「う゛ー……」

 洗面器の水に浸してひんやりと冷たくなったタオルを、既に温くなってしまったそれと取り替える。
 その感触が気持ちいいのか、うんうんと唸っていたのが少しほっとした表情になった。

「新一、飯食えそう?」
「……だめかも。」

 発熱によって視点の定まらない新一の瞳が、それでも快斗を見ようとキョロ、と動く。
 快斗は新一の視界に入りやすいようにと体を起こして覗き込んだ。
 自然と近くなったふたりの体。
 新一は安堵したかと思うと、慌てて布団を口元まで引き上げて言った。

「あんまりよるなよ…うつっちまうだろ…」

 心配してくれるのは嬉しいが快斗に移すのは戴けない。
 風邪で呂律は怪しいが、それでも自分を気遣ってくれる新一に快斗の表情も自然と綻ぶ。

「良いよ?新一の風邪ならいくらでも引き受けるぜv」

 そう言って、汗と濡れタオルでしっとりとしている額に口付けた。
 ただでさえ赤い新一の顔に、更に朱が差す。
 それを満足げに眺め、快斗は幸せそうな笑みを浮かべた。

「……ばーろぅ。」

 小さく呟かれた照れ隠しの言葉は羽毛布団に吸収され、最後の方は尻切れになってしまったが、それでも快斗にはきちんと伝わったようで。
 やがて鳴り響いたインターホンにも気付けない程、ふたりだけの甘い空間を創り上げていた(笑)。










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名探偵の恋愛事情 その6 毛利蘭の家庭訪問編
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 間隔を空けて一度、二度と鳴らしてみたが、インターホンに応答はない。
 相手は病人なのだから仕方ないと、蘭は溜息混じりにもう一度、と手を持ち上げたのだが、

「はいはい!ごめんなさい、今開けます!」

 中から慌ただしく駆けてくる音と家主の声が聞こえてきたため、三度目を鳴らすのはやめたのだった。
 蘭が今日ここへとやって来たのは、名探偵と名高いが実はただのズボラな推理オタクである幼馴染みが、風邪を引いたとかでもう3日も学校を休んでいるからだ。
 ただでさえ出席日数のヤバイ新一を心配し、彼と幼馴染みで仲の良い蘭が担任より様子を見てくるよう頼まれたのだった。
 病名はただの風邪で、心配するようなこともないのだが……如何せん3日も休まれれば嫌でも気になってしまうもの。
 折角だからと病人食に最適な材料なんかも買いだしていた。
 が、家の中から聞こえた、その元気の良すぎる声に蘭は眉を寄せた。
 学校を休まなければならないほどに重症だというなら、今ここで新一の声が聞こえてくるのはおかしい。
 さては仮病か、と疑いかけた蘭だったが……

「あれ?蘭ちゃん?」
「え?……く、黒羽君?」

 中からひょいと顔をのぞかせたのは、新一と瓜二つの、先日知り合ったばかりの黒羽快斗だった。
 そういえば彼らは容姿どころか声ですら似ていたのだ。
 間違えても仕方がない。
 本人達によるとふたりは兄弟でも親戚でもなく友人ですらないらしいのだが、ではなぜここにいるのだろうか?

「黒羽君、どうしてここに?…あ、もしかして黒羽君も新一のお見舞いに?」

 蘭は思い当たったことを……と言うよりは、それしかないと思って尋ねたのだが。
 どう答えたものかと快斗が苦笑を零す。

「お見舞いっていうか…て、“も”ってことは蘭ちゃん、新一のお見舞いに来てくれたんだ?」
「先生に様子見てこいって頼まれちゃって。私も気になってたし。」
「そっか!新一、今寝てるけど目は醒めてるから会ってくると良いよ。」
「うん。」

 蘭は小さくお邪魔しますと言ってから玄関を上がった。
 昔この豪邸で新一と“探検”をしたため良く知っている家を、新一の寝室へと歩いていく。
 外装のぼろさと比べて内側は随分と綺麗に出来ている。
 ズボラな新一にしてはなかなかこまめに掃除しているらしい様子に感心しながら、蘭は軽くノックをして部屋へと入った。

「新一、具合どう?」
「…蘭!」

 突然の来客に驚いているようで、ベッドに横になっていた新一は慌てて起きあがった。
 寝乱れた髪や寝間着を軽く整えた新一だったが、すぐさま快斗に注意される。

「新一、起きちゃ駄目だろ!」
「これぐらい平気だって。」
「……そー言って三日前に風邪引いたのは誰だっけ?」
「ぅ…。」

 新一がバツの悪い表情を浮かべる。
 対する快斗はと言うと、今度ばかりは譲らないとしかめっ面をしていた。
 新一が三日前に風邪を引いてしまったのは、そもそも快斗の忠告を守らなかったのが発端だ。
 夏も終わり秋に入り、もともと冷夏だと言われた今年は秋と言っても初冬に等しい気候になっていた。
 そんな中、警視庁へと向かおうとした新一の服装が薄着だと注意した快斗。
 けれど新一は多少寒くとも厚着をするのが嫌いな質で、平気だと薄着のまま出掛けていったのだった。
 その結果、見事に風邪を引いてしまったのだ。
 返す言葉もなくて当然だろう。
 もちろんその辺りの諸々の事情は知らないのだが、ふたりの遣り取りに蘭が苦笑して言う。

「様子見に来ただけなんだからそのままで良いよ?」
「でも…」
「良いから、さっさと治してさっさと学校に出てきなさいよ。」

 蘭ちゃんの言うとおりだ、と視線を投げてくる快斗に、新一は拗ねたように唇を尖らせながらも布団の中へと入り直した。
 昨日は体調がすこぶる悪く、快斗に学校を休ませて看病させてしまったという後ろめたさもあるのだ。
 快斗はむしろ一日中新一と居られたと喜んでいたりするのだが。
 と、そこで快斗は蘭の手にしているスーパーの袋に気が付いた。

「蘭ちゃん、それ、晩ご飯の買い物?」
「あ、これ?久しぶりに新一に何か作ってあげようと思って買って来たの。」
「「え?」」

 見事にハモった声に、蘭がキョトンと小首を傾げる。
 何がそんなに意外だったのだろうか。
 すると新一が、なんとも申し訳なさそうな表情で言った。

「快斗…もう飯作ってくれたんだよな…?」
「まぁ…」
「そうなの?」
「……悪ぃ;」

 新一は心底申し訳なさそうに謝った。
 折角作ってくれるというのは嬉しいのだが、快斗が作ってくれた料理を食べずにおくのは勿体ない。
 これから作ろうというなら、既に作ってあるそちらを食べようと提案した新一だが。

「良いじゃん。折角だから蘭ちゃんの手料理食わしてもらえよ、新一!」

 突然快斗がそんなことを言いだした。

「でも、お前が作ってくれたのは?」
「一日ぐらいおいてても、食べる前にもう一度火にかければ平気だよ。明日でも良いじゃん。折角なんだしさv」
「…快斗がそう言うなら……」
「うん、決まり♪」

 楽しげに笑う快斗と対照的に、新一は布団の下に隠した唇を尖らせていた。
 確かに久しぶりに蘭の手料理を食べるのも悪くない。
 けれど快斗の作った料理が何より好きな新一なのだ、本音ではそっちを食べたかったのだ(笑)。
 しかしはっきりとそう言ってしまうには、新一は蘭に弱かった。

「なら、頼む、蘭。」
「うん…でも本当に良いの?」
「良いって、良いって♪あ、キッチンの配置ちょっと変わったから、俺が案内するよ。」

 そう言って蘭の背を押すようにして部屋を出ていく快斗の背中を、新一は唇を尖らせたままに見つめていた。



* * *



「うわぁ!前よりずっと機能的になってる!」

 連れてこられたキッチンに立って、蘭はまず感嘆の声を上げていた(笑)。
 以前は割と頻繁に、夕食を作りに寄っていた工藤邸のキッチン。
 が、はっきり言ってここのキッチンは全く機能的ではなかった。
 常時締め切りに追われている小説家と、演技以外ではからっきし不器用な元大女優、そしてどこまでも寝食に興味のない彼らの息子。
 そんな三人では、たとえどんな素晴らしいキッチンを持っていたところで、道具の配置は少しも機能的ではなかった。
 けれど、いくら料理を作りに来ているからと言って他人の家を勝手に弄るわけにもいかず、不便だ不便だと思いながらも使っていた蘭である。
 快斗によって非常に機能的で便利になったキッチンに、必要以上に感動してしまったのだ。

「すごい、これ全部黒羽君がやったの?」
「うん。うち母子家庭だから、どうすれば一番効率よく料理作れるかとか自然と極めちゃってさ。」
「そっかぁ。同じ片親でも父親だと全然駄目だよ。」

 そう言って笑いながら、蘭は買ってきた食材を次々と取り出していく。
 その材料を見て、快斗は料理のおよその見当をつける。

(へぇ、根深汁か…確かにネギは風邪に良いって言うしな。)

 さすが蘭ちゃん、新一のことよく考えてるなぁ、と快斗は感心していた。
 確かに快斗は料理がうまいが、それは技術と愛情によるものであって、こういった看護的な料理を的確に選ぶことは出来ない。
 今日だって、ただ新一の弱った胃にも消化しやすいようにとオジヤにしてしまったという安直さだ。
 それでも味付けは誰にも負けない自信はあるが、やはり蘭のように的確に献立を選ぶことも大事だろう。
 本業がマジシャンなのだから、という言い訳は、こと新一において快斗には通用しない。

「黒羽君ってさ、随分このキッチン使い込んでるみたいだけど、よく作りに来てるの?」

 包丁で材料を切り分けながら、蘭が何とはなしに聞く。
 快斗は鍋やら食器やらを取り出していた。

「ていうか、飯は大抵俺が作ってるんだよ。新一も暇な時は作ってくれるけどね。」
「え?てことは、毎日来てるの?」

 当然の疑問だろう。
 快斗は苦笑しながら違うよ、と答えた。

「毎日来てるんじゃなくて、俺がここに住んでんの。」
「えぇ!?」

 ケロリと、まるで何でもないことのように言われた言葉に、蘭はこれ以上ない程に驚いた。
 思わず包丁の動きも止めて快斗を凝視するが、快斗は気にせず食器を並べていく。
 その数は全部で三人前。

「だから、俺の分も作ってね、蘭ちゃんv」



* * *



 風邪を引くと人が恋しくなる。
 よく言われるその言葉は、稀代の名探偵にも当てはまるようで、階下から聞こえてくる楽しげな笑い声に、新一は孤独感を募らせていた。
 自分のことを心配して蘭がここに来てくれたことはよく解っているが、風邪を引いてこじれまくった新一の優秀な頭脳では、快斗を取られてしまったようにさえ思えてくる。
 この場にいない快斗に、新一は理不尽な不満を募らせるが……

(大体、なんで蘭が飯作ってくれるって言ってんのにお前まで下りるんだよっ)

 新一の不満など所詮その程度だった。
 蘭が来てから既に一時間近くが経とうとしている。
 その間、快斗は何度も新一の様子を見に上がってきてくれたが、手伝いがあるからと数分するとすぐに下りてしまった。
 ここにいても何もすることがないのだからそれは仕方ないことなのだが。
 快斗が部屋を出て行ってしまうたびに、新一はひどく寂しくなるのだった。
 快斗は、忠告を聞かなかった新一のために学校まで休んでくれている。
 それなのにこれ以上を望むとは自己中心的も良いところだ。
 それは解っているし、だからこそ何も言わないけれど。
 だけど。

「……バカイト。」

 寂しげなその声が室内に小さく響いた時、階段を上ってくる足音がした。
 新一は慌てて布団を被りなおすと、今の情けない表情を見られたくなくて咄嗟に扉に背を向けた。
 登ってくる足音はどうやらふたり分らしく、蘭も上がってきているようだ。
 おそらく蘭の料理が出来上がったのだろう。
 やがてノックが聞こえてきた。

「新一、入るよ。」

 一応とばかりに蘭が声をかけ、返事はなかったが室内へと入ってきた。

「御飯できたよ。」
「あらら、寝ちゃった?」
「……いや、起きてる。サンキュな。」

 折角作ってくれた料理に、不貞寝を決め込むわけにもいかず、新一はもそもそと体を起こした。
 途端に鼻孔を擽る良い匂い。
 料理を盆に載せて佇む蘭と、にっこり笑いながら起きれる?と聞いてくる快斗。
 久しく食べていなかった懐かしい蘭の手料理と快斗の笑顔に、沈んでいた新一の気持ちが徐々に浮上しだした。

「すげ…純和食だ。」
「久しぶりだから張り切っちゃったv」
「蘭ちゃん、俺の分まで作ってくれたんだぜ!一緒に食おうなv」
「……うん。」

 快斗の満面の笑顔に、それまでの不機嫌さなどどこかへ飛んでいってしまう。
 新一もその笑顔に答えるように、照れくさそうににこりと笑った。
 その様子を遠目に見ていた蘭は意外そうに目を瞬く。
 新一がこんな風に笑うところを、長い付き合いの蘭でも見たことがなかったのだ。
 だというのに、その笑いは作ったものではなくとても自然なもの。
 新一のこんな表情も彼は見慣れているのだろうかとふと思った。

「食わしてやろうか、新ちゃんvv」
「ひとりで食える!」
「ちぇー…」

 本気で拗ねたような表情を見せる快斗を笑いながら眺めていた蘭だが、はっと気付いた。

「あっ、お箸がないっ」
「ホントだ、忘れてた。俺持ってくるよ。」

 お盆の上に載っているのはふたり分の料理だけで、肝心のお箸を持ってくるのを忘れていたのだ。
 両手の塞がっている蘭の変わりに快斗が立ち上がろうとそう声をかけたのだが……

「……新一?」

 立ち上がりかけて、けれど快斗は動くことが出来なかった。
 新一の手がしっかりと快斗の服の裾を握っていたのだ。
 不意に声をかけられ、新一がきょとんと見返す。
 暫くの沈黙の後、新一は自分のとんでもない行動に気が付いた。
 慌てて掴んでいた裾を離す。

「わ、悪ぃ、なんでもねぇっ」

 蘭のいる手前、慌ててフォローしようと試みる新一だったが、何せ現在彼の頭はぐちゃぐちゃにこんがらがっているのだ。
 まともな言葉など何一つ出てこない。
 そんな新一の様子に、快斗は嬉しそうに笑みを向けている。
 無意識に飛び出た新一の手が、“お前がいなくて寂しかった”と言外に伝えているような気がしたのだ。
 既に手は離されているのだが動くに動けない状況に快斗が困っていると、

「…そっか!」

 ぱん、と蘭が両手を打ち合わす。
 いつの間にかお盆を近くの机の上へと置いていたらしい。
 そのおとに驚いた新一がおそるおそると蘭を見遣る。

「そっかって…何が…?」
「ん?ううん、気にしないで、新一!私、そんなのちっとも気にしないわよ!」
「……は?」

 訳が解らないと尋ね返す新一を余所に、蘭はなんだかとても楽しそうだ。
 固まりかけている新一の変わりに快斗が尋ねる。

「あの、蘭ちゃん?気にしないって何を…?」
「黒羽君たちがソウユウ仲だってこと!」
「「!!!」」

 そっかー、そういうことかー、そーならそーと早く言ってくれれば私だってこんな……
 ぶつぶつとひとりで納得しているらしい蘭の声が聞こえてくる。
 新一の頭の中は白一色だ。
 快斗は何とも言えない微妙な表情をしている。
 もともと恋人同士だというのを隠そうと思っていたわけではない。
 新一は言うのが面倒だから、快斗は言うのが勿体ないからと敢えて口にしなかっただけなのだ。
 新一も快斗も自分たちの想いに偽りはないし、後ろめたく感じることもない。
 だから、別にばれてどうのこうのということはないのだが。
 ただ、お互いの幼馴染みはやはり特別なものであって。

「ナイショだなんて水くさいよ、新一!」

 嬉しげに笑う蘭に、新一はリンゴよろしく火照る顔をどうする術も持たなかった。



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