「お待たせ致しました! いよいよ、私が手に入れた世界有数のビッグジュエル、月下白≠ご覧に入れましょう!」
阿部氏はステージに上がるなり、恰幅のいい体を大きく揺すりながらそう言い放った。
それまで隣の客との会話に花を咲かせていた人々も、食事やシャンパンを楽しんでいた人々も、その声に視線を前方へと向ける。
私服警官や高校生探偵たちの表情もきゅっと引き締まった。
宝石が最も狙われやすいのは、多分にこの瞬間だ。
窃盗犯の中でも怪盗と呼ばれる類の者は、自分の存在を誇示し鮮やかに盗み取っていくのが常套手段。
よって、最も人々の視線が集まるこの瞬間を狙われる可能性が高いだろうと、新一を含む警備関係者たちは考えていた。
だが、今夜予告を出したもうひとりの怪盗である快斗には、まだ手を出すつもりはなかった。
時間指定をしてこなかった謎の怪盗闇の申し子≠ェ現われた時に、快斗もまた行動を起こすつもりだった。
隣に佇む白馬から鬱陶しいほどの視線を感じたが、快斗は全てを綺麗に無視した。
ステージ裏では、屈強な男たちに囲まれた金庫から、新一が今まさに宝石を取り出そうとしていた。
右に左にと数回まわしながら厳重な鍵を開けていく。
カチリと音が鳴って、重々しい金庫の扉が開いた。
薄暗いその場所でも、月下白≠ヘまるで自ら光を発しているかのように光輝いている。
そしてその宝石をいとも容易く手に取ってみせた少年の瞳もまた、月下白≠フ光を受けて不思議に輝いていた。
まるで稀有なる一対の宝石だ。
彼の腕に抱かれるためにこそ存在していると言っても過言ではない。
ガードマンたちもその稀有なる輝きに知らず息を呑んだ。
だが、そんな彼らの思いなど知りもせず、新一はただ仕事をこなそうと、無感動に宝石を持ってステージへと上がった。
ステージ中央に佇む阿部氏のもとへと歩み寄れば、彼は甚く満足げに微笑みながら再びマイクを握りしめた。
「ご覧下さい! この白銀に輝くジッグジュエル、これこそが月下白≠ナ御座います!」
客の間から口々に感嘆の溜息が漏れ聞こえてくる。
それを耳にし、阿部氏は再び満足げに笑った。
それは稀有なる宝石の持ち主である自らを誇ってのことであり、そしてその宝石を他でもないこの工藤新一に持たせた自らの判断を誇ってのことだった。
ただでさえ美しい輝きを放つ宝石だが、彼の手の中にあればその輝きは一層増して見える。
いや――真実、輝いていた。
「このジュエルは、先日私が中国へ行った際に…」
阿部氏の宝石についての解説が始まった。
一瞬として気の抜けないこの瞬間に、新一は全神経を研ぎ澄ませながら会場内を見渡した。
その蒼い瞳が放つ呑み込まれそうなほどに強い光に魅入られ、宝石はもちろんのこと、それを手にした少年へと招待客は注目する。
阿部氏の解説が始まってから数分が経ったが、それらしい気配は感じられなかった。
宝石を奪うなら今が絶好の時だと思ったのだが、もしかして奴は金庫に仕舞われた宝石を狙うつもりだろうか。
普通なら有り得ないことだが、怪盗キッドと言う掟破りの存在がいる以上、否定はできない。
が、その仮説を裏切るように、凄まじい殺気とともにどこからともなく新一の眼前に黒い影が降り立った。
数コンマの遅れに舌打ちしつつも、新一は驚くべき反射神経でその場から飛び退き、現われた人物との間合いを取る。
状況をすぐに察することができた者は、三人を除き、誰ひとりとしていなかった。
中森ですら呆気にとられた数瞬の後、ひとりの婦人の歓声が静寂を打ち破った。
「な、なに…っ?」
「しっ、静かに。下手に動かないで下さい」
動揺して言葉にならない声を発する阿部氏を、新一が静かに威圧して黙らせる。
その間も闖入者から視線は外さなかったが、その漆黒の瞳と目が合った瞬間、背筋をぞくりと底冷えのする寒気が走り抜けた。
間違えるわけもなく、奴こそが闇の申し子≠セと新一は確信した。
月の欠片
突然現われた怪盗に、招待客がこぞって歓声を上げる。
今時の怪盗はみな、キッドのように人畜無害でショーマンシップに富んだエンターテイナーだとでも思っているのだろうか。
まさか、と新一は拳に力を込めた。
まさかこの相手がただの怪盗であるはずがない。
(こいつは怪盗なんかじゃない。この寒気がするほどの殺気は、奴ら≠オかいない――!)
にわかに浮き足だった観客を前に微かな笑みさえ浮かべないその人物は、上から下まで漆黒のスーツに包まれた出で立ちだった。
同じく黒の帽子を目深に被り、覗く瞳も深い闇色をしている。
身のこなしひとつ取ってもただ者でないのは確かだが、奴が怪盗でないこともまた確かだった。
ただの怪盗がこんな気配を持てるはずがない。
こんな、触れる先から凍っていきそうな冷たい気配を。
それはどちらかと言えば、闇の世界に生きる者が持つものだった。
(闇の世界…闇の申し子、ね。なるほど)
新一の稀有なる瞳がすっと細められる。
この怪盗を名乗る人物の目的はキッドでも宝石でもなく、自分だ――と新一は確信した。
目の前に立つ怪盗は、忘れるはずもないあのジンと同種の気配を持っている。
つまり、黒の組織の残党だろう。
だが、新一が口を開こうとしたその瞬間、怪盗はその口元にぞっとするほど毒々しい笑みを浮かべた。
病的な肌の白さも手伝って、その顔は妙に整って見える。
「探偵さん。その宝石、私にくれるかしら?」
響いた声に僅かに目を瞠る。
男だとばかり思っていたその人の口から出た声は、紛れもなく女のものだった。
大柄ではないが決して小柄でもない。
筋肉の付き方も、新一とは比べものにならないほどにいい。
白く整った顔は、だが女だと言われれば妙に納得できた。
「ご冗談を。渡すわけにはいきませんね」
「あら、じゃあ力尽くで奪わなくちゃいけないわね。どうなっても知らないわよ、探偵さん…?」
くすりと小さく漏れた笑みが、恐ろしいほどの殺気を孕んでいて、新一は思わずその場を退きたくなる衝動に必死に抗った。
新一の手の中にはまだ月下白がある。
相手は下らない猿芝居を続けているが、初めから目的はこんな宝石ではないのだろう。
「工藤君を援護しろ! 奴を絶対に逃がすなぁ〜!」
しばらくふたりの遣り取りに呑まれていた警察だったが、中森の怒号で我に返ると、すぐさま行動に移った。
客に紛れていた大勢の私服警官が、人並みを掻き分けてステージへと押し寄せる。
ふたりの高校生探偵も、快斗をその場に残して駆け出した。
犯罪者を前に、如何にキッド確保に燃える白馬といえども、快斗を気に懸けている余裕はなかった。
快斗は自分を監視する視線がなくなると、にやりと小さく笑みを浮かべて己の気配をすぐさま断った。
すると、同じ場所に立っていながら、彼の存在がひどく薄くなった。
彼の真横に立つ者でさえ、彼がそこに居るという事実を認識できていない。
招待客の視線が全てステージに向いているのをいいことに、快斗は足早に会場を抜け出した。
ステージの中央で対峙する新一と怪盗を中心に、まるで輪になるような形で警官が取り囲む。
だと言うのに、余程余裕があるのか、怪盗は一向に動こうとしなかった。
遅れず駆けつけた白馬と平次が新一の前に一歩歩み出る。
「バーロ、俺の前に出るんじゃねぇ!」
危ないだろうが!と続けようとした言葉を、唐突に動き出した怪盗に奪われる。
まるで舞うようにその場を跳躍すると、一瞬にして警察の輪の中から飛び出して見せたのだ。
その信じられない動きに呆気に取られている中森を白馬が叱咤する。
「警部、入り口付近の警官に連絡して出口をすぐさま封鎖して下さい!」
「わ、分かっとる!」
中森は警官を怪盗に向けて走らせながら、取り出したトランシーバーでビルの封鎖を指示した。
新一は思わず舌打ちした。
確かに奴をここで逃がすわけにはいかないが、ビルを封鎖するのは非常に危険だ。
奴がただの怪盗ならそれが最善策に違いないが、組織の残党となれば話が変わる。
もしかせずとも、ここから招待客を避難させることが最優先事項だった。
「警部! まず招待客を避難させるべきです!」
「そんなことをしていたら奴に逃げられる! いいから君は宝石を金庫に戻して来たまえ!」
急激に動き出した人並みを前にひとりではどうすることもできず、新一の内心には焦りばかりが生まれる。
確信はないが、第六感が頻りに「奴は組織の者だ」と叫んでいた。
もしも自分の所為で被害が出たら、そう考えるだけで体が震えるほどの苦痛が新一を襲った。
けれど、すぐに熱の昇りかけた頭を冷やす。
(落ち着け、ここで俺が慌てたら駄目だ。慌てるよりも俺にはやるべきことがある…っ)
一瞬にして混乱を鎮め、新一は金庫に向かって駆け出した。
鍵はまだポケットの中にある。
警官の追跡から逃げ回る怪盗の後ろ姿を横目で捉え、新一は宝石をステージ裏の金庫にさっさと仕舞い込んだ。
扉に鍵が掛かったことを確認するとすぐさま踵を返し、走りざまに声を上げた。
「僕はあちらの追跡に加わりますので、宝石の警備は頼みます!」
分かった、と頷く四人のガードマンには目もくれず、新一は再び会場へと飛び出した。
だが、既にそこには警官の姿も白馬たちの姿も見あたらなかった。
中央の両開きの扉が大きく開いたままになっている。
おそらくそこから飛び出た怪盗を追って行ったのだろうと、新一も迷わず駆け出した。
建物の出入り口こそ防げても、このビルにある全ての個室の扉を封鎖することは不可能だ。
上か下か、どちらに行くべきか、と思考に沈みかけた脳裏に、唐突に割り込んでくる――純白。
「怪盗キッドだ!」
誰かの叫び声に弾かれたように顔を上げれば、いつの間に現われたのか、白いタキシードに身を包んだ怪盗が天井近くの小窓に足を掛けて佇んでいる。
この忙しい時に…と思わないでもなかったが、宝石を奪うなら、確かにもうひとりの怪盗も中森もいない今が最も適しているのだろうと新一は舌打ちした。
キッドに何の抵抗もできずに宝石を奪われるのは悔しいが、今はそんなことを言っている場合ではない。
こちらの怪盗に危険要素がなくとも、あちらの怪盗には多大な危険要素があるのだ。
相手は危うくなれば尻尾を爆破して逃げるような蜥蜴なのだから。
頭上からこちらを見下ろすキッドを一瞥し、新一はもうひとりの怪盗を追うために扉へと向かう。
しかし、キッドファンの招待客が勢いよく押し寄せてきたために、うまく身動きをとることができなかった。
近寄る者全てを蹴散らすわけにもいかず往生していると、ふわりと、頭上にいたはずのキッドがその人垣の中へ飛び込んできた。
一際高い歓声が上がり、人混みに押し潰されそうになっていた体が自由になる。
「ご無事ですか、我が麗しの女神」
気が付けば、新一は再びステージの上へと舞い戻っていた。
いったいどんなマジックを使ったのか、キッドは一瞬にしてあの人垣から抜け出してみせたのだ。
突然消えた怪盗が突然ステージに現われたことに、招待客は驚きと賞賛を口々に叫んでいる。
だが、新一はそれどころではなかった。
キッドの胸ぐらをぐいと引き寄せ、悲鳴のように叫ぶ。
「やばい、キッド! あいつ、組織の奴だ! 早くしないと服部や警部たちが…っ!」
「なに…? 組織って、例の?」
「そうだ! 証拠はないけど絶対そうだ、あの目は一生忘れねえ!」
必死の形相で訴える新一に、「組織」と聞いたキッドの表情も一気に険しくなった。
「誰も傷付けさせねえ…!」
そう吐き捨てるなりキッドを掴んでいた手を離すと、新一はさっさとホールの扉から駆けて行ってしまった。
それに一瞬遅れて後を追おうと駆け出したキッドの腕を、凄まじい力が掴んで引き戻す。
同時に、会場中の照明が消えた。
突然の暗闇に、招待客は一気に混乱へと呑まれていく。
いったい何者かと、振り向こうとした首をもう片方の腕できつく掴まれ、キッドは振り向くことさえできなかった。
触れる先から体を走り抜ける殺気に、ともすれば逃げ出したくなる衝動を必死で堪える。
「…誰だ」
「今おまえがすべきことは、月下白を盗むことだ」
「うるさい。名探偵が最優先だ」
「ふん…その度胸は認めてやる。だが、やはりまだまだ…」
勝手にひとりごちる相手を一気にねじ伏せようと、キッドは渾身の力を込めた。
しかし、キッドの全力を持ってしても男の力には歯が立たなかった。
掴んだ手はびくともしない。
キッドの内心に焦りが生まれ始めた時、男が再び口を開いた。
「いいか、何としても月下白を盗み出せ。おまえたちには必要不可欠なものだ。この先も彼を守るつもりでいるなら、月下白がなくては話にならない」
キッドには男が何を言っているのか分からなかった。
だが男はそれだけ言うと、掴んでいた腕をふっと放した。
その隙を逃さないよう、溜めていた力を一気に爆発させ、キッドは背後に向かって回し蹴りを放つ。
しかしその蹴りは誰にも当たらず、ただ空を切っただけだった。
数瞬後には会場の灯りも元に戻り、そこには男の姿どころか気配さえ残っていない。
(あいつ、何者だ?)
全力のキッドが手も足も出せなかった。
それは、日々危険と隣り合わせで生きる者にとって、あってはならない危機的状況だった。
腕と頭に残る抗いようのない力に身震いを覚えながらも、キッドは中央の扉へと走り出す。
だが、不意に足を止めると、ふわりとマントを翻しながらステージ裏にある金庫へと踵を返した。
あの男の言うことを信じるつもりはない。
けれどなぜか嘘を言っているとも思えなかった。
なぜ月下白が新一を守るために必要なのかは分からないが、彼を守ると決めたからには、万に一つも彼を危険な目に遭わせるわけにはいかない。
それにどの道パンドラかどうか確かめなければならないのだ。
それならば、あの男に言われるまでもなく、宝石を奪って新一を追うまでのこと。
キッドは金庫を囲むように身構えるガードマンへと躍りかかった。
* * *
中央の扉を飛び出した後、新一はとりあえず階段のある踊り場へと向かった。
随分と懐の広いらしい阿部氏が所有するこのビルは無駄に広い。
会場として使用されているのは、三七階立てビルの二八階に設けられている小ホールであるため、上に行くにしても下に行くにしても、エレベーターを使わないとなるとかなりしんどい。
次第に上がりつつある呼吸に新一は眉を顰めた。
これは発作が起こる前兆だが、薬など飲んでいない。
他の可能性を考えてみても、発作を起こす原因など思いつかない。
(まさか…フラッシュバックか?)
フラッシュバック――それは、過去に麻薬などを常用していた者が、突然常用時と同じ幻覚などの症状を示す現象。
まさか、黒の組織と関わりのある者と接触したことによって、APTX4869によって引き起こされた体の負担を心が再現しているとでも言うのか。
いつの間にそんなに弱くなったのだと、新一は自らを叱咤する。
だが、いくら誤魔化してみせたところで、上がってくる呼吸をどうすることもできなかった。
踊場へと出ると、そこで一旦止まり、新一は全神経を刀のように研ぎ澄ませて怪盗の気配を探った。
たとえ何階建てのビルだろうと、何ヘクタールある森の中だろうと、奴らの仲間であるあの怪盗を見つけ出す自信はある。
あれだけの殺気を放つ相手を見失うはずがない。
(…上か!)
新一はキッ、と鋭く上へと続く階段を睨み付けた。
中森のものと思しき怒声や慌ただしい足音は階下から聞こえてくるが、相手は黒の組織の一員なのだ。
相手の目を眩ます方法などいくらでも心得ているだろう。
迷ったのも一瞬で、新一は己の直感を信じると、痛がる胸を握り締めることで黙らせて、一気に階段を駆け上がった。
二八階から三四階まで、体に無理を言って駆け上る。
そこで、まるで吸い寄せられるように新一はぴたりと立ち止まった。
間違いなく奴はこの階にいると体が教えてくれる。
新一はできる限り気配を断って、慎重に扉のひとつひとつを開けていった。
しかしどんなに気配を断ったところで乱れた呼吸を止めることはできず、敵に自分の居場所を知らせてしまうことは免れそうもなかった。
そうしてようやくある扉の前に立つと、中からくすくすと女の笑い声が聞こえてきた。
躊躇いなく扉を開ける。
するとそこには、先ほどの怪盗――もとい黒の組織の残党が楽しげに笑いながら佇んでいた。
「予想よりちょっと早かったわね。その乱れた呼吸でよくやるもんだわ」
新一は答えなかった。
と言うより、実際は答える余裕がなかったのだ。
…あまりの胸の苦しさで。
「月下白、持ってきてくれたかしら?」
「…いつまでそんな三文芝居を続けるつもりだ?」
苛々しながら言い放てば、相手は急に笑いを引っ込めた。
初めて見たときと同じ、怖いほどの無表情。
おそらくこちらが奴の本性なのだろう。
「なんだ、もう気付いていたのか」
「どんなに装ったって、おまえのそのどす黒い気配は隠せねーよ」
「…いいだろう。改めて宜しくと言っておこうか、工藤新一。俺はスコッチ。ジンの兄貴の右腕だ」
「やはり…組織の残党か」
「噂に違わずその優秀な頭脳は健在みたいだねぇ」
どこまでも冷えた漆黒の瞳が見つめてくる。
その中に何も見つけることができなくて、新一は虚無感に襲われた。
男の姿に女の声、そして男のような振る舞い。
相手が男か女か分からなかったが、もう目の前の人物の性別などどうでもよかった。
やはり最初に感じた通り奴は組織の残党で、コードネームはスコッチ。
そして奴の言葉を真に受けるなら、ジンの右腕らしい。
組織との激しい死闘の末、確かに新一はジンを追いつめた。
組織の頭目だった男も、組織に関わっていた企業やその工作員だった者も、見事警察に逮捕された。
だが、ジンだけは捕まえられなかった。
それどころか、生死も定かではなかった。
確かに新一はジンを追いつめ、そしてあの時のあの男には死しかないだろうと思われた。
あの怪我を抱え脱出することはもちろん、あの出血量で助かる可能性は零に等しい。
だが、崩れゆく地下にいつまでも留まるわけにはいかず、奴が息を引き取る瞬間を見届けることはできなかった。
そうして組織が瓦解し、形ばかりの平穏を手に入れた今も、新一は心のどこかでジンのことを気に掛けていた。
推理で追いつめ犯人を死なせることも殺人だと考える新一だ。
たとえ相手が超一流の殺し屋で、数え切れないほどの人間の命を奪ってきた男だろうと、その持論は変わらない。
増して、あの男があの程度の怪我で本当に死んだとは、とても信じられなかった。
けれど、ここにきてようやく分かった。
ジンは死んでなどいない。
それどころか、今もどこかで虎視眈々とこちらの命を狙っているのかも知れない。
少なくとも、組織の幹部クラスの生き残りが数名いるのだ。
或いは他の組織に鞍替えしたか。
とにかく、かつては強大だった力を失った今尚、組織を潰した憎い男に牙を向けるだけの強いバックがあるに違いない。
このスコッチと名乗る人物は、その新一を葬るために送られた刺客とでも言うのか。
「いったい何が目的なんだ。なぜこんな回りくどいことをする? 目的は月下白なんかじゃないはずだ」
「流石だね。確かにそうだ。俺の目的はあくまでおまえと、そして――怪盗キッド」
「なっ!」
思い掛けない言葉に新一が瞠目する。
今の新一には身体的に少しも余裕がなかった。
驚きをポーカーフェイスで押し隠すだけの余裕もない。
「なんでそこで怪盗キッドが出てくるんだ!」
「嘗めてもらっちゃ困るなぁ。今でこそばらばらだが、仮にも裏の組織を牛耳ってた俺たちだ。俺たちの情報網はおまえの予想を遙かに凌駕する」
「な、に…言って…?」
「組織の壊滅に奴は間違いなく関わっていただろう? だからさ。だが、復讐なんてちっぽけなことはしない。俺たちが望むのは組織の復活、そして裏の主導権の奪回さ」
黒の組織が壊滅した今、それに準じた組織がこれ幸いと頭角を現している。
その主導権を再び手にするために、一度潰れたはずの組織を再び立ち上げると言うのか。
新一は苦しくなる胸を更に強い力で押さえ付けた。
まだ、倒れるわけにはいかない。
「確かに組織はばらばらになった。だが、ジンの兄貴がいればまた集まるさ。あの人にその気はないらしいけど、おまえの頭脳やキッドの身体能力を手に入れれば怖いものなしだろう?」
その言葉に、新一の蒼い瞳がすっと細められる。
どうやらスコッチには喋りすぎる嫌いがあるらしい。
(ジンは生きてるが、再び組織を作る気はない…?)
つまり、スコッチの独り走り状態という可能性が高い。
新一の頭脳、そしてキッドの身体能力を手に入れ、現在主導権を争って冷戦状態の裏社会に再び舞い戻ろうと言うのだろう。
「…俺が大人しく頷くとでも思ってるのか?」
「頷かせるさ。嫌だとは言わせないよ」
「嫌だね」
「ふん…いつまでその軽口が叩けるか」
それまでただ静かに佇んでいたスコッチが、舞うように飛びかかってきた。
その手に光るのは、銀色に輝く細長いナイフ。
新一はそのナイフをぎりぎりまで引き寄せて、すんでの所でなんとか躱した。
「驚いた、まだ動けるのか? でもそんなんじゃ大してもたないねぇ」
「今動けば充分だろ?」
「ふふ…気に入ったよ」
そう言ってスコッチは口元にあの毒々しい笑みを浮かべた。
まるで獲物を前にした蛇が舌なめずりでもするかのように。
だが、暗い夜の海の色を称えるその瞳は、相変わらず少しも笑っていなかった。
眼前へと迫り来る白い顔を、新一はきつく睨み付ける。
(今、動けばいい…)
最早新一には自力でこの場を凌ぐ力はない。
必死に押さえ込んでいた発作は動く度にひどくなっていく。
だが、中森警部がこの騒ぎに気付いてくれれば、それでいいのだ。
それまではただこの攻撃を避け続けるだけだと、反撃こそできずとも、新一は朦朧とする意識の中で必死に足を動かし続けた。
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なんか今回、新一さん異様に相手を煽ってます。
ていうか余裕がなくてちょっとカッコワルイ…?汗
でもそれだけ、新一にとって組織が多大な影響を及ぼしているということで。
スコッチって誰?覚える必要もないですけどね。笑
次は白馬クンがおいしいトコどりです。
白馬贔屓な私。この話に置いて彼も重要人です。
そんでもってキッドが次はいいとこなし…かな?苦
03.04.09.