翔べない天使
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耳の横で揃えられた真っ黒の髪が印象的な、まだ二十代前半の活発そうな女性。
こんな状況だと言うのに彼女の目には他の客たちのような絶望がない。
快斗が黙っていると、特別返事を期待していないのか、彼女は独り言のように続けた。
「どうしたらそんな風に信じることができるんだろう」
体を丸めるように折り曲げた膝を腕に抱え、どこともわからない前方をただじっと見つめている。
瞳には何か覚悟のような強い意志が垣間見えるのに、怯えるように膝を抱えている。
その矛盾。
何とも言いようのない引っかかりを覚え、快斗は彼女の独り言に答えを返した。
「俺にとっての全てはそれだけだからだよ」
「…どういうこと?」
そこで漸く彼女は快斗と視線を合わせた。
「俺はあいつを信じちゃいない」
「…なら、なんで彼を信じろなんて言うの?」
「貴方や他の人にとっては、あいつが全てじゃないからさ」
わからない、と眉を寄せる。
快斗は彼女と目線を合わせるように隣へしゃがみ込むと、その目を覗き込みながら言った。
「信頼と疑心は表裏一体だ。信じれば信じるほど、裏切られた時の反動もでかい。
でも、俺にとってはあいつが全てだから、裏切られるなんてことはないんだ。あいつのどんな想いもどんな行動も、全て受け入れる。
だから俺はあいつを疑わない。だから俺は、あいつを信じてるわけじゃないって言ったんだ」
人は、たとえ自分自身にだって裏切られる。
それは多分、真に自分のことを心から愛せる人がいないからだ。
でも、だからこそ――
自分ではない誰かを心から愛することができる。
「…まるで、天使だね」
彼女の微かな呟きを拾い、快斗はおうむ返しに「天使?」と聞き返す。
「あなた、まるで神さまに恋した天使みたい」
「俺が天使で、あいつが神さま?」
「そう。だって、神さまは全ての生命に平等だって言うでしょ?だからその心を独り占めになんてできない。…報われないじゃない。
でもあなたの話を聞いてると、天使にとっては神さまが全てだから、たとえ自分だけを愛してくれなくても天使は神さまを恨んだりしない…」
神さまのすることは絶対だから、天使はそれを受け入れるしかない……
快斗を見つめていた彼女の視線が伏せられる。
瞼の奧、睫毛の下に揺れる瞳に初めて、哀しみのような色が浮かんでいる。
快斗は、彼女の中に秘められた覚悟が何なのか漸く気付いた。
「それは違うな」
立ち上がり、快斗は前方を見渡す。
そこには憔悴しきった様子で蹲っている者たちがいる。
それを目を細めながら眺め、言った。
「新一は神なんかじゃない。俺は天使なんかじゃない」
神も仏も、信じたことはなかった。
目に見えない、触れもしない、そんなものが救ってくれるとは思わなかった。
ただ、思った。
神がいなくてもいい。
仏がいなくてもいい。
ただ目に見えて、この手で触れられて、そしてこの体を抱き締めてくれる人がいてくれればそれでいい、と。
それだけを、思った。
「たまに思うんだ。神は確かにいて、人は確かに天使だったのかも知れないって。
でも、神さまだけを愛することができなくなった天使は、翼をもがれて地上に落とされたんじゃないか、ってね」
平等に、ただひたすら均等に。
特別になることなく、それゆえ自分という存在に迷った天使は、自分だけを見てくれる誰かを、自分だけに見られてくれる誰かを求めた。
けれど、それは神の国での禁忌。
天使は翼をもがれ、そうしてやっと、人として自分という特別な存在となる術を見つけたのだ。
「あいつは俺にとっての全てだ。そして俺も、あいつにとっての全てなんだ。
それさえわかってれば、疑心を抱えてあいつに敵対することなんてないだろ?」
信じてるわけじゃない。
裏切られることをおそれないから。
人が裏切り≠ニ呼ぶその行為すら、それがその人なのだと受け入れられる。
そして、受け止めることができる。
「貴方は後悔してるんですね――杉浦さん」
びくっ、と彼女の肩が揺れる。
快斗は前を見たまま彼女を見ようともしない。
けれど、聞こえてくる嗚咽が彼女の後悔の現れであることは疑いようもなかった。
「あの人を、…信じてた。だから私、裏切られたって、思った。だから、自分からあの人を捨てたのに――
今、こんなにも悔やんでる…!」
頭を抱え、わっ、と泣き出した彼女を、けれど快斗は抱き留めようとも慰めようとも思わなかった。
天使が楽園を追放されたのは、神を捨ててでも手に入れたい誰かがいたから。
彼女にとってのその相手は今監獄にいる杉浦であり、今抱き締めて貰いたいのもまたその人でしかないのだ。
「ただあの人を返して欲しかった…それだけのために、自分がこんなにも非道いことができるなんて思いもしなかった…」
いくつ、命を奪っただろう。
いくつ、理不尽な哀しみを生み出しただろう。
今目の前にいる彼らの苦しみさえも生み出したのが自分だなんて、未だに信じられない。
けれど何より信じられないのは――
自分がこんなにもその人を愛していたということ。
「貴方だけじゃないよ」
「…え?」
涙を堪えながら見上げる彼女に快斗も視線を合わせる。
「人は誰でも狂気を秘めてる。切っ掛けさえあれば誰でも殺人鬼になれる。
俺だって、もしこの爆発で新一を失うなんてことがあれば、今こうして話してる貴方だって俺は躊躇わず殺すよ」
そんな、凍えるような寒々しい台詞を、快斗は微笑みさえ浮かべながら言うのだ。
けれど彼女も怯えるどころか苦笑を返す。
「…有り難う」
そう言ってジャケットの胸ポケットから携帯電話を取り出すと、それを快斗に差し出した。
「これ、遠隔操作用の携帯」
「…貴方はどうするの?」
「さあね…本当はこのまま死ぬつもりだったけど。…あの人と同じ場所に行くなら、悪くないかな」
「そっか…」
「それより早く彼のところに行ってあげて。爆弾の側に感知式の小型爆弾があって、それが発動して振動を受けると本体が自動的に時限爆弾になるよう仕掛けてあるから――」
言うが早いか、僅かに目を瞠った快斗は弾かれるように駆け出した。
そのありえない速度に彼女は硬直し、けれど流石は彼の探偵の伴侶≠セと微笑んだ。
「新一!」
落ち着いて探している暇はないと、快斗は大声で叫んだ。
このビルの四階のフロアを全て占めるシアターには一から十までの劇場が並んでおり、ただでさえ広いこのフロアをひとつひとつ調べている新一を探すなら、向こうに気付いて貰う方がずっと早い。
客たちを一カ所に集めてしまったためにシンと静まりかえったフロアに、快斗の声が響く。
闇雲に走りながら新一の名前を叫び続けていた快斗は、突然聞こえた切羽詰まったような声に足を止めた。
「快斗!」
見れば、立ち上がった新一がこちらを見ている。
安堵とともに駆け出す快斗。
――けれど。
「快斗、止まれ――!」
その声とともに崩れた天井に飲み込まれそうになった快斗は、腹部に衝撃を感じた次の瞬間、気付けば床にへたれ込んでいた。
情けなくも両足を投げ出し、両手で体重を支えるように尻餅を付いている。
うまく、息ができなかった。
そこは何の変哲もない通路だった。
薄暗い照明になんとか照らし出された、さほど広くもない通路。
その向こう側に新一が立っていて、安堵に気を緩めた快斗が駆け寄ろうとして――
快斗の動作を感知した爆弾が、爆発した。
目の前にあるのは瓦礫に塞がれた通路――だった空間。
カラカラと、やけに耳につく音を立てながらコンクリートの欠片が転がり落ちる。
そこに、新一の影はない。
「――しん、いち?」
何も不思議なことじゃない。
彼は探偵なのだ。
観察力に優れ、洞察力に優れ、推理力にも優れている。
その上経験も豊富だ。
たとえば――爆破を予告する犯人がいて。
予告するからには、手元で爆弾を操作できる何らかのリモコンがあるとして。
リモコンがあるからには、それを奪われてしまった時の手段に何らかの誘爆の方法があると考えたかも知れない。
新一は感知式の爆弾を見抜き、それを回避した上でこの通路の向こうにいたのかも知れない。
そして、見つけた爆弾を解体しようとしていた時に自分が現れ、感知式爆弾があるとも知らずにのこのこと駆け寄り。
爆発して崩れた天井に飲み込まれるはずだった自分を突き飛ばした新一が、この瓦礫の下へと埋もれてしまったのだ。
「新一、新一、」
手に持っていた携帯を放り出し、快斗は我武者らに瓦礫を掻き分け始めた。
せっかく彼女から受け取ったリモコンも、今となってはまるで意味がない。
新一を助けるために向かったはずが逆に助けられ、その上時限爆弾のスイッチまで入ってしまったのだ。
これでは快斗が爆弾を仕掛けたようなものだ。
重いコンクリート。突き出た鉄筋。
みるみる傷付き血が吹き出るのも構わずに、快斗は瓦礫を掻き分けた。
指先の感覚がなくなってくる。
マジシャンの繊細な指は見る影もない。
でも、そんなもの、どうだっていい。
この下に新一がいる。
一生マジックができなくなってもいい。
それで新一が無事なら、それだけでいいから。
だから。
「新一ィ――――ッ!」
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