になるし、仮にそれが用意できたとしても、それをコピーするだけの猶予を彼らが与えてくれるはずもない。今までの経験から考えて、おそらく彼らは情報が洩れるくらいなら爆破して全ての痕跡を消去するだろう。
或いは、組織の構成員を一網打尽にし、この施設をまるまま確保するかだが、残念ながらそれもあまり現実的ではない。
彼らを相手に二兎も三兎も追っていては、一兎も得られないどころか逆にこちらの喉を食い破られてしまう。
だからこそ、敢えて新一はAPTX4869のデータだけに的を絞り、他のデータは全て消去することにした。なぜなら、その未完成の毒薬を飲んだのは新一だけではないからだ。
哀が安全に宮野志保の体を取り戻すためには、生きるか死ぬか五分の確立しかない解毒剤ではあまりにリスクが高すぎる。彼女のためにも、どうしてもこのデータだけは必要だったのだ。
だがそれも、FBIは与り知らぬことだった。
たとえ共同戦線を組んでいる相手だろうと、そのデータを渡す気はない。もとい、データが存在することさえ、誰にも知らせる気はなかった。
こんな世界を蝕む毒にしかならないものの存在を知る必要はない。
新一は彼らにも内密にウィルスを撒いてデータを破壊し、組織のデータなど何ひとつ手元に残らなかったと、白を突き通すつもりだった。
「…まあ、予想はしていたがな」
コードの解除に集中していた新一は、突然掛けられた声にばっと背後を振り返った。その手には銃が握られている。
が、相手が赤井だと言うことに気付くと、苦い表情で銃を下ろした。
「赤井さん…どうしてここに?」
「おまえが負傷したから補佐しろとW≠ゥら指示を受けた」
余計なことをと、新一は思わず舌打ちを漏らす。
ジョディやジェイムズならまだしも、組織が畏れるこの赤井秀一を誤魔化しきることなどまず不可能だ。
しかし意外にも赤井は何を問いつめることもなく、馴染みの銃を片手に、周囲を窺うようにドアへ貼り付いた。
「赤井さん?」
「いいから、やるならさっさとやれ」
訝る新一を制し、赤井は目の前の状況を容認するかのように言う。
新一は戸惑いつつも、時間は一秒でも惜しいからと、コンピュータに向き直りコードの解除を再開した。
カタカタとキーを叩きながら、コードの解除に集中する部分とは別に切り離した思考の一部で考える。
キッドは新一がAPTX4869のデータをコピーすることを、もちろん知っていた。その上で彼をここを寄越したと言うことは、彼ならば黙認してくれるだろうと考えたのだろう。
そう推測し、ああなるほど、と新一は思い至った。
――灰原哀。
彼女は、赤井にとっても特別な存在だ。亡き恋人の妹であり、見方によっては、彼は彼女から最愛の姉を奪った憎い敵だ。
できることならこれ以上の苦しみを与えたくないと、そう思っているのかも知れない。
彼女の罪の証とも言うべきこの薬のデータを持ち帰ることは、逆に彼女を苦しめることになるかも知れないが、彼女を生かすためには絶対に必要なものなのだ。
だからこそ新一がこのデータを持ち去ろうとしていることに、彼は気付いているのだろう。
「…コナンだった時から思ってましたけど、赤井さんの考えることって僕とよく似てますよね」
「そうか?ボウヤにはいつも驚かされていたがな」
「でも、僕の作戦に納得できるだけの根拠や確証を持てなければ、赤井さんだってあんな子供の言葉に耳は貸さなかったでしょう?」
「ふん…」
組織と向き合えるだけの能力を持った人間は少ない。
その上、見掛けに囚われずコナンだった新一の言葉に耳を傾けてくれた人は更に少なかった。
その少ない人物のひとりにこの人がいてくれて、とても救われた。
そして何より――片翼とも呼ぶべき存在である彼≠ェいるからこそ、今の新一がここにいるのだ。
最後のコードを解除し、新一は呼び出したAPTX4869のデータのコピーを始めた。
膨大なデータの一部とは言え、それだけでもかなりの量がある。ダウンロードが完了するには少なくとも十分は掛かるだろう。
しかもその後、ウィルスを侵入させなければならない。
それだけの時間を確保するにはかなり骨が折れるだろう。
「W≠フ様子は?」
「巧く陽動してますよ。J≠ェ巧くサポートしてくれているようですね。…ただし、一部を除いて」
赤井の口元がくいと上がる。
まさしくあの男との対決を望んでいる者としては、そうでなくては、と言ったところなのだろう。
新一は自らも銃を取り出すと、セキュリティシステムとインカムに気を配りながらも赤井の隣に並んだ。
「…それを使うつもりか?」
「ご心配なく。銃の扱いには嫌と言うほど慣れてますから」
そう言って撃鉄を起こす新一に、赤井は僅かに顔をしかめた。
「そうじゃない。人を撃つ覚悟があるのかと聞いてるんだ。もう二度と、普通の生活には戻れないぞ」
人を撃つと言う生々しい感覚は、そう簡単に消えるものではない。
たとえ罪に問われなかったとしても、生涯自分を苛み続ける傷痕にもなりかねない。
その覚悟があるのかと聞く赤井に、新一はどこか老成された表情で緩く首を振った。
「たとえ奴らをひとり残らず捕まえて組織を壊滅させたとしても、僕はもう二度と普通の生活には戻れないんですよ」
そう言った新一の顔には何の感情も浮かんでおらず、赤井は新一が何を思ってそう言ったのか、表情から読みとることはできなかった。
確かにこうして犯罪組織の本部に乗り込み、組織の構成員との交戦で怪我を負い、データをコピーするためにコンピュータをハックして、敵を迎え撃つために銃を握っている状況は、既に充分に普通とは言えない。
だが、新一が言っているのはそう言うことではないように思えた。
赤井が思う以上の何かを、彼はまだ抱えているのだろうか。
そう、思った時。
「――そうね。貴方たちはもう二度と、ここから抜け出ることはできないわ」
鮮烈な気配とともに、冷徹な女の声が響いた。
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