Pandra Game
- stage 3 -











『…ごめんなさい』
 決してこちらを振り向こうとしない小さな背中が、いつも以上に小さく見えた。
 よく見ないと分らないけれど。よく見ればその肩は震えていて、彼女が泣いているだろうことを知った。
 ――気にすんなよ。
 そう言おうとして、けれどその言葉は声にならなかった。
 実際、ショックは大きかった。まだたった十八年しか生きていない新一には、二度目の、人生を変えるほどの大事件と言っていいほどだった。勿論一度目はAPTX4869という毒薬を飲んで小学生になり、謎の組織と戦ったこと。そうして二度目である今――DNAの異常により、人の定義から僅かに、けれど確実に外れてしまった。
 それは新一の一生を左右することだ。たとえ気丈に「気にするな」と言ったところで、なんの慰めにもならないだろう。
 背中を向けたままだんだん俯いていく彼女の肩に、不器用な手を置くことしか、新一にはできなかった。
 実際新一は、哀を責めてなどいなかった。無謀にも組織の取引現場を取り押さえようとした浅はかな自分にも責任はあり、そもそもの元凶は、そんな毒薬を製造するよう哀に強いた組織の連中だ。哀に少しも責任がないと言えば嘘になるが、彼女も被害者のひとりに違いなかった。
 それでも彼女はずっと責任を感じ、組織の影を感じれば真っ先にその身を挺して周りの人を守ろうとしていた。そんな彼女に、これ以上自分のことで罪悪感を持たせたくなかった。
 だから。
『…泣くなよ』
 そう言うのが、精一杯だった。





 遠いような近いような、そんな不思議な声が新一を呼んでいる。近くなっては遠ざかり、また近くなる。聞き覚えのあるその声は誰のものだったろうか。何度か耳にしたことがある程度の、それでいて強烈な存在感を誇示するような……
 やがて、その声が白いマントと重なった瞬間。
「…泣くなよ」
 すぐ側で聞こえた声とその台詞に吃驚して、新一は飛び起きるようにして体を起こした。目の前には、どこか神妙でありながらも心配そうな怪盗の顔。驚くことにその顔は新一と瓜二つだった。
 怪盗はすでにモノクルを取っており、シルクハットすら被っていない。その顔から推測するに、年齢ですら新一と変わらないようだった。ふわふわした薄茶色の髪とやや色素の濃い群青の瞳を除けば、双子と称しても遜色ないほどだ。
 だが、新一が吃驚眼で怪盗を見つめている理由はそんなことではない。朧気な夢の中で――正確には記憶に残る過去の中で――新一が哀に言った台詞を、なぜこの怪盗が知っているのか、ということだった。
「なんで…?」
「…だから。泣くなよ」
 憮然とした表情のままぶっきらぼうにそう言い放つ怪盗に、わけが分からないと首を傾げ――ハタと気付く。自分の頬が濡れていることに。
 新一は茫然と手を遣り、指の先に光る、掬い取った涙を見遣った。なぜ泣いているのか分らない。だが、ふと、先程の夢を鮮明に思い出した。
 哀に、体の異常を告げられた時。無意識に蓋をした感情が、不意打ちのような怪盗の言葉で蘇る。
 心底惚れてる人がいて。その人は、自分の帰還を信じて疑わなくて。そんな状況だというのに、こんな体になってしまって。
 もう、何事もなかったように、彼女にこの想いを伝えることはできなかった。優しい彼女はきっと、まるで自分のことのように哀しんでくれるだろう。けれど、哀しませたくないのだ。できることなら、ずっと笑っていて欲しいのだ。その彼女の笑顔を奪うのが自分だと言うのなら、笑ってさよならを告げられるだろう自分を、新一は知っていた。
 彼女の――蘭の幸せのためなら、どんなに残酷な現実も笑って受け入れられる、と。そう、思っていたのに。
 あの時泣いていたのは――新一自身。
「…、…っ」
 誰にも悟られないようにと、頑なに心の奥底へと封印したはずの感情が、一粒、また一粒と。まるで堰を切ったようにぼろぼろと零れ出す。
 笑っていたのは顔だけだ。心と体を引き離し、ただ脳が命じるままに唇が笑みを象っただけ。他でもない、新一の心は、あんなにも泣き叫んでいたというのに。

 快斗は、流れ落ちる滴を拭おうともせずに茫然と泣いている新一を、困惑に満ちた表情で見つめていた。
 新一が快斗の力≠ノよって吹き飛び、頭をぶつけ、気を失ってしまってから、快斗は夜の寒さを凌げるようにと、新一を連れて洞窟へと来ていた。ここは快斗がこちらに来てから塒にしている場所で、超獣たちは近づけないよう、力≠ナ守っている。この危険な森の中で唯一安全な場所があるとすれば、ここだけだ。つまり、新一は快斗によって最も安全な場所へと運ばれたのだった。
 いくら新一が何度も対峙しあった好敵手とは言え、あのままあそこへ放って置くほど快斗は無情ではない。新一は少なくとも白馬以上に力を認めた名探偵≠ナあり、妙に事件でのバッティングが多かった彼をからかうことこそあれ、疎ましく思ったことは一度もなかった。その上素顔を見られたとあっては、怪盗キッドを廃業した快斗としては、このまま放って置くわけにもいかなかったのだ。それに――色々と気になることもある。
 そうした諸々の事情と複雑な感情のために新一の面倒を見ることにした快斗だったが。
 ふと気付けば、目を瞑って眠っていた新一が小さく唸り声を上げていた。体の痛みに唸っているのかと思い顔を覗き込めば、何やら眉間には深々と皺が刻まれており、表情も苦しげである。
 どうせ夢にでも魘されているのだろうと快斗は軽く考えていたのだが、新一は爪が食い込むほどに強く自分の腕を掴んでいるではないか。立てた爪が肉を裂き、うっすらと血が滲んでいる。それでも尚力を込める新一を、快斗は慌てて揺り起こそうとした。
 ――その時。新一の閉じられた瞳から、一雫、涙がこぼれた。その表情があまりに悲痛で、あまりに哀しげで……
 気付けば、快斗は思わず声を掛けていた。泣くなよ、と。
 いつでも強気な笑みを浮かべて、怖いものなど何もないとばかりに、一見無謀とも思えるような行動を取りながらも、決して屈することのない探偵。少なくとも、こちらがそう思っているのと同じように、彼もまた自分のことを好敵手だと認めてくれているだろうと快斗は思っていた。その彼が――怪盗の目の前で涙を流すなんて。
 余程のことがあったのかも知れない。けれど所詮、そんなことはただの怪盗に過ぎない快斗の知るべきことではないのだ。ただ、後になって彼が後悔するのではないかと思ったから。
 ポン、と音を立てて現れた造花。今持っているのは、この無機質な赤い薔薇ひとつだったけれど。彼女≠ノ与えられた力≠ナはなく、快斗のマジックで出した薔薇の花を、涙を流す新一の前へと突き出した。
「…らしくないぜ、名探偵」
 新一は驚いたように目を瞠り、けれど差し出された薔薇を受け取ると、無遠慮に強く抱き締めた。造花だから萎れはしないが、折角のマジックのタネが…と快斗の口がへの字になる。けれど、ふと顔を上げた新一の、いつも通りの強気な笑みに何も言えなくなる。
「サンキュ」
 その笑みに、ドキリと鼓動が高鳴った。未だ涙の滲む目が、確かな意志の光を宿して煌々と煌めいている。いつもと変わらない挑戦的な、それでいていつもとは違う暖かな眼差し。その瞬間快斗は息を呑み、けれどそんな自分の動揺を悟られたくなくて、ポーカーフェイスで笑い返した。
(…おいおい。なんだ、今のドキッてのは!)
 健全な高校生男児である快斗は、勿論恋愛ごとにもごく普通に興味を持っている。幼馴染みの青子の未発達な笑顔にドキリとすることも何度かあった。
 けれど相手が男とあれば話は別だ。何が哀しくて、自分と似たような顔のつくりの、それも天敵である探偵相手にトキメかなければならないのか。可愛い男も綺麗な男も世の中には大勢いるだろうが、一抹の興味もない。そもそも、同性相手に恋愛しなければならないほど容姿に不自由しているとも思わないのだが……
「なぁ、キッド」
「っな、に?」
 話しかけられ、再びドキリと鼓動が跳ねる。必死にその鼓動を静めようと苦戦する快斗は、けれど次の新一の言葉に一気に平静を取り戻した。
「おまえ、ここがどこか知ってるのか?」
 そうだ、それを聞かなければいけなかったと、快斗は真剣な表情で問い返す。
「名探偵こそ、知らずにここに来たのか?」
「来たって言うか、来てたって言うか…なあ?」
 気持ちを改めてじっくり話をしようと思っていた快斗は、出端を思いきり挫かれ、思わずがっくりと肩を落とした。
 新一の声にはなんとも緊張感がない。なぁ?、と聞かれたところで、快斗に分かるはずもなかった。案外この探偵は天然の類かも知れないと思った快斗の予想は、勿論外れてはいなかった。
「いつからここにいたの?」
「正確には分かんねーけど、気付いたのは、おまえに会う8時間くらい前…かな。時計がないから感覚だけど」
「…てことは、今日来たばかりってことか」
「そういうこと…になんのかなぁ」
 うーんと首を捻る探偵に、この人はこんなに頼りなかっただろうかと、快斗は思わず頭を抱えた。
 いやしかし、快斗が初めてここに来た時も似たようなものだったかも知れない。今にして思えば、彼女≠相手に随分と間抜けな質問をしていたような気もする。
 そう思い、ふと浮かんだ疑問をそのまま口にした。
「てか、彼女≠ノ説明されなかったのか? ここ≠フこと」
「彼女? …って、誰のこと言ってんだ?」
 きょと、と見返す新一に、快斗の表情が一変して険しくなる。
「…名探偵。あんた、なんでここにいるんだ」
 ここ≠ノ来たのなら彼女≠知らないはずがない。あんなに印象深い女、快斗でなくとも一生忘れることはできないだろう。それを知らないとなれば、新一はまだ彼女≠ノ会っていないのだ。信じられないことだが、彼はこの世界に存在しながら彼女≠ノ支配されていない、ということだった。
 だが、ここに存在するからには何か理由があるはずだ。多少手荒な真似をすることになろうとも絶対に口を割らせてやる、という心積もりで新一に詰め寄った快斗だったが。
「だーから、それが分かりゃあこんな苦労しねーってば」
 どこまでも、新一には緊張感がなかった。



「要するにだな、俺が聞きたいことはみっつだ」
 びしっ、と快斗の目の前に指を突き立てながら新一が言う。思った以上にゴーイングマイウェイな探偵に、どうしたものかと一時は本気で悩んだ快斗だったが、ようやくまともに話を進める気になったらしい新一にのろのろと顔を上げた。
「ひとつ、ここはどこなのか。少なくとも俺よりおまえの方が情報量が多いと見て間違いないだろう。ふたつ、おまえの言う彼女≠チてのが誰なのか。みっつ、なぜおまえがここにいるのか。このみっつに答えるなら、俺もおまえの質問に分かる範囲で答えよう」
 どうだ?、と視線で尋ねられ、快斗は暫し黙り込んだ。新一の提案は分かりやすく、彼に聞きたいことがある快斗にとってもこの提案は有効だった。
 けれど。
「ひとつ目とふたつ目の質問には答えよう。ただ、みっつ目の質問については二次的な理由しか話せない。直接的な理由はあまりに俺の内部事情に関わりすぎるからな。それでいいなら、あんたの提案を受け入れるぜ」
 それを聞いた新一もまた沈黙し――やがて苦笑をもらした。困ったような、そんな頼りない笑顔に、快斗の鼓動が再度跳ねる。自分はいったいどうしたのだと、やや混乱気味の快斗に、新一は苦笑したまま言った。
「なら、みっつ目の質問を変える。そうだな…どうやったら家に帰れるのか、知ってたら教えてくれればそれでいいや」
「…いいのか?」
「いいさ。だって――」
 新一は困った表情のまま、申し訳なさそうに瞳を彷徨わせ。
「おまえの顔がそんなだとはなぁ…」
 ぽつりと、そう言った。
 モノクルもシルクハットも付けていない顔は、いくらここが暗い洞窟内だからと言え、新一にはよく見える。何の冗談か、怪盗と探偵という対極の関係であるはずの二人の顔は、双子かと見紛うほどにそっくりだ。
「なんつーか…見ちまうつもりはなかったんだけど…悪ぃな」
「!」
 突然そんなことを言い出した新一に、快斗はポーカーフェイスを崩していた。
 探偵である新一にとって、怪盗の素顔を知ることは得にこそなっても損にはならない。増して、見てしまってごめんなどと謝られる理由はないはずだ。その疑問が浮かんでいたのか、新一は頬を人差し指でかきながらぶっきらぼうに言い放った。
「あのよ。俺、探偵なんだぜ? 人より観察眼は優れてるんだぜ?」
「え、…それ、って…?」
「…おまえが何か捜してたことくらい、知ってて当然だろ」
 快斗は目を瞠ることしかできなかった。なぜなら、彼と同じ探偵≠名乗るクラスメートは、彼よりずっと長くずっと多く怪盗を追い掛けていながら、その事実に辿り着いていないのだから。当然、新一も気付いてなどいないと思っていたのだが。
 更に新一は、快斗を驚かすことを言ってくれるのだ。
「それに。キッドの犯行現場付近のビルに、薬莢が落ちていたり硝煙反応があることが度々ある。それが何を意味するのか…」
 皮肉げに持ち上げられた口端に、快斗は背筋が粟立つのを感じた。彼は組織の存在すら知っている。それは間違いないと、快斗は確信した。
「そういう連中とおまえが敵対していることは容易に想像できたよ。おまえの捜し物が生半可な覚悟で見つけだせるものじゃないことも、分かってた。それでも俺がおまえの犯行に介入することがあったのは…」
 言いかけて、新一は口を噤んだ。分かっている。こんなのはただの自己満足だ。押しつけでしかないのだ。
 けれど思わずには――願わずにはいられない。自分のような苦しみは、もう二度と、誰も味わうことがなければいい、と。
「名探偵…?」
 黙り込んでしまった新一に、快斗が遠慮がちに声を掛ける。
 新一はふ、と小さく吐息をこぼした。
「いや、なんでもねーよ。おまえは捜し物を見つけたんだろ? この間の宝石、まだ返ってきてないらしいしな。もう怪盗キッドは現われない。それなら、俺にはもうキッドを捕まえることはできないってことだ」
 なんせ、逮捕権があるのは警察だけだ。窃盗などの現行犯なら話は別だが、怪盗キッドがもう犯行を行わないというなら、それも新一には不可能な話である。
「俺が言いたいのは、別におまえを捕まえたくて顔を見たわけじゃないってことだ」
 そう言ってふいと顔を背ける新一に、快斗は隠しきれない驚愕とともに、なぜか高鳴っていく鼓動を感じていた。体の芯からふつふつと熱くなっていく、何か。心臓から送り出される血液のように、それは次第に全身へと行き渡り……
 綻ぶ顔をどうする術も、快斗は持っていなかった。
「…やべー…」
「なにが?」
「…泣きそう、かも」
 そう言った快斗は目元を手で覆ってしまっていたため、綻び笑んでいる口元しか新一には見えなかった。けれど、その唇が微かに震えていることは見逃さなかった。
「名探偵に、そんなこと言われる日がくるとは思わなかった…」
「…うるせーな。俺だって言うつもりはなかったんだよ」
 突慳貪なそんな言葉ですら、今の快斗には何よりの言葉だった。言うつもりはなかった、と言うことは、言わずに見守っているつもりだったと言うことだ。そんな、倫敦帰りの探偵とは比べようもないほどの懐の深さを見せつけられ、言われなければ気付けなかっただろう新一の思いに快斗は激しく後悔した。そして、気付けてよかったと思う。知ることができて、たったそれだけのことなのに、快斗の心は驚くほど軽くなっていた。
 二週間にも及ぶここでの生活に、快斗は自分で思っていたよりもずっと疲弊していたのだ。そして、疲れて荒みかけていた自分を新一が救ってくれた。
「今度は俺が慰めてやるぜ?」
 笑いを含んだその声に、快斗は笑いながら泣く羽目になった。





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