謎の怪盗を追って会場を飛び出した、中森を筆頭とした数人の警官と高校生探偵である白馬と平次は、ただひたすらに走り続けていた。
 鍛え上げられた警官はもちろん、体力に自信のある若い探偵たちでさえ奴に追いつくことはできない。
 怪盗は本気で逃げるわけでもなく、ちらちらとこちらを振り返りながら絶えず微笑を口元に浮かべている。

 ――何かが違う。
 そう感じることができたのは、探偵として人を観察することに長けた白馬と平次のふたりだけであった。
 だが、その印象も抽象的すぎて、はっきり断言できるほどのものではない。
 けれど理性ではなく本能が頻りに「違う」と叫んでいる。

 それでも走る足は止めずに怪盗を追い続けていた彼らだが、追手との間隔を数メートルと言う距離で保っていた怪盗は、階段やエレベーターホールに続く踊場の前で不意に姿を眩ました。
 数秒後、何とか踊場へと駆けつけた彼らの前には、既に誰の姿もない。
 だが、微かに聞こえてくる足音につられるように、中森たちは迷うことなく階段を駆け下りていった。
 ともすれば階段が壊れてしまうのではないかと言うほどのけたたましい音を響かせながら、足音が遠のいていく。
 何かが違う、そう思いながらも、白馬と平次も彼らの後に続く他なかった。
 その時既に、怪盗は階上へと昇っているとも知らずに。

(…おかしい)

 警官たちの騒がしい足音に掻き消されているとは言え、進めば進むほどに怪盗の存在感が薄れていくように白馬には感じられた。
 普段は研ぎ澄まされたはずの感覚が、闇雲に走り回る彼らに邪魔されているのかも知れない。
 白馬がその秀麗な眉を寄せた時、隣を走っていた平次が急にぴたりと足を止めた。
 何事かと一度は振り返った警官も、子供の気紛れなど気にしていられないと、すぐさま顔を戻して先へ先へと駆けていく。
 平次の行動に気を取られ足を止めたのは白馬だけだった。

「服部君、どうかしましたか?」
「…なんかおかしないか?」
「!」

 平次の言葉に、白馬の双眸が鋭さを増した。

「君もそう思いますか?」
「ああ。せやけど、何がおかしいんかって聞かれてもこれって言われへん…」
「僕も先ほどからそう思ってたんです。それに、なぜか進むほどに奴から離れていくような気がして…」
「やっぱし、あんたもか! つまり…」

 平次と白馬は顔を見合わせると、互いにすっと目を細めた。
 そして元来た道を、今度は上へ上へと駆け上って行った。















の欠片















 会場の入り口では、残された数人の警備員が入り口を塞でいた。
 警官も探偵も怪盗の姿ですらも消えてしまった後、残された招待客はつい今し方の興奮を口々に語っている。
 混乱を防ぐため中森の指示によってこの場に留められている彼らは、けれど誰も気付かなかった。
 今この瞬間、ステージ裏で静かに対峙する怪盗とガードマンの存在になど。

 眼光鋭く白い怪盗を睨み付ける四人のガードマン。
 気の弱い者であればその睨みひとつで竦み上がってしまうところだが、目の前の怪盗には少しも効いていないようだった。
 口元に浮かぶ不適な笑みと逸らされることのない強い双眸に、彼らの方こそ焦りを感じている。
 下手に戦いに慣れているため、相手の力が空気を通じてびりびりと肌へ伝わる。
 自分との力の差を嫌と言うほど実感させられる。
 しかし、金を貰って雇われている以上、彼らもここで退くわけにはいかなかった。
 プロとしての意地が、彼らをここに留まらせている。

「私は人を傷つけないことをモットーにしていますが…すみませんが今夜は例外、ということで」

 それまで何を語るでもなく見据えていただけの怪盗の眼光が細められ、告げられた台詞にガードマンたちは震え上がった。
 つまり彼は、自分たちを傷付けてでも獲物を奪わせて頂きますよ、と言っているのだ。
 なぜならキッドには、たとえ怪盗紳士の名を捨ててでも守りたい人がいるのだから。

 無言の威圧が終わると、怪盗は白いマントを優雅に靡かせながら進み出た。
 ゆっくりと、まるでステップを踏むかのような軽やかな足取りで、けれど気付けば懐へと難なく入り込んでいる。
 男は呻く間もなく気絶した。
 その喉元には細く銀の光を放つ小さな針が突き刺さっている。
 だが、その小さなタネに気付ける者は、ここには誰ひとりとしていなかった。
 彼らの目には、まるで魔術師が魔法をかけて仲間を眠らせてしまったかのように見えた。
 残りのガードマンたちは、怯えた目をしながらも三人掛かりで飛びかかってくる。
 金のためか、ちっぽけなプライドのためか。
 どちらにしても愚かな行動であったことは言うまでもない。
 次々に沈んでいく二人の男たちを、四人目の男はどうすることもできずにただ愕然と眺めていた。

「ご心配なく。少しの間夢の世界を堪能して頂いているだけですので、問題ありませんよ」

 くすりと笑った怪盗の顔が眼前に迫った時、しかしそれを顔と認識する前に、彼もまた床へと沈んでいた。
 折り重なるように転がる四人のガードマンたちの上をふわりと飛び越え、キッドは邪魔するもののなくなった金庫の前へと降り立つ。
 早速取り出した特殊な針金を鍵穴へと差し込んで手応えを求めるが、望んだ音はなかなか聞こえてこない。

「ちょっとばかり面倒だな。ったく、こんなもん用意しやがって…」

 自分の犯罪行為は棚上げして、キッドは焦る気持ちを押しやって慎重に指先を動かした。

 彼は、新一は決して弱くない。
 危険を乗り越えられるだけの力を十二分に持っている。
 だからキッドは、自分が今できる、やるべきことをしなければならない。
 それをこなした上で彼を助けるのだと言えば、きっと彼も文句を言ったりしないだろう。

 キッドは次第に募る苛立ちを感じながらも、鍵穴へと集中すれば、やがて待ち望んでいたかちりという金属音が響いた。
 やっと開いたかと思い扉に手を掛けるが、しかし扉は開かなかった。
 どういうことかと考えたのも束の間、キッドは再び針金を差し込み手応えを求める。
 幾度目かの金属音が響き、ようやくその扉を開くことに成功した。
 時間にして約3分。
 これだけ厳重な金庫にしては考えられないほどの速さであったが、キッドは予定外のタイムロスに小さく舌打ちした。
 中に仕舞い込まれていた宝石を素早く取り出す。
 大きな金庫の中の小さな…と言っても宝石にしてそのサイズはかなり大きい部類ではあったが、その宝石をキッドはじっと観察した。
 確かに白いはずのその宝石は時折不可思議な銀色の光を放ったけれど、これといって変わったところはない。
 新一の手の中に納められていた時は異常なほど美しく輝いていたような気もするが…
 そう思い、不意にあの男の言った言葉が脳裏に浮かんだ。

 ――いいか、何としても月下白を盗み出せ。おまえたちには必要不可欠なものだ。この先も彼を守るつもりでいるなら、月下白がなくては話にならない。

 じっと月下白を観察していたキッドは、この宝石にも何か特別な仕掛けでもあるのかも知れない、と考えた。
 月に翳せば赤い滴を流す宝石もあるのだ。
 或いはこの宝石にもそうした秘密が隠されているのかも知れない。
 今思えば、この宝石は確かに輝いていた。
 彼の女神の手の中で、煌々と。
 そして気になるのはあの男の言葉だ。
 彼は「おまえ」ではなく「おまえたち」と言った。
 「彼を守るつもりなら」と、ふたりの間の不思議な縁でさえ言い当ててみせた。
 彼の言葉をそのまま信じるわけではないけれど、自分の中に「もしかしたら」と言う疑問が生まれてしまった以上、キッドはこの宝石を手放すわけにはいかなかった。
 キッドは胸の内ポケットに宝石を慎重に押し込むと、ふわりと立ち上がり、急ぎ彼の元へと駆け出した。










* * *


 白馬と平次は、これ以上の速さは出せないと言う全速力で階段を駆け上っていた。
 綺麗に着こなしたスーツも今は邪魔でしかなく、双方ネクタイと襟を強引に緩めた格好で走っている。
 ただでさえ貴重な時間を浪費してしまったのだ。
 一秒だって無駄にはできない。
 その間にあの怪盗は逃げてしまうかも知れない。

 ふたりが奴の居場所として見当をつけたのはこのビルの屋上だった。
 だが、三四階の階段に差し掛かりこのまま三五階へと昇りかけた時、白馬の手が平次の腕を掴んで止めた。
 反動でそのまま転けそうになった体を何とか持ち堪え白馬を見遣れば、その顔はいつになく真剣な顔をしている。

「どないしたん?」

 自然、低く小さくなった声で平次が問いかければ、白馬も声のトーンをできるだけ下げ、囁きにも似た声で答えた。

「今、物音がしました」
「物音…?」

 言われて耳を澄ましていれば、暫くして平次の耳にも確かに聞こえてきた。
 だが物音と言ってもかなり小さく微かなものだったため、走りながらそれを悟ることは平次にはできなかったのである。

「あいつか?」
「多分。そこで、君にひとつ頼み事があります」
「なんや?」
「もう一度下へ行って警部たちを呼んできて下さい。ふたりで行くより時間が省けます」
「分かった、任しとき。せやけど気ィつけや。相手は得体の知れん奴やからな」

 悪戯な笑みを浮かべながら片目を瞑って見せ、平次は再び階段を駆け下りて行った。
 昇ってくる時も思ったことだが、彼は案外に慎重で、自分の足音を極限まで消している。
 やはり西の探偵と言われるだけあって彼も自分と同族なのだろうと、白馬も足音を殺して音のする方へと近づいた。
 本当は物音に気付いたのは足を止めてからなのだが、平次への言い訳に咄嗟にそう言ってしまった。
 なぜなら白馬が足を止めた理由は、そこから感じる凄まじい殺気のためだったからだ。
 間違いなく奴は此処にいて、更にもうひとり、別の誰かがいるだろうことも分かった。
 白馬にはその「誰か」ですら予想できたが。

 近づくに連れ次第に物音は大きくなる。
 とは言っても、服部平次に気付かせないほどの小さな音ではあったが。
 と、慎重に歩を進めていた白馬だが、中から聞こえてきた声に思わず表情を強張らせた。

「…くっ…!」

 透明な、凛とした声。
 それが「彼」のものなのか、それとも「もうひとり」のものなのか。
 咄嗟に判断はつかなかったが、どちらにしても白馬にとっては大事な存在であることに変わりない。
 躊躇う間もなく体が動き、ばたんと勢いをつけた扉が内壁へと激しい音を立てながらぶつかった。
 途端、視界に移った光景に、白馬は駆け出していた。

「工藤君――!」

 新一は床に片膝を着いてバランスを取り、右手で傷ついた左腕を掴んでいる。
 だが、傷付いているのは何も左腕だけではない。
 無惨に破れた漆黒のスーツから覗く柔肌からは、赤く鮮やかな血が幾筋も流れ出ていた。
 怪我のためか呼吸は荒く、上気した肌は薄い桃色に染め上がっている。

 白馬は新一の傍らに跪くと、支えるように彼の肩へと腕を回した。
 その真向かいに佇むのは、追っていたはずの怪盗。
 やはり奴は中森の追跡を見事に逃れ、いつの間にかこんな場所でこの探偵と対峙していたのだ。
 しかも、こんな物騒なものまで持ち出して。
 床や壁に深々と突き刺さった銀の細長いナイフ。
 一目で、これが新一を傷つけた凶器であろうことは見抜けた。
 そして――相手がただの怪盗ではないと言うことも。

「工藤君、大丈夫ですか!」
「平気だよ…出血に比べて傷は浅い」

(そもそも、こいつは俺を殺すつもりじゃねぇし…)

 突然現れた白馬に内心驚きつつも安堵した新一は、けれど彼に続いて当然現われると思っていた平次や中森の姿が見えず、結局は変わらない状況に舌打ちした。
 相手の圧倒的優位な状況は変わっていない。

「邪魔が入っちゃったわね」
「…彼を殺す気ですか?」
「やだ、殺す気なんてないわよ。人の命を盗むことは仕事じゃないわ」

 人の命を奪うことを生業とする奴がよく言うぜと、新一の蒼い瞳が一層深い色を放つ。
 けれど新一はこんな時でも冷静で、その瞳にあの蒼い炎を灯すことはなかった。
 今、我を忘れて高ぶる心のままに興奮することは危険でしかない。
 ただでさえ新一はこの瞳の所為で多くの野心家に狙われているのだ。
 白馬に知れれば彼を余計な危険に巻き込んでしまうことになるだろう。
 …あの、白い怪盗のように。

「残念ですが、すぐに警官がここに来ますよ。もうひとりの探偵に呼んでくるよう頼みましたから」

 この状況にも気圧されず、白馬が厳かに言い放つ。
 新一はふと感じた違和感に目を眇めた。
 それは白馬の探偵としての経験故か、それとも…

 すると、その言葉にスコッチはそれまで浮かべていた冷笑をすっと消した。
 再び怪盗の仮面を捨て無表情の殺し屋へと変わった相手が、漆黒のスーツの中に手を滑りこませ、何かを取り出す。

「そうかい…折角のこいつとの対峙を邪魔してくれるって言うのか」
「あと数分もしない内に到着します」
「ふん…」

 面白くなさそうに冷えた一瞥を白馬へ向けるスコッチに、新一の心臓は冷えていく思いがした。
 奴の手の平で握りなおされたナイフが妖しく煌めく。

「やめろ、スコッチ!こいつは関係ない!」

 咄嗟にスコッチが何を狙うかを判断し、新一は自分を支えていた白馬の手を振りほどくと、庇うように背後へと押しのけた。
 華奢な体の、しかも傷付いた体のどこにそんな力が残っていたのか。
 驚く暇もなく白馬の体は後ろへと傾く。
 けれど、飛んでくると思ったナイフはスコッチの手から離れなかった。
 それどころか、予想と反して逆の手が持ち上がったのだ。
 その手の中には黒く鈍い光を反射させる、重たい銃器。

(拳銃…!)

 流石の新一も、防弾チョッキもなしに銃弾を受ければただでは済まない。
 殺される。
 本気でそう思った。
 しかし。

「後日改めて迎えに来ようか、工藤新一」

 冷たい声が耳に届くのとほぼ同時に駆け出したスコッチが、新一の眼前へと迫る。
 撃たれる、そう思い身構えていた新一は、けれど再び予想に反して駆け出した相手に、咄嗟にどうすることもできなかった。
 間近に迫ったスコッチは拳銃を新一の左腕へと押しつけると、躊躇いもなく引き金を引く。
 パシュ、と軽い音が響き、鈍く鋭い痛みが走り抜けた。
 拳銃にしては軽すぎる衝撃。
 普段の彼なら冷静に状況を判断できたが、心身的にも疲労が限界に達していた新一は、わけが分からず狼狽した。
 だがスコッチが口元だけを歪めて冷たい笑みを浮かべた時、横からすごい風圧で繰り出された蹴りをまともに食らい、脇腹を痛めたスコッチは数歩よろけた。

「は、くば…?」
「工藤君、平気ですか?」
「あ、ああ…」

 脇腹を押さえ、微かに眉を寄せたスコッチが無言で白馬を睨み付けている。
 新一に「平気か」と聞いた白馬も、視線だけは変わらずスコッチを捉えていた。
 暫く重い沈黙が降りる。
 けれどその沈黙は、遠くから響き始めた無数の足音によって打ち破られた。

「…また、邪魔者が来たね」
「観念しなさい。もう貴方に逃げ場はありませんよ」
「…冗談にしちゃ笑えないねっ」

 そう言い捨てたスコッチは振り返り様に、外に面した窓に向かってナイフを三本投げつけた。
 ほぼ同時に繰り出されたそれらは、一本目がガラスに小さなヒビを、二本目が一本目の柄に突き刺さり蜘蛛の巣状に線が入り、三本目が更にその柄に突き刺さって、厚いはずのガラスに見事穴を開けた。
 そこへ勢いよく体を反転させながら蹴り込めば、人ひとりが通れるほどの穴がぽっかりと開く。

「これからおまえはどこにいても俺には手に取るように分かる。覚悟しとくんだね、工藤新一」

 それを最後に、スコッチは何の迷いもなく窓の外へと飛び出した。
 三四階のビルの窓から。
 とは言え、空を飛ぶ怪盗もいるのだから、白馬も新一も驚きはしなかった。
 駆けつけてくる足音が次第に大きくなることに気付き、新一は立ち上がると上着を素早く脱いだ。

「悪ィ白馬、俺の上着と交換してくれないか?」
「ええっ?」

 早く、と催促する新一に、白馬はわけも分からず自分の上着を脱いで渡す。
 新一は自分の流れる血を気にしながらも白馬の上着を羽織った。
 破れてしまった自分の背広はくるんで白馬に渡す。

「服部や警部には何も言わないでくれ。余計な心配はかけたくない」

 怪我のことはもちろん、今し方スコッチに仕掛けられた「何か」についても、新一は秘密にしておきたかった。
 それを知れば自然と組織に関わることになってしまう。
 一瞬眇められた瞳にどきりとしながらも新一がじっと彼の目を見つめていると、白馬はふと息を吐きながら頷いた。

「…分かりました」

 呆れたように微笑む白馬に新一も安堵する。
 その後、すぐに駆けつけた中森が割れたガラスに驚きつつ、身を乗り出さんばかりに外を覗いて見たが、スコッチの姿は見つけられなかった。
 すぐさま近辺に捜査網が引かれたが、この分ではおそらく奴の足取りさえ掴めないだろう。
 中森と同時に駆けつけた平次は、新一の少し破れたズボンを妙に思って問い詰めたが、

「奴と軽い取っ組み合いになった時に破いちまっただけだよ」

 と言う新一に、訝りつつも納得した。
 幸い下半身に出血はなかったため、気付かれずに済んだ。

「服部君、有り難う御座いました。残念ながら奴は逃がしてしまいましたが…」
「悔しいけどしゃーない! それにあいつの居場所に気付けたんはあんたのおかげやしな!」

 まんまと騙されて階下を調べに行っていた警部には文句言われへんて、と平次は笑った。
 だが、まんまと騙された中森だけではない。
 それは新一も同様だった。
 警官たちを見事奔走させ、その僅かな隙をついて新一をここへ誘き寄せた。
 隠そうと思えば隠せたはずの殺気をぎらぎらと放ちながら、奴は獲物が来るのを待っていたのだ。
 この部屋で、その鋭い爪を研ぎながら。
 他でもない、新一が来るのを待っていた。
 その上新一は、腕に妙なものまで埋め込まれてしまった。
 あれは拳銃などではない。
 どちらかと言えば注射器に近い働きをするものだ。
 だが、この体に撃ち込まれたのは液体ではなく、固形物。
 鉛とはまた違った異物感がそこにある。
 そしてスコッチの言葉から察するに…

 知らず噛み締めた口内に、錆びた鉄の味が広がった。










* * *


 ふたりの怪盗が消えた後、ビルの外で待機していた警官が中森の指示でビル内へと入り、会場で待機させられていた招待客を混乱のないように外へと誘導していた。
 白馬と平次はもちろん、上半身の怪我を白馬の上着で隠した新一も、その作業を手伝っている。
 唯一怪我のことを知る白馬は当然いい顔をしなかったが、途中で放棄してしまうのは嫌だと、新一が強引に言いくるめたのだ。
 幸い客にはひとりの怪我人もいない。
 ステージ裏に転がっていた四人のガードマンも眠っているだけだと判明し、担架に乗せられた彼らは一応近くの病院に運ばれることになった。
 キッド特製の麻酔針は少々薬の効きにくい体にも効くよう改良されているため、普通の体には少しばかり強いのだ。

 中央の扉付近で新一が客の誘導をしていると、快斗がぱたぱたと駆け寄ってきた。
 その様子は、まるで以前白馬に付き合って出席した婚約パーティの光景とだぶって見えた。
 だがあの時とは違い、今秘密を持っているのは新一の方だった。

「工藤、大丈夫だった?」

 声を低くして快斗が問う。
 すぐ近くに白馬や平次がいるためだ。
 快斗が白馬に正体を疑われていることを知る新一も、声を低くして答えた。

「ああ。奴は逃がしちまったけど、平気だぜ」
「ごめんな。俺も行きたかったんだけど、ちょっとアレを盗るのに時間くっちまって」
「…俺の目の前で堂々と盗みの話してんじゃねーよ」
「ごめんごめん」

 そう言って苦笑を浮かべる快斗を、新一はただ睨み付けるだけに留めた。
 快斗が怪盗キッドを名乗るその理由は知っているけれど、できることなら犯罪行為をして欲しくないと言うのが新一の正直な気持ちだ。
 だが、たとえ新一が「やめろ」と言ったところで快斗は止めないだろう。
 他人のそんなひと言で止められるほど簡単なことではないのだ。
 彼がどんな思いであの白い衣装を纏ったのか、新一には決して理解できない。
 けれど生半可な覚悟で全世界の警察機構を敵に回すことはできないだろう。
 だから彼の覚悟に口は挟まないけれど、だからと言って犯罪を見過ごせるほど割り切れていなかった。

「とにかく、工藤が無事でよかったよ。俺も一度は上まで上がったんだけどね」

 すごい殺気がしたからさ、と言った快斗に、新一はどきりと鼓動を跳ねさせる。

「途中で警部たちが来たから、鉢合わせたら拙いと思って隠れて様子を伺ってたんだけど。大丈夫そうだったから、白馬に見つかる前にここに戻ったんだ」

 つまり快斗は、あの場面もあの台詞も知らないと言うことか。
 新一は内心で安堵の息を吐いた。
 快斗と話しながらも誘導の手を止めなかった新一が最後のひとりを送り出し、残るは警官二名と探偵が三人、そして怪盗こと黒羽快斗だけとなった。

「工藤君、黒羽君。僕たちも下りましょう」
「せや、この後警視庁で事情聴取やで!」

 四人は促されるままにビルを出た。
 そこには既に数台のパトカーが並んでおり、招待客もばらばらと帰り始めていた。

「あーあ、結局怪盗は捕まらんかったし宝石も盗られよったし…踏んだり蹴ったりやな」
「悪かったな。あそこで俺がガードマンに頼んでなきゃ宝石は盗られなかったかも知れねーのに」
「何言ってんねん! 工藤がおらんかったら、あの怪盗さっさと消えてまいよったやろ? それこそしゃーないやん!」

 平次の台詞に新一は複雑な顔をした。
 新一があそこへ行かなければ宝石は守れたし、新一があそこへ行かなければ、結局奴は何らかの形でコンタクトを取ってきたはずなのだ。
 つまり、今回のことは全て新一の失態と言っても過言ではなかった。
 しかも、未だ呼吸は落ち着かない。
 聡い怪盗の手前、必死のポーカーフェイスと底意地で表情には出していないけれど、周りに誰もいなければすぐにでも倒れ込みたいほどの苦痛がずっと体を蝕んでいた。
 それでも傷を負ったのが自分だけだと知り、新一はこの上なく安堵していた。
 組織の残党を相手のこの程度で済んだのだ。上出来だろう。

「ま、とにかく聴取済んだら俺も一旦帰るわ。無断欠席っちゅーわけやないけど、オカンから携帯に『用事済んだんやったらはよ帰って来い』て掛かってきてなぁ…」
「そっか。あんまりサボんじゃねーぞ。行ける時に行っとかないと、いつ行けなくなるかなんて分かんねーんだから」

 そう言った、新一の笑み。
 綺麗で、それでいて儚くて。
 まるで慈しむように微笑む彼は、もう高校生とは思えないほど老成してしまっていた。
 彼が江戸川コナンとして過ごした時間はあまりにも長かった。
 勉強の遅れを取り戻す必要こそなくとも、不足した出席日数を多大な補習で補うことは確かに大変だった。
 だが何よりも辛かったのは、誰より大切にしてきた幼馴染みにさえ明かせない秘密を抱えてしまったことだろう。
 そんな彼の事情をよく知る平次だからこそ、その言葉を軽く受け止めるわけにはいかなかった。
 静かに頷き、パトカーに乗り込む。
 その後に続こうとした新一を、白馬が呼び止めた。

「工藤君、少し付き合って頂けますか…?」

 半ば予想していたこととは言え、心臓が冷える思いで新一は白馬を振り返った。
 白馬には傷のことを知られているし、スコッチに妙なものを埋め込まれたことにも気付かれているだろう。
 何より、奴が残したあの意味深な言葉を、白馬ほどの探偵が聞き逃すはずがない。
 新一に選択権はなかった。

「白馬…事情聴取は?」
「服部君がいれば充分でしょう。それに、どうしてもと言うのなら明日伺います」
「…分かった」

 どうしたん?と目を瞬かせる平次には、悪いけどそう言うことだからと言ってさっさとパトカーのドアを閉める。

「ばあやに連絡して車を回させますので…ああ、黒羽君、君も悪いんですが、帰りは送っていけそうもありません。宜しいですか?」
「…別に構わねぇぜ?」

 今の会話から何かを感じ取ったらしい快斗は、僅かに目を細めたものの頷いた。

「とんだことになってしまって申し訳ありませんでした、黒羽君」
「いいよ。分かってて付き合ったのは俺だしな。それに会場にはキッドも出たんだぜ? 明日青子にでも聞かせてやるさ♪」
「そうですか…。では、気をつけて帰って下さいね」

 そうして白馬は普段と変わりない笑顔を浮かべた。
 それに片手を上げ、去っていく招待客に混じって快斗もまた姿を消した。

 その後、新一と白馬は迎えの車が来るまでずっと無言を通した。
 白馬はまるでここで口を開くことを渋っているかのようで、その内容が何であるかを分かっていた新一の口もまた重かった。
 ぽつぽつと降り出した雨が、やがて新一の絹糸のような黒髪を湿らせ始めた。





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予告通り、あまりキッドさんいいとこナシです。
なんでって新一の危機に間に合うことが出来なかったから。笑
しかも今回彼を救ったのは白馬でしたしねv
でも誰が一番可哀想って服部…かな?
折角出てきたのに脇役だしv
次は白馬がまた出張ってます。白新気味(笑)
実はもう書いてあるんですが、そこはまぁ毎日更新のタメに取っておきます。苦
学校始まって一気に時間がなくなった!

03.04.10.