翔べない天使
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 次第に疲れの見え始めた一般客を眺め、どうしたものかと快斗は思案に耽った。
 新一がここを離れてからすでに小一時間が経つ。
 始めはとらえることのできた気配も次第に遠くなり、今ではもう感じることもできない。
 本当は今すぐにでも彼の側に飛んでいきたいのだけれど、彼に「任せる」と言われた以上、そして「任せろ」と応えた以上、快斗は彼らを放り出すわけにはいかなかった。



 爆発が起きた瞬間。
 ずず…と響いた重い振動に、始めは誰もが地震かと思った。
 けれど何度も繰り返すように振動が続くうち、そして明らかな爆音と入り交じるような悲鳴を聞くうち、それが地震などではないことに気付いた。
 それでも、自分がこんなことに巻き込まれるなんて何かの間違いではないかと誰もが思ったのだろう。
 だが終焉とは人が思うよりもずっと容易く、理不尽なほど前触れもなく訪れるものだ。
 なかなか事態を飲み込めなかった彼らの精神は、みるみる絶望に侵食されていった。

 そしてそれを止めたのは、他でもない工藤新一だった。

「動くな!」

 爆音にも負けじと響いたその声には、思わず呼吸すら止めてしまうほどの絶対的な力があった。
 パニックに陥りかけていた人々は、逃避しそうになった心を一瞬にして現実に引き戻されてしまった。

「へたに動くと危険です。僕の指示に従って下さい」

 シアター内、それも映画の放映中であったため、館内の照明はひどく薄暗い。
 しかも電気の配線でも切れたのか、その照明すら消えた今、空間の隅にぽつぽつと灯る頼りない非常灯だけが唯一の光源だった。
 そのため初めはその声が誰のものかわからず、彼らの間には混乱と疑惑、そして反発の感情が渦巻いていたけれど……

「探偵の、工藤新一です」

 次第に暗闇に慣れた視界が姿を捉えた時、そして声の主が自ら名乗った時、彼らは思わず声を上げてしまうほどに驚いた。
 新一は暗闇の中立ち上がり、座席に縫い止められたように動けなくなっていた彼らの合間を縫って通路に出た。

「おそらく何らかの原因により爆発が起こったのでしょう。早急に避難する必要があります。しかし、先ほども言ったようにへたに動くと危険です。
 皆さん、呉々もパニックを起こさずにここで待っていて下さい。まだ安全な通路があるか僕が確認して来ます」
「ば、爆発って…、まさかこの間の…?」
「わかりません。でも、それを見つけるのが僕の役目ですから」

 震えながら囁いた少女に、新一は頼もしい笑みを浮かべながらそう答える。

「行くぞ、快斗」
「あいよっ」

 待ってましたとばかりに答え、快斗は軽々と座席を飛び越え新一の側に降り立つ。
 驚いた客の間から、更に驚いたように「あれって、黒羽快斗じゃん!」という声が上がった。
 今や快斗は若者からお年寄りまで幅広く愛される人気マジシャンだ。
 流行に敏感な若者のカップルで溢れかえったこの場に、快斗のことを知っている者がいるのは当然だ。
 快斗はまるで何でもないことのようにひらひらと手を返し、新一を連れてさっさとその場を後にした。

「――流石だな」

 快斗の声に新一はこきりと首を傾げる。

「パニックになりそうだったあいつらを一瞬で宥めちまうなんて、流石新一だよな」
「何言ってやがる。あれぐらい、その気になりゃおまえだってできるだろ」
「さあねー」

 曖昧に答えながら、でも、と快斗は思う。
 でも、やっぱりそれは新一だからこそなんだ、と。

 工藤新一という存在は光だ。
 喩えるなら――月。
 常にそこにありながら、暗闇の中でいっそう輝きを増す。
 探偵という人の死に最も近い場所にあってなお、輝くことのできる月。

(ま、その月が暗闇でも光っていられるのは太陽≠ェあるから、だけどね♪)



 爆弾を見つけに行った新一と別れた後、快斗はすぐに一般客を一カ所に集めた。
 休日の映画館ゆえに客は多いが、上映時間の関係でこの時間帯に見に来ていた者はまだ少ない方だろう。
 とは言え、決して良い状況とは言えない。
 この階は爆弾が設置されているからかそれほど損害は激しくないが、階下の状況は……考えたくもない。
 同じ犯罪者≠フレッテルを張られている快斗だけれど、人の命を奪う輩ほど愚かで醜い者はいないだろうと眉を寄せた。

 初めのうちは互いに「きっと大丈夫だ」とか「工藤君がなんとかしてくれる」などと励まし合っていた彼らも、こう時間が経ってくればじわじわ精神が蝕まれていく。
 増してこのような状況下では一秒が一分、十分が一時間のように感じられるのが当たり前だ。
 次第に不安と絶望に押し潰され始めた彼らに、快斗はただ「もう少し辛抱してくれ」と言うしかなかった。

 ――けれど。

「…あいつ、ひとりで逃げたんじゃねーのか」

 室内の隅の方で蹲るようにして座っていた少年がぽつりと呟いた。
 まだ十五、六歳の少年だ。
 隣には同じ年頃の少女が同じように蹲っている。

「そんなわけないだろ」
「…こんなに時間がかかるなんておかしいだろっ?きっと見つからないから、ひとりでさっさと逃げたんだ!」

 窘めるような快斗の口調に反発し、少年は激昂するままに立ち上がりながら喚いた。
 その声は密閉されたこの空間によく響き、それまで押し隠してきた彼らの不安を一気に煽った。
 すぐにざわつきだす彼らを宥めようと、快斗も立ち上がりながら言う。

「だから、そんなわけないだろ。逃げ道が見つからないなら、あいつだって逃げられないんだから。あいつを信じろ」
「うるさいっ、何が信じろだ!探偵ったってただの子供のくせに、どう信じろって言うんだよ!」

 それは確かに少年の声ではあったけれど、その場にいた誰もが思っていた本音でもあった。

 名探偵、工藤新一。
 その名声は誰もが知っている。
 けれど同時に、その確かな実力を知る者が僅かしかいないのもまた事実だ。
 新一は殺人事件を専門に扱う探偵であるがゆえに、一般の人々の依頼を受けたり関わったりすることがほとんどない。
 それもそうだ、彼はまだ高校生なのだから。

 そう、確かに子供だ。
 信じられるものかと、そう叫んだ少年と三つと年の変わらない子供だ。
 けれど――
 彼をただの℃q供と呼ぶことは、決してできない。

「…確かにあいつはまだ子供だよ」

 快斗だとてまだ十八の子供ではあるが、自分のことをただの子供だとは思わない。
 …思えるはずが、ない。
 マジシャンだとか、片親だとか、犯罪者だとか、そんなことではないのだ。
 ただ圧倒的に目の前の少年とは違うもの。
 それは、経験だ。

「今言わなくても何れ知ることだ。当事者であるあなた方には知る権利があるだろう。
 あいつが探してるのは脱出経路なんかじゃない。
 ――爆弾だ」

 ざわめきが広がる。
 立ち上がった少年の顔が哀れなほど強張った。

「警察に犯行声明があった。この階には、この建物なんか一瞬で潰してしまうくらいの爆弾があるらしい」
「そんな!ここにいたら死んじゃうってことっ?」
「慌てないで。あいつはその爆弾を解体するために探してる」
「そんなの待ってらんねーよ!早くここから逃げた方が…」

「――逃げ道なんてないんだよ」

 取り乱し、慌てふためき、勢いきって駆け出そうとする者たちまでいる中、死刑宣告のようなその声は容赦なく告げた。

「安全な%ケなんてどこにもない。非常階段は潰れてるし、飛び降りようにも脱出用シュートもないし、こう炎上してちゃヘリも近づけない」

 犯人は随分と用意周到で、逃げ道という逃げ道をことごとく潰している。
 それほどまでに人質を逃がしたくないのか、或いは別の狙いがあるのか。
 その真意は定かではないけれど、つまるところ、自分たちに残された唯一の救いは爆弾を解体し外からの救助がくるのをひたすら待つしかないのだ。

「だからあいつは爆弾を探しに行ったんだ。今もっとも危険なのは、…新一だ」

 安全≠ナあることに拘りさえしなければ、脱出に使える経路はないこともない。
 けれど、ただでさえお人好しが過ぎる男だ。
 自分の命だけでなく快斗の命も、快斗の命だけでなくここにいる彼らの命も。
 その上彼は、今この場で危険な目に遭っている人たちをも、みんなみんな救おうとするのだ。
 たった二本しかない、その細く頼りない腕で。

 爆弾を放置して逃げ出せば、この階にいる人は逃げれても他の階にいる人は逃げられないかも知れない。
 きっと救助が間に合わず失う命は息を呑むほどあるだろう。
 けれど、時間さえあれば救出できたはずの命も、爆弾が爆発してしまえば救われることはないのだ。
 そうなれば、彼の探偵はひどく心を痛めるに違いない。
 そんなことは快斗の望むことではなかった。

「あいつを知らない人に信じろと言うのが無理な話なのかも知れない。でも、今この場をどうにかできるのは俺でもあんたでもなく、新一ただひとりだ。探偵としてあらゆる経験を積み重ねてきたあいつだけが、この状況を打開できる。
 だから敢えて言うんだ――工藤新一を、信じて欲しい」

 わかってくれたのか、それとも爆弾の話がショックだったのか。
 少年はもうひと言も発せず黙り込んでしまい、逃げだそうと立ち上がった者も元の場所に座り込んでしまった。
 快斗は短く息を吐き、少し様子でも見ようかと扉からひょっこり顔を覗かせた。
 すると、扉のすぐ横の壁に背を預けながら座っていたらしい女性が、聞こえるか聞こえないかの微かな声で問いかけてきた。

「…信じてるのね」



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