夜もだいぶ更けた頃。
 未だ煌々と灯りの灯る室内で、バイブ設定にされていた携帯電話が着信を告げる。
 待ってましたとばかりに相手を見るでもなく、快斗は通話ボタンを押した。

「工藤? そろそろだと思った」
『…おまえな、登録もしてねーくせに名乗る前に当てんじゃねーよ』
「だっておまえの気配だったら電話越しでもわかっちゃうからさぁv」

 未だ聞き慣れない快斗の口調に、新一は短く溜息を吐く。
 これが普通の高校生だと言うのなら新一だとてこれほど苦労はしないのだが、彼と話す度に脳裏にちらつく白い影が違和感となって、新一を戸惑わせていた。

 先日、名探偵こと工藤新一は、世紀の大怪盗の正体を学校の門前で呆気なくも知ることとなった。
 問い詰めたわけでもないのに、正体不明の大怪盗は自らその正体をばらしてみせたのだ。
 その意図はと問い質せば、何かと怪しい組織や殺し屋などの標的になりやすい新一の身辺警護のためだと言うではないか。
 なぜ怪盗にそんなことをと、初めは突っぱねていた新一だが、何を言っても引こうとしない相手に最終的に丸め込まれた、と言うのが正しい。
 どうせ言っても止めないのであれば、下手に庇われて怪我を負わせるよりも協力した方がいいと判断したのだ。
 事実、キッドは過去に新一を庇ったことで肩に銃弾を受けている。
 新一は、できることならもう、たとえどんな些細なことでも、自分のために誰かが傷付くことなどなければいいと思うのだ。

 そうした経緯で、新一はなぜ黒羽快斗という普通の高校生が、怪盗などと言うものにならなければならなかったのかを知った。
 ――私怨。
 そう口にした時の彼は、ひどく冷たい目をしていた。

「まあまあ。とにかく、工藤の用事は月下白のことだろ? 闇の申し子だかなんだか知らないけど、俺に勝負しかけるなんて大した奴だぜ」
『相変わらず情報が早いな』
「警察無線傍受してるからね」
『…この犯罪者が』
「今更じゃん」

 新一は思いきり脱力して、わざと相手に聞こえるように深々と溜息を吐いた。
 確かに怪盗キッドの存在理由も宝石を盗む理由も理解できたが、盗むという犯罪行為には納得できない。
 相手が殺人も厭わない犯罪組織だと言うのなら、堂々と警察組織を利用して監獄へぶち込めばいい――そう思うのは、新一が探偵だからなのだろう。
 窃盗罪を差し引いたところで、この男は数え切れないほどの違法行為をしていることだろう。

『とにかく、行くのか?』
「もちろん。相手が誰だろうと、彼女だけは譲るわけにはいかないね」
『だろうと思ったけど。あ、俺も行くから。オマケもいるけど』
「まじ? 工藤も来るんだ?」

 オマケと言うのは、おそらく無線でも数回名前の飛び交っていた西の探偵のことだろう。
 正義感の強いあの男はまだしも、泥棒嫌いの彼が現場まで出張ってくるとは珍しい。
 すると、新一は怒ったように声を低くして呟いた。

『当たり前だ、バーロー。おまえひとりだけ俺のこと勝手に構っといて、俺には関わらせないなんて言ったら蹴倒すからな』

 意外なその言葉に快斗は一瞬言葉を失ったが、次の瞬間には、込み上げてきた笑みを抑える間もなく声を立てて笑った。
 受話器の向こうから「コラ」だの「オイ」だの怒った声が聞こえるけれど、どうにも止めることができない。
 からかっているわけではなく、単純に嬉しかったのだ。
 彼は自分の存在を認めてくれただけでなく、少なくとも気に掛けてくれる程度には心を許してくれているらしい。
 ひとしきり笑いきると、快斗は素直に礼を告げた。

「ありがと、工藤。心配してくれてるんだ?」
『バーロ、心配なんかする必要ないだろ』

 快斗の口元に浮かぶ笑みが穏やかなものに変わる。
 これは彼なりの信頼の証だ。
 素っ気なくて、突き放しているようで、けれど何より信じていることの表れ。

 しかし、今回の警備にも絶対と言っていいほどの確立で白馬が出張って来るだろうと、快斗は顔をしかめた。
 そうなれば、新一と白馬が並んで話している姿は想像に難くない。
 となると、快斗にとっては面白くない。

(…どうせなら黒羽快斗として、工藤の隣をキープするか)

 快斗はにやりと口元だけで笑うと、早速知略を巡らせる。
 使えるコネ、もといクラスメイトを利用して会場に入り込めばいいのだ。
 新一との通話を終わらせると、彼の隣を得るべく、快斗はひとり思考の中へと沈んでいった。















の欠片















 翌朝から、警視庁内は大変な騒ぎとなっていた。
 謎の怪盗からの予告状に続き、今朝になって怪盗キッドからの予告状も届いたのだ。
 どこから情報を入手したのか定かでないが、キッドの予告状には謎の怪盗闇の申し子≠ノついても書かれていた。
 暗に「売られた喧嘩は買いましょう」と言うキッドに喜んだのは報道機関ばかりで、警察関係者は傍迷惑な怪盗ふたりに拳を握らずにはいられなかった。
 いつ仕掛けてくるか分からない怪盗に合わせているのか、キッドの予告にも時間の指定はない。
 そうして阿部智洋氏の催し会場は、望みもしないのにふたりの怪盗の対決の場と相成ったのだった。

 警視庁では怪盗キッド専任と自称する中森警部を筆頭とした二課の面々が、早急に阿部氏のもとへ警備の連絡を入れたが、あっさり断わられてしまった。
 その理由は、招待客の大半が大物政治家や各界の著名人、大事な取引相手であり、下手に警備をつけて万に一つも失礼があってはならないから、と言うことだった。
 だが、だからと言って中森も簡単に引き下がるような男ではない。
 警備を手薄にしてみすみす宝石を盗まれるわけにはいかないのだ。
 交渉の末、数人の制服警官と私服警官のみであれば会場内の警備を許可する、という形で話はまとまった。
 そして当然、煙たがる中森を圧して、新一も当日の警備に携わることになった。
 もちろん少しもいい顔をしなかった中森には、「暗号を解いた時点で既に深くこの件に関わってしまったのだから、今更放っておくことはできない」などと尤もらしいことを言って、無理に頼み込んだのだ。
 同じく、新一とともに暗号を解いた平次も、最後には大阪府警本部長の名をチラつかせ、何とか現場に足を踏み入れる許可を得た。
 こうして、会場の中には数人の制服警官と客に紛れた私服警官、中森警部、そして高校生探偵である新一と平次が警備要員として迎え入れられたのだった。



 開催時刻前から、会場には熱血ぶりを発揮する中森の怒号が響き渡っている。
 トランシーバーを片手に少ない制服警官を何とかうまく配置につかせた中森は、自身もすっかり正装していた。
 その格好が怒声とアンバランスではあったが、一見してあまり上客とも思えない、やたらがたいのいい私服警官に比べれば、幾分ましだった。
 そして当然、正装に身を包んだ新一と平次の姿もそこにあった。

「警部、今日は無理を言ってすみませんでした」

 そう言って中森へと話しかけたのは、細身の体躯に見事スーツを着こなした、工藤新一。
 真っ直ぐに伸びた黒髪は整えなくともその格好にとてもよく似合っていた。
 普段は藍色にしか見えない瞳は、それでも神秘的な強い光を持って、じっとこちらを射抜いている。
 まるで心の奥底までを見透かされているようで、正直落ち着かない。
 そんな彼の姿を遠目に眺めている視線の数は、半端ではなかった。
 本人の好みは別にして、幼い頃よりこうした社交の場に慣れている新一は、この独特な空気にも呑まれることなく平然と佇んでいる。
 その高校生とは思えないあまりに型にはまった雰囲気に、如何に中森と言えども目を奪われずにはいられなかったが、すぐさま警部の顔へと戻ると苦々しげに言った。

「いや、世話になったのは我々の方だからな。だが、君はあくまで一般人であると言うことを忘れないでくれ」
「分かってます。警部たちの邪魔はしません」
「せや、せや。役には立っても邪魔にはならんで」

 後ろからひょっこり顔を出した平次が、スーツ姿に不釣り合いな愛想のいい笑みを浮かべる。
 新一より背が高く肩幅もある体躯には、スーツがよく似合っていた。
 彼も黙っていれば文句なしの男前だ。
 きりりとした眉が印象的な平次もまた、高校生とは思えないほど場慣れした様子であった。

「服部、あんま無茶すんじゃねーぞ」
「分かってますてv せやけど気になるやん? 闇の申し子っちゅー奴と、怪盗キッドの対決」
「ふん。キッドに敵う奴などそうはおらん」

 もう何年も怪盗キッドを追ってきたベテラン警部はそう言うと、再び指示を出すべく慌ただしく走り去った。

「あの警部はん、どっちかっちゅーとキッド大好き派やな」
「バーロ、あの人はやる時はきっちりやるぜ」
「分かっとるって。それにしても、あのいけ好かん怪盗のどこが気に入るんやろなあ」

 キッドファンの奴の心理はわからんわ、と言って肩を竦める平次に、新一も同感だと口角を吊り上げる。
 それでも、きっと彼らは怪盗キッド≠ニいう男の魅力に無意識のうちに惹かれているのだろう、と新一は思った。
 純粋にマジックを愛する心。掲げる目的の重さ。そして、信念を貫く強さ。
 誰も知ることのない、しかし彼が時折見せるそれらの片鱗に、人々は心奪われてしまうのだろう。
 他ならぬ新一も、彼のそうしたところに惹かれていないと言えば嘘になる。
 それと同時に、知りたい、と強く思った。
 激しく駆り立てられる興味は、自分が探偵であり彼が怪盗だから、と言うだけでは決してない。

「ま、とにかくそろそろ時間だ。招待客がぼちぼち来るだろうな。会場の方に行こうぜ、服部」

 警察関係者だと言うことで受付は難なくパスして、新一と平次は会場の中へと入って行った。










* * *


 その頃快斗は、わざわざ黒羽邸まで迎えに来た白馬によって、半ば強引にリムジンへと連れ込まれていた。
 自分で仕向けたこととは言え、白馬の送り迎えでは素直に喜べない快斗だ。

「さあ黒羽君、約束ですからね! 今日一日僕に付き合って頂きますよ!」
「へいへい」

 ひとり意気込む白馬を余所に、快斗はこっそり溜息を吐いた。
 緩やかな安全運転でリムジンが走り出す。
 運転席と後部座席は黒塗りのガラスで仕切られていて、どうやらこちらの会話は運転手には届かないようだった。

 昨日、快斗は白馬をうまく挑発することで黒羽快斗≠会場への正式な招待客にした。
 何で釣ったかは、言うまでもなく怪盗キッド≠ナある。
 快斗をキッドだと信じて疑わない白馬を挑発するのは容易かった。
 まあ実際はその通りなのだが、決定的な証拠がなくて逮捕に踏み切れない白馬に、警察にも怪盗にも勝つのはキッドだと散々言い続ければ、プライドの高い彼はあっさり挑発に乗ってくれた。
 曰く、「そこまで言うのであれば、黒羽君も会場へご招待しますよ!」
 つまり、キッドである快斗の動きを封じてしまえばキッドは現われない、と言うことだ。
 以前もそれで危険な目に遭ったことのある快斗だが、この怪盗キッドに同じ手は二度も通用しない。
 たとえ白馬がどれほどの監視を用意しようと、その全てを潜り抜ける自信がある。
 何と言っても今回は、紛い物ではない本物の女神がついているのだから。

(そんなこと言ったら絶対蹴られるだろうけど)

 彼の怒った顔を思い描いて、快斗はくすりと小さく笑みを零した。
 ほどなくしてリムジンは会場に着き、既に大勢の招待客でごった返すそこへと停車した。
 流石に招待客の全てが金持ちと言うだけあって、珍しくもないリムジンになど一瞥もくれない。
 快斗は白馬の後に続いてリムジンを降りると、受付で二、三問答した後、難なく会場へと足を踏み入れた。
 だが、あろうことか、会場に入った白馬は突然快斗の手を掴んだかと思うと、そのまま会場を進み始めた。

「おいっ、何の真似だよ、白馬!」
「もちろん、君を拘束してるんです」
「なんで俺が拘束されなきゃならねーんだよっ」
「何を今更。君がキッドだからですよ」

 ある程度予想していたことではあったが、快斗は小さく舌打ちした。
 これでは名探偵を捜すどころか近づくこともできない。
 何より、白馬と仲良くお手手繋いで…なんて寒すぎる。

「いい年した男が手なんか繋いでたら気持ち悪いだろ! いいから離せっての!」

 しばらくその場で押し問答を繰り返すが、相手もなかなか手強い。
 ここが催し会場であることを考慮しているのか、以前のように手錠こそ使わないものの、白馬には手を離す気は全くないようだった。

 だが、こうも騒いでいれば嫌でも人目が集まってくる。
 入り口付近から聞こえてくる、この場に不釣り合いな子供の声に何事かと振り返った人々は、そこにぴたりと意識が釘付けになってしまった。
 ひとりは長身で整った体躯の少年で、鼻梁の通った力強い瞳が印象的な少年。
 それが知る人ぞ知る警視総監の息子となれば、横の繋がりに敏感な彼らが目敏くなるのも致し方ないだろう。
 倫敦では有名な探偵だと言う噂に違い無く、理知的な雰囲気を纏った白馬探の姿に視線を止めた人々は、その彼と押し問答を繰り返している少し小柄で端整な顔立ちをした少年に視線を移し、そこで再び目を瞠った。
 どこか中性的な顔に、時折垣間見える好戦的で鋭い表情。
 黒いタキシードがこれほどまでに似合う者も珍しい。
 まるでそこにスポットライトでもあるかの如く、視線を惹き付けて離さない、存在感。
 どちらもこの大人の集まる空間には不釣り合いな存在でありながら、この場にいる誰よりも目立っていた。
 そして、快斗にとっては幸運なことに、その騒ぎを見つけてやってきたのは、他でもない工藤新一その人だった。

「あ、白馬。絶対いると思ったおまえがいないからどうしたのかと思った…て、黒羽?」
「よお、工藤。久しぶりv」
「ああ工藤君。中森警部から君も来ると聞いてましたよ。ちょっと野暮用で遅れました」
「おい、野暮用って俺のことじゃないだろうな?」
「他に何があるんです?」

 そうして睨み合うふたりを「相変わらず犬猿の仲だな」と眺めながらも、ここに快斗がいることに新一は内心でひどく驚いた。
 けれど、たった一度会っただけの知り合いなのだからと、表面上にはその驚きを少しも出さなかった。

「ところで工藤君、そちらの彼が本部長の息子さんでしょうか?」
「ん? ああ、服部だよ」
「服部平次や、よろしく!」
「僕は白馬探です。彼は僕のクラスメイトの黒羽君です」
「どーもー♪ 黒羽快斗、よろしくな。」

 そう言って差し出された快斗の手を、平次が快く握り返している。
 西の探偵と倫敦帰りの探偵と知り合いになる怪盗の構図を、新一は複雑そうに見届けていた。
 だが、ふと見遣れば、白馬の右手はしっかりと快斗の左手を握っていた。

(なんでこいつらこんなところで手なんか繋いでるんだ…?)

 不審そうに見遣ってくる新一に、快斗は微苦笑を浮かべる。

「いい加減離せよ、白馬。じゃないと俺、腹立てて帰っちまうぜ?」
「ですが…、」
「どうしたんだ、白馬?」

 未だ彼の行動の意味が理解できない新一は、怪訝そうに白馬を覗き込む。
 白馬は一瞬、きらりと光った深い蒼玉に魅入られながらも、苦笑を浮かべて言葉を濁した。

「いえ、実は、彼にはあまりうろうろして欲しくないもので…」
「なんでなん? こいつも招待客と違うん?」
「彼は僕が招待したんですよ」

 歯切れの悪い白馬の口調と快斗の表情から、新一は目敏く当たりをつける。
 そう言うことかと溜息を吐きたくなるのをぐっと我慢した。

「せっかく来たのにそれじゃつまんねーだろ? 目を離したくないんだったら俺が一緒にいるぜ、黒羽」
「え…ですが…」
「なにかマズイのか?」
「いえ、そういうわけでは…」
「ならいいだろ。来いよ、黒羽。マジック見せてくれる約束だろ?」

 そう言って笑った新一の笑みに、その場にいてことの成り行きを見守っていた人々までもが見惚れている。
 咄嗟に言葉を返せなかった白馬の緩められた腕から抜け出した快斗は、これ幸いとばかりに新一へと駆け寄り、ふたりはそのまま会場端へと歩いて行ってしまった。
 残された平次と白馬が、ふたり同時に溜息を吐く。

「自覚なしであない笑い方されたら堪らんで…」
「全く同感ですね…」
「あ、やっぱあんたもそう思う?」
「ええ。彼と付き合いの長い君から見てもそうなんですか?」
「あら、なんぼ言うたかてあかんで」

 変なところで気が合ってしまったふたりは苦笑を漏らす。

「ところで、彼はなぜあんな端に行ってしまったんですか?」
「あいつ、人混み嫌いやからなぁ。こういう催しもんとか、ほんまは好きとちゃうねん」
「そうなんですか…」

 以前父親の友人の婚約パーティに誘ったことを思い出し、白馬は心中で新一に詫びたのだった。





 あまり人のいない端へと移動した途端、先ほどの笑顔はどこへやら、新一は快斗をじろりと睨みつけた。

「おまえ、ばれてんのか?」
「疑われてんの。あいつ勘だけは妙によくってさ。まあ証拠は握られてないから平気だけどね」
「バーロ、あんま白馬をなめんなよ? あいつは紛れもなく探偵だ」
「分かってるけどさ、イマイチ押しに弱いんだよ。決定打に欠けるって言うかさ。ごめんね、心配かけちゃった?」

 半眼で睨み付けてくる新一に快斗はひとつ笑みを浮かべて、すっと差し出した手の中から白い薔薇を現せてみせる。
 相変わらず見事なその手つきに、新一にはさっぱりタネが分からない。
 不思議そうに覗き込む新一に満足した快斗は、彼にだけ届くよう声を低くして囁いた。

「大丈夫。俺は彼女≠見つけるまでは誰にも捕まらないよ」
「わぁってるよ。誰もてめーの心配してるなんて言ってねーだろ。おまえの強さは、そこそこ知ってるつもりだ」

 全部、とは言い切れない。
 私怨に懸ける気持ちの強さなど新一には分からないし、分かりたいとも思わない。
 その先にあるものが新たな悲劇だけだと言うことは嫌と言うほど知っているが、それを止める術を新一は知らなかった。
 いつか、彼の父親を殺したと言う組織を前にした時、彼はいったいどうするのだろうか。
 知っているようで、上っ面しか捉えることのできない怪盗に、新一は少しだけ悔しげに息を吐いた。

「とにかく、闇の申し子には気をつけろよ」
「なんか情報あった?」
「いや、ないけど…あいつはただ者じゃないような気がする。組織に関わって働くようになった俺の直感だ。なんかまた…ヤバイ気がする」
「ふぅん。ま、何があっても名探偵は私がお守りしますよ?」
「はん、大人しく守られてやるほど俺は可愛くねーぜ」

 そう言って底意地悪く笑ってみせても、相手から返ってくるのは楽しげな笑みばかり。
 相変わらず新一には快斗の考えていることが分からなかった。
 すると、快斗は先ほどマジックで出した白い薔薇を新一のスーツの胸ポケットに差し込んだ。

「とりあえず話はここまでだね」

 こちらへと近づいてくる白馬と平次、そして正装した中森警部とその隣を歩くこの催しの主催者である阿部氏を見れば、言うまでもなく新一も口を噤んだ。
 何事かを話しながら歩いてくる彼らを新一は素早く観察する。
 怪盗キッドの変装である可能性はないが、今夜ここに現れる怪盗はふたりいるのだ。
 キッドのように変装を得意とする相手であれば厄介なことこの上ない。
 主催者の阿部智洋氏は恰幅がよく、如何にも贅沢三昧している資産家、と言った印象だ。
 だが、流石にいくつもの会社と取引を結ぶ実業家なだけあって、その目は油断なく頻りに動いている。
 口調や物腰もひどく丁寧で、おそらく社交は得意分野なのだろうと新一は思った。

「工藤君、こちらが主催者の阿部さんです」
「工藤新一です、初めまして」
「ほぉ、貴方があの有名な名探偵ですか! これはこれは…! 初めまして、阿部智洋です。今夜はわざわざ警備に来て下さって有り難う御座います」

 警備員もこのような見目麗しい方なら大歓迎だ、と阿部氏は丸い顔で朗らかに笑ってみせる。
 警察に対する態度とは百八十度違った阿部氏に、中森は面白くなさそうに渋い表情を浮かべていた。
 対する新一はと言うと、苦笑するばかりだ。
 自分の魅力に全く無頓着な新一に、この手のおだては無意味に等しい。

「阿部さん、今夜宝石はどのような警備になってるんですか?」
「ああ、宝石なら心配いりません。私が特別に雇った腕のいいガードマンに守らせています。あなた方はお客人に迷惑の掛からないよう警備をして頂ければ結構ですよ」
「分かってませんなぁ! 相手はあの怪盗キッドですぞ? そんなガードマンよりわしら警察の方がベテランです!」
「いえ、申し訳ありませんが、私はより確実な手段を取らせて頂きます。失礼だがあなた方より、私の雇ったガードマンの腕の方が信頼できますので」

 中森の顔は憤怒と屈辱に歪みまくっていたが、さすがはベテラン、阿部氏に向かって怒鳴り散らすことはなかった。

「では、僕たちは侵入口の警備に当たればいいんですね?」
「ええ…いや、そうだ! 工藤君、君には是非宝石の警備に当たって貰いたいんだが、宜しいかな?」
「「「ええっ?」」」

 突然の阿部氏の申し出に、新一と白馬、そして警部の驚く声が見事にはもった。
 阿部氏はそれにも構わずひとり話を進めていく。

「いやなに、貴方の活躍は私もよく聞いてますからね。貴方なら確実だと思いまして。如何でしょう?」
「どう、と言われても…」

 ちらりと中森の顔を見れば、更なる怒りに顔を引きつらせている。
 流石にこれを受けるわけにはいかないだろうと、新一が断りを入れる前に、とうとうキレた中森が内心の怒りを震える拳に込めて握り締めた。

「結構! わしら警察よりこんな子供が頼りになると言うのなら、彼にお願いすればいいでしょう! わしは警備に忙しいので、これで失礼する!」

 ふん、と語尾荒く言い放つと、中森はさっさと踵を帰して行ってしまった。

「あーあ、おじさん怒らせちゃった」
「はは、私は気にしないよ。警察より君の方を頼りにしてますよ、工藤君」
「はあ…ご期待に添える様、努力します」

 後が面倒だな、と新一は苦い息を吐いた。










* * *


 がたいのいいガードマンに囲まれて、小柄な新一も宝石の警備に当たることになった。
 月下白≠ヘ、前方にあるステージにて阿部氏に紹介されるまで、金庫の中に厳重に保管されている。
 この金庫の鍵は非常に特殊な構造をしており、鍵と呼ばれるものはこの世にひとつしかない。
 ひどく複雑な形をしているために、この鍵なしでこの金庫を開けることはほぼ不可能と言っていいほどの代物だった。
 それの警備に当たるのが四人の雇われガードマン。
 おそらく四人とも何かしらの格闘術を修めているのだろう、スーツ越しにも見て取れるほど、筋肉の付きは非常に宜しかった。
 そんな中、ただひとり華奢で小柄な新一は、他でもない阿部氏の希望により、宝石をステージで紹介する時に持ち運ぶと言う大任を任されてしまった。
 金庫から取り出した宝石をステージにいる阿部氏のもとまで運び、紹介している間怪しい者がいないかを見張り、そしてまた金庫まで持ち帰る。
 最も狙われやすい危険な場面だ。
 それほどまでに信頼されている名探偵の実力はもちろん、阿部氏の狙いが「工藤新一」のネームバリューにもあることは言うまでもなかった。

 催しの行程が淀みなく進行していく中、白馬と平次と快斗は、同じ高校生と言うこともあって三人で固まっていた。
 白馬には快斗を見張るという任務もあるわけだが、やはり探偵を名乗るだけあり、不審人物へのチェックに抜かりはない。
 新一が舞台を守るのなら自分たちは観客席を、と言った具合だ。
 人混みの苦手な新一にしてみれば、人の少ないステージ裏は逆に有り難かった。

 新一がステージ裏で金庫の警備についていると、またもや阿部氏が現われた。
 今度は隣にもうひとり、見知らぬ男がついている。
 新一は再び素早く観察した。
 首から提げられた、素人が持つにはやや大仰なカメラから察するに、彼はカメラマンらしい。
 長身にすらりと長い手足。
 見た目はほっそりしているが、着痩せするのか、体つきはかなりいいように見えた。
 そして、サングラス越しにも分かるほど整った顔つき。
 薄い唇が自信に満ちた笑みを刻んでいる。

「工藤君、こちらはフリーカメラマンの七瀬啓吾君だ。彼は今期待の若手カメラマンで、雑誌にも多く取り上げられている。見た通りのいい男だからね。君も名前くらいは知ってるんじゃないかな」
「いい男だなんてやめて下さいよ、阿部さん。初めまして工藤君、君の噂はよくよく聞いてるよ」
「初めまして」

 こういう会場に来るとやたら「初めまして」と言う単語ばかり口にする。
 社交辞令や挨拶にかけては、両親の躾もあってばっちり身についている新一は、にこやかに挨拶を交わした。
 だが、その内心では、笑顔とは裏腹の険しい表情を浮かべていた。

(この男――何かが違う)

 空気から伝わる気配、笑顔の奧に隠された息苦しいまでの存在感。
 他の者ならいざ知らず、人より二倍も三倍も気配に敏感な新一が気付かないはずがなかった。
 抑え付けて尚、これほど相手を圧倒する気配とはいったい何なのか。
 知らず、新一は警戒した。

「僕に何かご用でしょうか」
「実は、七瀬くんと私は友人でね。月下白を特別に撮影したいと言うんで、見せてやって欲しいんだ」

 新一の警戒が一段と強くなる。
 相手が友人だからと言って簡単に信用するわけにはいかない。
 どうしようかと迷ったが、ここは主催者である阿部氏に従うしかなかった。
 だが、七瀬の言葉に新一は一層警戒を深めるのだった。

「心配しなくていいよ。俺は宝石には興味ないんだ。どちらかと言うと人間を被写体にする方が好きでね。ただ、せっかく阿部さんが手に入れたビッグジュエルだからね。ぜひ写真に納めておこうかと思ったわけさ」
「そう、ですか。それでは」

 警戒する新一に気付いての言葉だとしても、彼の口から言われると空々しく聞こえてならない。
 新一は納得しなかったが、言われるままに金庫を開けた。
 複雑な造りになっている鍵は一筋縄では開かず、何度か複雑な動きを繰り返してようやく扉が開く。
 両手にしっかりと手袋をはめ、無駄のない動作で宝石を取り出した新一が、どこに置くのかと阿部氏に指示を仰ごうとして、七瀬がそれを制した。

「いや、宝石は君の手の中でいいよ。堅い机に置かれるよりずっと魅力的だ。君のその透けるような肌と濃紺の瞳に、月下白の白さはよく映える」
「は…?」
「確かに! 月下白の輝きがこれほどまでに工藤君に似合うとは…いやはや、偶然とは凄いものだね」
「偶然なんかじゃありませんよ、阿部さん。必然的運命です。ああ、置かずにそのまま持っていてね」

 七瀬は素早くカメラを構えると、連続して何度もシャッターを切った。
 慌てたのは新一だ。
 なぜ自分が被写体にならなければならないのか。
 何より写真を取られること自体、今は望ましくない。

「ちょ…っ、七瀬さん!」
「ああ、心配しなくていいよ。この写真はどっちみち俺の趣味で撮ってるわけだから、世に出たりはしないさ」
「そうなのかい? なんだか勿体ないねぇ」

 新一は絶句した。
 七瀬が言った「世に出ない」と言う言葉。
 これを快斗や平次が言うのならまだ分かる。
 新一の複雑な身の上を知っている者であればこそ、口にできる言葉なのだ。
 それを、出会ったばかりの、それもカメラマンに言われたのでは、驚くなと言う方が無理な話だ。

 写真を撮り続ける七瀬に新一はきつい一瞥を向けた。
 すると、シャッターを止めた七瀬はカメラを下ろし、にっこりと柔らかく微笑んだ。
 何の邪気もない笑顔が、今の新一にはただただ恐ろしいだけだった。

「それじゃあ阿部さん、目当ての写真も撮ったことだし、俺は会場に戻りますね」
「ああ、残りもぜひ楽しんでいってくれ。工藤君も有り難う。もう仕舞ってくれていいよ」
「…はい」

 新一は宝石を金庫に元通り納めると、複雑な動きを要する鍵で再び丁寧に鍵を掛ける。
 きちんと鍵が掛かっているかを確かめた後で振り返れば、既にそこには阿部の姿も七瀬の姿もなかった。

(あれは何者だ? 俺を知ってるのか…?)

 知っているとして、敵なのか、そうでないのか。
 だがそれを確かめたくとも、今この場を離れるわけにはいかなかった。
 相手がキッドであれば宝石は返却されるが、闇の申し子に盗られれば、そういうわけにもいかない。
 普通、窃盗を働く者が獲物を返却する必要は全くないのだから。
 依頼を受けた以上、新一は宝石をしっかり守るつもりだった。





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まだ何事も起きてませんね(汗)
次からいよいよ動き出します。
探偵さん3人はここでは微妙に仲良しですが、結構推理の食い違いなどでもめたりもしますよ。
私の中ではみんな熱い男なんです…!笑
快斗に遊ばれてる白馬や、新一を持て余してる服部が愛しいv
今回ちょっと新一さん余りイイトコなしかも。苦。

03.04.07.