Pandra Game
- stage 1 -











「なんだ、これ」
 世に名を馳せる名探偵工藤新一は、それを口にするのがやっとだった。
 新一は現在、どことも分からない森の中に立っている。周りには木々が鬱蒼と生い茂り、頭上を見上げれば、枝葉に遮られてはいるが太陽の光が差し込んでいる。
 新一は、少々混乱気味な頭脳をフル稼働し、冷静に状況を判断しようと試みた。
 太陽が昇っているということは、今は昼間だ。それは間違いない。見下ろした自分の体は見慣れた学生服を着ている。青いブレザーに同色のスラックス、白のカッターシャツに緑のネクタイを締め、履き慣れた黒の革靴を履いている。学生鞄は見あたらないが、格好にも問題はない。ないのだが――ただひとつ問題があるとしたら、新一は自宅のベッドで眠っていたはずだ、ということだった。今は真夜中で、お気に入りの推理作家の新刊を読んでいた途中でベッドへ潜り込んだはずだ、ということだった。
 それなのに。新一は現在、森の中に立っている。ここが日本なら森と言うより林や山の中だと考えるのが妥当だが、それにしては緑が深すぎた。右を見ても左を見ても、前も後ろも視界に入るのは木ばかりである。
 新一は思わず頭を抱えて、その場にしゃがみ込んでしまった。
 いくら小学生になるという奇天烈な体験をしたからと言って、新一が非現実的な事象を全て受け入れられるようになった、と言うわけではない。誰が何と言おうと、新一は自分を常識人だと信じて疑わない。
 けれど、どう考えても、この状況は普通ではなかった。
「…どこだよ、ここ…」
 ていうか、なんで俺はこんなところに居るんだ!
 しゃがみ込んだ新一の頭上を、一羽の鳥が飛び去った。





 その日の六限目、新一は眠い目を必死に擦りながら、何とか授業を受けていた。
 他の生徒ならしっかり眠っているだろうその状況下で新一が起きている理由は、ひとつ。本当だったらとうに足りていない出席日数を、定期考査の結果と補習で補ってやろうという教師側の誠意に応えるためである。聞かなくても知っている知識や、すでに理解している内容ばかりとは言え、学校とは授業態度≠ニいうものも成績に組み込まれるのだ。そんな新一が欠伸を噛み殺している理由は、誘惑に負けてつい読みふけってしまった小説のせいと言う、なんともありがちでなんとも間抜けな理由だった。
 とにもかくにも何とか眠らずにその日の授業を乗り切った新一は、眠らないことに集中しすぎて授業の内容は全く聞いていなかったのだが、無事放課後を迎えることができた。
「年頃の男が情けないわね、新一くん」
 授業が終わり、生徒たちがいそいそと帰り支度に取り掛かる中、新一がぱったりと机に伏していると、すでに授業の最中に帰り支度を整えてしまった鈴木園子が、そんな新一の様子を不審に思って尋ねてきた。けれど新一は顔を上げようともせず、ただ力無い返事をするばかりである。
 だらしない、と新一を見下ろす園子に苦笑し、蘭がすかさずフォローを入れた。
「新一、昨日遅くまで本読んでてほとんど寝てないんだって」
「はあ? 自業自得じゃないの」
 呆れた、と言って園子が肩を竦めた時、丁度担任が教室へと入ってきたため、園子はそのまま自分の席へと座った。けれど、ようやく去った園子に代って、今度は蘭が話しかけてきた。
「でも新一、夜はちゃんと寝なきゃ駄目だよ」
 ただでさえ、探偵なんてものをしているせいで普段から生活が不規則になりがちな新一だ。おかげで事件は解決するものの、新一の体格は日本の高校生男子の水準より些か細い。その上、両親と離れてひとり暮らしをするようになってからの新一は、料理もできるくせに外食やらコンビニ弁当やらで済ませることが多く、栄養が偏りがちだった。
 最近では専らお隣の博士とその養女に任せっきりだが、以前は蘭が新一の家へと食事を作りに行っていたほどだ。その辺りの事情はよく分かっていた。
「なんなら今日、御飯作りに行こうか?」
 久しぶりだし、と言う蘭に、それまで机に伏したまま唸るだけだった新一はようやく顔を上げると、ぶんぶんと首を横に振った。
「いいよ、おじさんもうるさいだろ」
「気にしなくてもいいわよ。前はしょっちゅう行ってたんだし」
「自分で作るか隣に行くから。おめーはおじさんに作ってあげろよ」
 そう言って立ち上がると、まだ何か言いたそうな蘭を放って、新一は号令とともに教室を出ていってしまった。
 通い慣れた、けれど暫く通うことのなかった道を家へと向かって歩きながら、新一は考える。蘭と、それから自分のことについて。どことなく余所余所しくなってしまったことに、蘭も新一も気付いている。それでも何も言ってこようとしない彼女の強さに甘えているなと、新一は自嘲した。
 組織と闘ったあの時から、新一には誰にも明かしていない、哀と自分しか知らない秘密があった。博士にも、かなり聡い両親にも隠しきっている自信がある。劇薬を飲み、なお生き残ることができた二人だけが知ることだ。
 毒薬として創り出された薬の、奇跡に近い確率で生存した二人には、完璧な解毒剤などというものは存在しなかった。「毒を以て毒を制す」の言葉通り、作られた解毒剤もまた毒薬のようなものだった。それを飲むことによって元の体は取り戻せたが、その薬は新一の体をAPTX4869とは別の形で侵食した。
 ――幾度にも及ぶ細胞レベルでの変化による、DNAの異常。
 あの戦いの後、哀が作った解毒剤を飲み、新一は順調な経過を辿っていた。その時、薬の制作者である哀は、新一に「俺の経過を見て問題ないと判断できた時に飲め」と固く言われていたため、まだ投薬していなかった。そして――いつもと変わらない定期検診で、それは見つけられた。
『…DNAに、異常が見つかったわ。貴方の体は…人であって、人でなくなってしまった…』
 その時の言葉を新一は一生忘れないだろう。
 新一の体は見た目こそ変わらないけれど、DNAの異常によって、その体は次代へと情報を遺伝する力を失ってしまったのだ。
 蘭のことをとても、とても好きだと思う。その思いはあまりに強すぎて、彼女さえ幸せであるのなら、自分はただ見守る立場にいるだけで幸福なのだと、皮肉にもその時になって気付いてしまった。
 ――ただ。蘭のことを、とても大事だと思う。だから、何も言わずに離れることで真実を隠した。知れば自分のために哀しんでくれるだろう優しい彼女に笑っていて欲しくて、全ての真実を胸の奥底へと仕舞い込んだ。
 そうして、今はまだ思い出したくない苦い気持ちを押し隠すように、新一の意識は眠りの中へと誘われたのだった。



 事ここに至るまでの経過を細かく思い出してみても、新一には現状に至った原因がまるで分からなかった。
 こんな森の中へと来ているからにはそうなった原因が必ずあるはずなのだが、新一には自宅のベッドで眠った記憶しかない。まさか眠っている間に誰かに運ばれたのだろうかとも考えてはみるものの、こんな未開拓地では、車は勿論ヘリですら入れないだろうと考え直す。大体にして、そんな無意味で面倒なことをする理由がない。
 けれどそこで、こんな森の中にいるというのに汚れひとつない自分の姿にハタと気付いた。ここには人間が楽に通れそうな道などどこにもない。それなのに、新一の着ている制服は実に綺麗なものだった。まるで突然ここに現われたかのように。
 そう思い、ハッと息を飲む。
 ――まさか本当に、まるで神隠しにでも遭うようにしてここに現われたのだとしたら?
 けれどすぐに、馬鹿なことを、と頭を振った。いくらなんでも非常識すぎる。人間の体がそんなに簡単に消えたり現れたりするようでは、探偵や警察はとっくにお払い箱だ。
 新一はその可能性を否定すると、ここにいても埒があかないからと、ゆっくりと歩き出した。
 通り過ぎる木々にそれらしい跡を付けて、慎重に歩を進める。幸い夏の暑い日差しも、生い茂る木々のおかげで気にならなかった。むしろ涼しいぐらいである。夜になれば冷えるかも知れないと、新一はほんの少し足を速めた。
 とにかく、早々に何かこの状況の打開策を見つけなければならない。それに、何かあった時のためになるべく体力は残しておいた方がいいだろう。
 辺りを慎重に見て回りながら歩き続けるうちに、新一はあることに気付いた。足下には、周りの背の高い木に妨げられて陽の光が充分に当たらないのだろう、丈が短く葉の細い草ばかりが生えている。木は、今までに見ただけでも軽く十種類以上はあるようだった。
しかしそのどれも日本では見たことがない――それどころか、どこの国でもこんな木は見たことがなかった。専門家ではないので断言できないが、探偵として余計に知識を詰め込んでいる新一でも、まるで見たことのない木ばかり生えているのだ。
 ここは日本のどこかだろうと考えていた新一だが、今はもう、ここがどこなのか全く分からなかった。ここが本当に森なのかも分からない。気候的には日本のようだと思ったが、それも定かではない。全ての情報がまるででたらめだ。
 新一は、ただ黙々と歩き続けた。何かもっと重要な、手掛かりになるようなものが見つかるかも知れないと思ったのだが、いくら歩いてもそんなものは見当たらない。あるのは木と草ばかりだ。それでも、道らしい道もない獣道を必死に掻き分けながら歩いている。
 黒かったはずの革靴も、今では土がこびり付いて茶色く汚れてしまった。突き出していた枝で手を切ったのも一度や二度ではない。汗をかいたため、ブレザーは脱いで手に持っている。その姿はもうぼろぼろだった。
 ここへ来てからもう何時間経ったことか。その間ずっと歩き続けていた新一の疲労は、獣道だったということもあり、もうピークに達していた。体力もあと少しで底を突いてしまいそうだ。それでも足を止めないのは、立ち止まったらもう歩けないような気がするからだった。
 新一は今、連日の寝不足が祟ってかなり眠くもあった。もし立ち止まってしまえば、疲れた体は貪欲に休息を求め、眠ってしまうだろう。ここは雪山ではないのだから、凍死する恐れはない。睡眠は体力の回復に役立つはずだ。
 けれど、新一は今、全く得体の知れない場所を歩いているのだ。どんな危険があるか分からないこの状況で眠ることは、危険でしかなかった。

 突き出していた枝をポキリと折り、跨ぐように足を持ち上げる。けれど踏み出した足は、地面ではない何か不安定なものを踏んで、新一はバランスを崩してしまった。
 右肩から地面に倒れ込み、強かに肩を打ち付ける。新一は低く呻きながら転がった体を起こし、踏んだ何かを確かめようと顔を上げ――巨大な目を見つけた。
 まん丸のそれがギョロリと動いて、じっとこちらを見つめてくる。目の下には尖った硬質そうな嘴があり、ふさふさの羽毛のようなものに包まれた首があり、やたらとしっかりした鋭そうな爪が目立つ足がある。背中には大きな羽が二対生えている。
 一見して鳥のように見えるそれは、けれど決して鳥ではなかった。大きさは有り得ないほどにでかく、新一など簡単に見下ろせてしまうだろう。そもそも羽が二対もある鳥はいないし、こんな獅子のような足を持った鳥も、いない。
「――っんなんだよ、一体!」
 新一はすぐさま走り出した。鳥のようなそれが起き上がり、まるで獲物を前にした肉食獣のような目を向けてきたからだ。生い茂る草木を左右に避け、突き出た枝葉が服や肌を切り裂くのも気に留めず、新一は無我夢中で駆けた。
 鳥のようなものが追い掛けてくる。新一のすぐ背後にはずっと、ガサガサという音がついてきている。更に言うなら、音はどんどん近づいていた。
「冗談じゃねぇ、俺は餌じゃねぇぞっ」
 あんなバケモノ鳥に食われてたまるか!
 けれど鳥は着実に迫ってきており、新一にはもう振り返る余裕もなかった。
 どうにかならないかと思考を巡らすが、この状況を打開する策を新一は何ひとつとして持っていなかった。今は博士の便利道具も持っていないし、ここに何があるのかも分からない。
 新一は、真剣に覚悟をしかけた。為す術もないまま、食われてしまうかも――死ぬかも知れない、と。
 けれど突然聞こえてきた悲鳴に、新一は思わず足を止めてしまった。慌てて振り返るが、そこにはバケモノ鳥の姿はなく、追いかけてくる音も聞こえてこない。気配も全く感じなくなってしまった。
 心臓はドキドキと忙しなく鼓動を打ち付け、呼吸はすっかり荒くなっている。新一は呼吸を整えながら、後方をじっと窺った。そのまま数分が過ぎるが、音も気配も全くしない。
 新一は躊躇いながらも、元来た方へとおそるおそる一歩を踏み出した。けれど何の変化もなく、更にもう一歩を踏み出す。そうして気を張りつめながら、新一は一歩ずつ戻っていった。
 来た時の倍以上の時間をかけながら戻ってきてみれば、バケモノ鳥は岩の下敷きになっていた。新一は訝しげに目を眇める。自分がここを通った時、こんな岩はなかったはずだ。しかも、このバケモノ鳥が岩の下にいるということは、岩は上から落ちてきたということだ。
 バケモノ鳥がギョロリとした巨大な瞳でまるで睨み付けるようにこちらを見つめてきたが、新一はたじろぎながらもそっと岩へと歩み寄った。たった今、まさに餌にされかけた新一は、なんで俺が…と思いながらも岩を調べ始める。
 この鳥はこのままだといずれ飢え死にしてしまうだろう。殺されかけていたのはこちらの方だが、それでも新一には放っておくことができなかった。目の前にある、助けられるはずの命を見捨てられないのが、結局はお人好しの工藤新一なのである。
「頼むから、起きてぱっくり、なんてのは勘弁してくれよな…」
 あながち冗談とも言えない。洒落にならないそれに、通じないと分かりながらも新一はぶつぶつと独りごちる。
 と、調べていた岩に変な紋様を見つけた。見たこともない紋様だが、黒い塗料のようなものでしっかりと描かれている。
 これはどういうことだろうかと考えながら、新一は巨大な岩にそっと手をかけた。勿論、動かせるなどとは思っていない。こんな巨大な岩、動かせる者の方が珍しい。ただどちらの方向に動かせばより動かしやすいかを確かめたかったのだが――岩は、簡単に動いた。巨大な岩は、驚くほど軽かったのである。
(…どういうことだ)
 なぜこんなに軽いのか、なぜこの鳥はこんな岩の下敷きになって動けなくなったのか。
 新一の頭の中は疑問符だらけだったが、とにかくこの岩は動かせるのだ。そうなれば次の問題は、どうやってこの鳥に食われないように岩をどかせるか、ということである。
 一頻り考えたが、結局、岩をどけて直ぐさま逃げるしか術はなさそうだった。
 新一は岩に手をかけ、ぎゅっと力を込める。そしてそのまま思い切り勢いよく突き飛ばした。岩は呆気ないほど簡単に転がってゆく。新一も勢いよく駆け出した。一目散でその場を逃げだそうとして、けれど次の瞬間――足が止まってしまった。
「礼を言う」
 バケモノ鳥が、喋ったのだ。





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続きを書くために加筆修正。
文脈弄っただけでほとんど何も変わってません。
あ、でも、哀ちゃんとこのさわりは変わったかな。。すみません。