Pandra Game - stage 4 - |
探偵の前で涙を見せる、という失態だけはなんとか免れた快斗は、いつの間にか普段のペースに戻っていた。 目の前の彼はこの世界のことを全く知らないのだと言う。少しは理解している自分ですら戸惑うことばかりなのに、全く知らない彼はこの世界では生きていけないだろう。何よりも今、彼に必要なのは情報≠セった。 「いいか、名探偵。俺の話を聞く前に念頭に置いておいて欲しいことがある」 「なんだ?」 「ここじゃ、一切の常識は通用しないってことだ」 そう言われ、新一はつい数時間前に接触した、自らを超獣と称したバケモノ鳥を思い浮かべた。確かにあんなものが存在するのだから、常識は通用しそうにない。道すがら見てきた種類の全く判別できない不思議な植物たちも、そういうわけなのだろう。 新一がこくりと頷くことで意思表示すると、快斗もまた頷き、ゆっくりと説明を始めた。 ここは、緑のとても深い世界だった。海に覆われた地球を蒼いビー玉とたとえるなら、表面積の半分以上が森に覆われたここは、まるで翠のビー玉だ。真昼には太陽が昇り、日が沈めば月が現れる。木々の生み出す酸素は大気を満たし、湖水は気体となって地上に雨を降らせる。けれど快斗が言うには、ここは今まで自分たちが生活してきた世界とは全くの別世界だ、ということだった。 たとえば新一が遭遇した超獣だ。鳥とも獣とも言えない彼らは、新一たちが生きてきた世界ではまず出会うことはないが、この森の至るところに棲息している。彼らの知能指数は非常に高く、人間の頭脳と比べても大差ない。その上彼らは人の言葉を理解するばかりか、話すこともできるのだ。人ではない種族が言語を駆使するなど、常識で考えれば有り得ないことだ。「ここでは一切の常識は通用しない」と言う快斗の言葉は、決して大袈裟な表現ではなかった。 また、超獣たちは普段から人間を襲うほど獰猛ではないが、時には生きる糧として人間を獲物に選ぶこともあった。或いは、彼らの生活を脅かす敵とみなした人間を襲うこともあった。そのため、強大な力を持つ超獣たちに畏れをなした人間は森の外へと追いやられ、そこに小さな集落を作り、森からの需要を得ながら生活していた。 しかし、勿論例外もある。一部の力≠フ強い、弱肉強食の世界でも生き抜いていける人間は、森の中で生活していた。そしてその「力の強い者」の中に怪盗キッドである快斗も含まれるのだ。 この世界に生きるものはみな、強い弱いの違いはあれど力≠持っている。それは筋力的・体力的なものではなく、少なくとも快斗や新一の持つ知識で計ることのできない、超常的で不可解な力≠フことだ。潜在能力なのか、それとも意志や精神といったものの現われなのかは定かでないが、もともと普通の人間であるはずの快斗の力は、とにかく非常に強いものだった。 通常、力を遠距離で作動させることはできない。それはおそらく物体に力を込めておくことができないからだ。しかし快斗は、遙か遠い地にありながら超獣を罠に掛けたり、自らの塒である洞窟に強い結界を張ったりと、実に色んなことができる。だからどうということもないのだが、少なくともここで生き延びるために強い力があることは有り難いことだった。 「つまりこの世界は、力≠フ強い者だけが生き残るサバイバルの世界なんだ」 すっかりキッドを装うことのなくなった快斗は、ネクタイを緩めたくつろいだ格好だった。この洞窟の入り口には強力な結界を張っているため超獣たちが近づくことはできないし、快斗の他に存在する人間たちとも縄張りが違う。先ほどまでの警戒心が嘘のように、快斗はまるきり素の顔で新一と向かい合っていた。 「その力≠チてのがさっきのアレだろ?」 対する新一はすっかり探偵の顔つきになり、興味津々という体で快斗の話に聞き入っている。これが普通の状況なら「そんな馬鹿げた話」と一笑に伏していただろうが、生憎とその馬鹿げた話を目の前で見せつけられたばかりだ。どんなにリアリストの探偵だろうと信じざるを得ないだろう。加えて新一は、いきなり小学生の体になるという奇天烈な体験の持ち主だ。こういった「有り得ない状況」への適応も早いため、持ち前の抑えきれない好奇心をひょっこり覗かせてしまうのも仕方ないことだった。 何か分からないが、シルクの手袋に黒い塗料のようなもので描かれた幾何学紋様を、新一は興味深そうにまじまじと見つめている。快斗はこっそり苦笑しながら手袋を外した。 「あ!」 「驚いた?」 思わず驚嘆の声を上げた新一に、快斗は悪戯が成功した子供のように得意げな笑みを浮かべる。 新一は手袋の取り外された手をそっと掴むと、不思議そうに首を傾げた。 「なんで手袋の紋様が消えて手の甲に現れたんだ?」 そう。手袋に描かれていたはずの紋様は、快斗が手袋を外した途端に消え失せたかと思うと、今度は快斗の手の甲に現れたのだ。寸分違わぬ、全く同じ紋様が。 「この紋様は俺の力≠表してる。これは直接手の甲に刻まれてるんだ」 「…入れ墨とは違うよな。布から浮き出るなんて」 「だから、俺たちの常識で考えちゃ駄目なんだって。ほんとはあんたにもあるはずなんだぜ、名探偵」 そう言って快斗に取られた新一の手の甲には、何もない。 紋様はそれぞれ固有の図柄を持ち、即ち紋様を見ればそれが誰によって施されたものであるのかを知ることができる。言うなれば、彼らの世界での戸籍≠フような役割を持っているのだ。 けれど、新一にはそれがない。つまり新一は、厳密にはこの世界に存在していなかった。それがなぜなのか、現時点では快斗にも分からないが、少なくとも新一が彼女≠知らない理由は判明した。新一は彼女≠ェ望んでここへ連れて来たのではなく、彼女≠ノとっても全く予想外の因子によってここへ連れて来られたのだ。 快斗はこのイレギュラーな探偵の出現のメリットを頭の端で考えながら、説明を続けた。 「次に、彼女≠ノついて教える」 弱肉強食のこの世界において、唯一例外となる女がいる。女は人を超越した万能の力≠持ち、やがて世界を支配した。森に棲む超獣は言うなれば彼女の下僕であり、人間もまたどこまでも彼女に忠実であった。 なぜなら――女はこの世界の神≠セった。 彼女はまさに万能だ。彼女を前にすれば、快斗の力の強さなどちっぽけな虫のそれと同じほどに、無に等しい。喉が渇けば地が割れ泉が湧き、腹が空けば木に実が成り落ちてくる。ひらりと掌を返してみせれば花が咲き、もうひとつ返してみせれば枯れ果てる。全てがまるで自由自在だ。彼女は万能なのだ。あらゆるものを与えられた女だった。この世のものとは思えない美貌を誇り、奏でる声は清流のように涼やかで、歩く姿は美の女神ですら羨むほど。 「――パンドラ」 それが、女の名前だった。 「…パンドラ?」 「それが彼女の名前で、この世界の神の名前だ」 「パンドラって…あの、神話の?」 「そう。開けてはならない箱を開けた、愚かな女だよ」 決して開けてはならないと言われた箱を、彼女は開け放った。その中に世界を混沌へと陥れるあらゆる災厄が眠っているとも知らずに。 そしてこの世界の神であるパンドラもまた、開けてはならない箱を開けたのだ。否、神話の中の彼女よりもずっと質が悪い。彼女は箱の中に災厄が眠ることを知りながら、その箱を開け放ったのだから。 「彼女は世界が欲しいと願った。世界を手に入れれば、本当に欲しいものが手に入ると思ったのさ。…それ以外のものは全て、もう手に入れていたから」 万能である彼女が願うだけで、世界は彼女の手の中へと堕ちていった。パンドラの箱に眠らされていた恐怖≠ノよって、世界はいとも容易く支配された。けれど、それでも彼女が本当に望むものは手に入らなかった。 「その、彼女が本当に欲しいものってのは何なんだ?」 その問いかけに、快斗の口許が嘲りの形に歪む。けれどそれは決して新一に向けたものではなく、自分に向けたものでもなかった。ただ、皮肉なものだ、と。 「――死≠ウ」 運命というものが存在するなら、それはなんと自分に皮肉に巡ってくれるものなのだろうかと、快斗は昏く嗤った。 「彼女が欲したのは死≠セよ。全てを与えられた彼女は永遠の命≠燻揩チていた。でも彼女はそれを嫌った。死≠望んだんだ」 全てを与えられた女が、ただひとつだけ得られなかったもの。それが、死。命が尽き、朽ちる瞬間。永遠を生きることに疲れた彼女は、生命が生命たる証、死を望んだのだ。 「でも、その望みだけは叶わなかった」 「…どうして?」 「さあ。そんなの、俺にも分かんねえ。ただ、望みは叶わなかったけど、彼女はそれを叶えるためのある方法を思いついた」 快斗はぎゅっと瞼を閉じた。 あれから気が遠くなるほどの長い時間をここで過ごしたが、未だにあの声は消えることなく快斗の脳裏に響くのだ。甘く、優しく、けれどどこまでも快斗の憎しみを掻き立てて止まない声が。 ――集めなさい、と。 「…無理に話さなくてもいいぜ?」 不意に近くから新一に声を掛けられ、快斗は顔を上げた。思ったよりもずっと近くにあった顔に驚き、束の間ポーカーフェイスを忘れてしまう。けれど相手はそんな快斗の様子に気付いているのかいないのか、神妙な顔つきで言うのだ。 「そんな死にそうな面してまで話せとは言わねーからよ」 あ、でも、キッドのこんな顔を見れる奴もなかなかいねーよな。 そう言った新一の声がじんわりと鼓膜に響いて、快斗の脳裏を占めていたパンドラの声はいつの間にか消え去っていた。燻っていた醜い感情までもがすぅっと消えていく。 なぜ、彼は自分にこんな言葉をかけてくれるのか。なぜ、あんなにもささくれ立っていた心を静めてくれるのか。 快斗はポーカーフェイスを繕うことも忘れ、ただその顔を見つめていた。 「名探偵って、…変わってるよな」 「は? どういう意味だよ?」 「だって、怪盗相手にそんなこと言ったりして。探偵としては尋問すんのが普通じゃねーの?」 「…んだよ、尋問されてーのか」 「そうじゃないけどさ」 「ならいいだろ。文句言ってんじゃねーよ」 「いや、文句でもなくてさ」 快斗はもう、ポーカーフェイスを放棄した。 「嬉しいんだ」 そう言って、目一杯微笑んだ。ほんの小さな言葉のひとつひとつにもらった喜び≠ェ少しでも伝わるように。 案の定、吃驚したように瞠目したあと、新一の顔はみるみる赤く染まったのだった。 「おまっ、おまえの方が変わってんじゃねーか!」 「どこが?」 「尋問されて喜ぶ奴がどこにいんだよ!」 「あれ、やっぱり尋問だったの?」 「うるさい、揚げ足を取るな!」 新一の顔がますます赤くなる。その顔を見て思わず可愛い、と思ってしまった快斗だが、それを口にしなかったのは懸命な判断と言えるだろう。 まあまあと新一を落ち着かせながら、快斗は話を戻した。 「で、話を戻すけど。その方法ってのが、赤い石≠ノ永遠の命≠封印することだったんだ」 永遠の命さえ封じてしまえば死≠ェ訪れると考えたのだろう。そしてそれは当たらずとも遠からず、彼女に束の間の夢を与えた。 永遠を瞬時に封じることはできない。しかし、長い月日をかけて少しずつ封じていけば、いずれ彼女にも死≠ェ訪れるはずだった。それが彼女の寿命となるはずだったのだ。 しかし、それは叶う前に打ち砕かれた。――快斗の手によって。 「…俺が探していたものは、永遠を与える≠ニ言われたビッグジュエルだった」 「!」 初めは、そんな馬鹿げたもの、と思っていた。永遠などあるはずがない、なぜそんなもののために父が命を落とさなければならなかったのだと、思っていた。けれど石は存在し、永遠もまた存在した。 快斗はようやく念願叶い、全ての元凶である宝石を組織連中の目の前で叩き割ってやった。赤い宝石は無惨にも砕け散り、あとには永遠という儚い夢だけが残った。そう、思っていた。 けれど事実は違った。全ての終わりだと思っていたものは、始まりに過ぎなかった。 宝石を破壊し、組織を壊滅させ、傷もようやく癒え、白い衣から解放された頃――それは起こった。突然目の前に広がった樹海。襲い来る、見たこともない獣たち。ただ翳すだけで発動する、不思議な力。 わけも分からずに駆け抜ける快斗の目の前に、やがてぽっかりと円形に切り取られた空間が広がった。そこには木も草もなく、ただ眩しいほどの白い大理石で造られた神殿のような建物があった。そこで初めて、パンドラと会ったのだ。 「蒼い宝玉を壊されたくなければ、赤く輝く宝石を集めなさい=v 「え?」 「彼女に言われたことさ」 新一が目を瞠る。聡い彼のことだ、たったそれだけで彼女が何を言いたいのかを悟ったのだろう。快斗もまた、小さく吐息しながら天を仰いだ。……と言っても、今見えるのは昏い洞窟の天井だったけど。 「蒼い宝玉を壊す、だと…?」 「ああ。確かにそう言った」 「じゃあ、彼女は…、…」 壊す気か、と。声にはならずに唇の動きだけで呟いた新一に、快斗は無情にも頷いた。誤魔化したところでなんの意味もないことだ。どうせ関わってしまったのだ、新一にも知る権利はある。 「死ねないのなら、彼女は世界ごと壊す気だ」 ぐらりと、新一の視界が歪んだ。 |