「なんだと?どういうことだ、いったい!」


 怒鳴りいきり立つ王を目の前に、報告にやってきた兵士は竦み上がった。


「はいっ、で、ですから、兵士がおよそ八割、寝返ってしまったんです…っ!」
「寝返ったとはどこにだ?フーか?それともオールか!」


 ヴェルト国の兵士八割とはかなりの数だ。
 ただでさえ軍事国家なのだ、その兵力を奪われてしまえば脆いものである。
 今叩かれれば国家存亡の危機だった。


「それが、どちらでもありません!」
「どちらでもないだとォ?」


 下らない問答を繰り返す王を後目に、優作は窓から外を眺め口元にうっすらと笑みを刻んだ。


(どうやらうまくやっているようだね…)


 舞台を整えたのは優作だ。
 けれどその舞台を巧く利用し見事に演じたのは新一だ。
 まだ終わったわけではないが、それでもこの軍事国家ヴェルトから兵士を八割も引き抜けたなら、勝利を手にしたと言っても過言ではない。
 こんな戦場から遙か遠い安全な場所で高みの見物を決め込んでいた馬鹿な男に、この状況が覆せるはずもないのだ。


「兵士は皆、オールやフー、それにテールの兵士も含め、シエル並びにモヴェールへと寝返ったんです!」


 唯一平和国家だと、戦争には関わらないのだと決めつけていたシエルの出現に、王はただただ目を瞠るばかりだった。





「奇襲の心配はありませんよ」


 重苦しい空気を打ち破ったのは、優作の静かな声。
 ここに集まっているのは、俗に上≠ニ言われる国を動かしている上層部の人間だった。
 王を中心に軍の将校が同様の渋面で椅子に座し、宰相である優作がその隅にひっそりと佇む。
 兵士の寝返りの報告を聞いたすぐ後に招集がかけられたのだった。


「…なぜそう言える?」
「何も兵士を失って痛手を負っているのは我が国だけではありません。どこも同じです。こうなった今、貴方ならどうなさいますか?」


 王は組んだ手に顔を埋めたきり何も応えない。
 国王とは名ばかりで、この男はひとりでは何もできないのだ。
 優作という優秀な宰相がいなければ国王の座に就くことすら叶わなかっただろう。
 暫くの沈黙の後、憔悴しきった顔を上げた国王が「教えてくれ」と呟いた。
 その発言を内心で嘲笑し、優作は答える。


「おそらく他国の王たちはこう考えます。モヴェールの光≠ワでを得たシエルと争いを起こすことは賢明ではない、とね」
「…つまり?」
「つまりこうですよ――長いものには巻かれろ=v


 王は低い唸り声を挙げた。
 長いものには巻かれろ=Aつまりシエルの傘下に入れということだ。
 そうすれば虚弱化した今のヴェルトに攻め込む国はないし、強大化しているシエルと争うこともない。
 ただ、ヴェルトという国が実質的に滅亡してしまうけれど。
 初めから負けの決まっている戦を仕掛けて滅びるか、シエルの傘下に入り実質的に国を滅ぼすか。


「ご決断は早めに下されるのが賢明ですよ」


 選びがたいふたつの選択に葛藤する王に優作は更に追い打ちをかける。


「今旗揚げしたところで従う兵士がどれほどいるのか、それがわからないわけではないでしょう?」
「…では、工藤宰相はシエルの傘下に入れと申すのか」


 この危機的状況においても全く動じた様子のない優作に王は恨めしげに言い放つ。
 まるで八つ当たりをする子供のように。


「滅相もない。私はあくまで王のご決断に従いますよ」
「…うむ」


 この王は万にひとつも優作を疑っていなかった。
 この数年の間、ずっと影ながらヴェルトを支えてきた宰相を誰より信頼している。
 けれど、優作こそがヴェルトの滅亡を望んでいるのだった。

 人間とモヴェールの大戦で失った最愛の妻。
 唯一戦争反対を叫び続け殺された無二の友人。
 それらを奪った者たちに心惜しさなど欠片も感じられはしない。


「おそらく、他国の国王たちも同じ決断を下されると思います」
「シエルの傘下につくと?」
「はい」


 誰も負けるための戦を仕掛けたいとは思わない。
 悪くすれば命を落とすかも知れない危険な状況の中に、自ら飛び込もうとする者はいないのだ。
 誰だって自分の身が可愛く、幸せを願っている。
 それは決して悪いことではない。
 ただ、そう言った者の幸せの基盤を作るため、自らの身を犠牲にした者の存在など誰も知りはしないのだ。
 だから躊躇いもなく生きるための道を選ぶことができる。


「わかった。すぐに五国会議を開こう。シエルと盟約を結ぶのだ」










* * *


 歩く度にじゃらじゃらと鳴る重い衣装を快斗は鬱陶しげに見遣った。
 こんなことをしてる場合ではないのに、と。
 本当ならこんな場所などさっさと抜けだし、来賓部屋にいるはずの新一のもとに向かっているはずだった。
 快斗には新一と話さなければならないことがあるのだ。

 戦がおさまった折り、モヴェールの後ろ盾を得たシエルへと多くの難民が逃げ込んできた。
 各国は早急に門扉を閉ざしたのだが、一度動き出した民衆の大波はそう簡単におさまるものではない。
 彼らはモヴェールの光≠フ王、そしてシエルの王子を最後の希望として助けを求めてきたのだ。
 一度は国民を切り捨てようとした快斗だが、母を、戦争に打ち拉がれる民を再び見捨てることはできなかった。
 快斗はシエルの国王となることを決意したのだ。

 そして今日、急遽戴冠式が行われることになった。
 盗一亡き後この国を治めてきた現国王による戴冠の儀式のため、快斗は千影に重い正装を強いられている。
 煌びやかな装飾品があちこちに無駄に散りばめられ、鬱陶しいことこの上ない。
 けれどそれはあくまで快斗にとっての感想であり、彼を着飾るために呼び寄せられた侍女たちはその見事な着こなしぶりに感嘆の声を上げていた。


「さすがですわ、快斗王子」
「ええ本当に、盗一様に似て国王の品位と威厳をお持ちですわ」
「あら、千影様の美貌も兼ね揃えていらっしゃるわよ」


 ころころと楽しげに会話を弾ませる彼女たちも、快斗の帰還には涙する程に喜んだものだ。
 以前からこの宮中へと仕え侍女を勤めてきた彼女たちにとって、千影の最愛の息子である快斗は実の息子も同然だ。
 思わずはしゃいでしまうのも仕方ない。
 けれど快斗はそんな彼女たちの会話にも聞く耳を持てず、渋面のまま固い声で尋ねた。


「式には、…コナン殿も参加されるのか?」
「勿論ですわ。コナン様やキッド様はモヴェールと言えど私たちを守ってくださる戦士ですもの」
「そうか…」


 快斗の顔に憂いが満ちる。
 けれど着付けに忙しい彼女たちが快斗のその微妙な変化に気付くことはなかった。

 新一も式に参加するなら逢うことはできる。
 たとえ言葉を交わせなくとも姿を見ることはできるのだ。
 一時は彼は死んだものと思い絶望を胸に抱いたこともあった。
 それを思えば、たったそれだけのことでも快斗は嬉しかった。

 けれど同時に苦しくもある。
 新一は自分をモヴェールの光の王だと、双子の弟であるコナンだと身を偽っている。
 快斗は疑っているのではなく確信しているのだ。
 コナンだと名乗る彼こそが新一なのだと。
 他の誰が間違えようと、自分の目だけは誤魔化せない。
 それは新一自身わかっているはずなのに、それでも新一は頑なに快斗を拒み続けている。

 あれからもう一週間も経った。
 その間大慌てで進められてきた戴冠式の準備と押し寄せてきた難民の保護に忙しく、二人はまともに逢う時間すらなかった。
 それでも快斗は暇を見つけては新一のもとを訪れるのだが、その度に追い返されている。

 なぜ、と思う。
 こうして二人が生きてここに存在するというのに、なぜ、その身を偽り逢うことを拒絶するのか。
 戦はおさまった。
 快斗は新王となり、もう何も遮るものはなくなったというのに。


「なんで…」


 ぽつりと零れたのは、哀しみ。


「どうなさいました?」
「…いや、何でもない」


 この場にいない新一に疑問をぶつけることは叶わなかった。










 わあ、と鼓膜をうち振るわす民衆の声。
 あちこちから拍手が鳴り響き、人々の顔に歓びの笑顔が浮かぶ。
 新王である快斗が宮殿のテラスに姿を現わしたのだ。
 着々と進んでいく儀式をどこか哀しげな微笑を浮かべながら眺めるその人に、志保は静かに囁いた。


「…本当にこれで良いの?」


 今更なことだけれど。
 何度も何度も、問い直したけれど。


「志保もしつこいな」


 苦笑する新一に志保は思わず噛みついた。


「当たり前でしょう!そんな哀しそうに笑う人に、どうして問わずにいられるのよっ」

 もっと巧いやり方があったかもしれないじゃない!


 そう言いながら、けれど知っているのだ。
 これが、あの時あの場でできうる限り最良の選択だったことを。
 けれどそれは志保にとって最悪の選択でしかない。
 何より望むのは新一の幸せなのに。

 自分を助けるため、幼くして血肉を浴びた彼。
 自分に気負わせないためにと笑顔を見せながらも罪悪感に苦しみ、不可抗力だと、防衛本能だと言い分けることだってできたはずなのに、敢えて死んだ者たちの魂を背負った。
 敢えて、血なまぐさい戦いの道へと足を踏み入れることを決めた。
 全てはどこの誰ともわからない自分を拾ったためだ。
 なのに彼は、決して誰を責めることもなくただ自らを戒めた。
 これ以上彼に災厄が降り掛からないよう後を追うように軍医となったのに、結局また守ることもできずにこうして八つ当たりじみた言葉を吐くことしかできないなんて。
 悔しくて、涙が出そうだ。


「…良いんだよ」


 新一が宥めるように穏やかに言う。
 けれどその声にはやはり哀しみが滲んでいると志保は思った。


「哀しいわけじゃないんだ。だってあいつは生きてるし、ずっと気に懸けてた国のこともこれで楽になったはずだし」


 でも。
 もし、この顔が哀しく見えるなら。


「それはさ、寂しいだけなんだ。あいつが生きてるのに哀しいわけない。ただ一生隔たれた存在になるのかと思うと、…寂しい、だけなんだ」


 この戴冠式が終わり、新しく築き上げられる平和国家が安定すれば、全てをコナンとキッドに任せ新一はこの地を去る。
 砂漠の先、モヴェールの森で覆われた地を抜ければ、そこには広大に広がる見渡す限りの海がある。
 淡水でしか育たない緑はそこには存在せず、人々はその周辺に近寄ることは滅多にない。
 だからこそ新一には都合が良いのだ。

 戦をおさめるために解封した力は強大だ。
 使い方によっては一国、或いはもっと多くを一瞬にして滅することもできる。
 そんな力を持つ新一の存在は危険だった。
 或いは超自然的な、或いは人為的な理由から。
 あまりに強大な力はいつ暴走するとも限らない。
 強い理性によって保っているが、いつその力に喰われてもおかしくないのだ。
 そして、新一の力を利用しようとする者も当然いるだろう。
 たとえどんな仕打ちをこの身に受けようと屈しない自信はあるが、身近な者、志保や優作や、何より快斗に万にひとつでも手を出されるようなことがあってはならない。
 だから、新一はこの地を去らなければならないのだ。

 辺りが急にしんとなる。
 戴冠の儀式が済み、快斗のスピーチが始まったのだ。
 流れるような澄んだ声が聞こえてくる。

 新一はそっと、眼を閉じた。










 宮殿内に宛われた来賓部屋の一室から、散り散りに帰っていく民衆を新一はぼうっと眺めていた。
 誰もが笑みを浮かべている。
 この先の平穏を心底から願い、そして信じている顔だ。
 快斗は戦場で、そして今日の一日で彼らの信頼を得ることができたのだろう。
 新一の顔にも自然と笑みが浮かぶ。
 彼のこの先の幸福を喜べる自分に、ほんの少しだけ安堵した。

 と、不意にノックの音が響いた。
 この時間にここを訪れるのはひとりしかいないと、新一は無防備に答える。


「キッドだろ?良いぜ、入れよ」


 窓の外を眺めたまま入室の許可を与える。
 やがて開いた扉から入ってきたのは――快斗だった。


「新一」
「!」


 慌てて振り返る。
 そこには正装のままの快斗が立っていて、有り得ないと新一は目を瞠った。
 快斗は今の今まで式典に出ていたのだ。
 こんなすぐに帰ってこれるはずはないと思っていたのに。
 油断した、とポーカーフェイスの下で新一は唇を噛みしめた。


「…何か御用ですか、王子――いや、国王陛下」
「王だなんて呼ぶな。快斗って、名前で呼んでよ、新一」
「ですから私はコナンだと申し上げてるでしょう?それに、用がないなら休ませて欲しいのですが」


 素っ気なく言い放ち、すぐ側まで来ていた快斗の脇を通り抜けて新一はソファへ向かおうとした。
 けれど、その手を強く掴まれて。


「新一っ!」


 ぐいと引かれ、壁に押付けられる。
 今にも泣き出しそうに歪んだ顔が目の前。
 熱い、あの頃と少しも変わらない紫紺の瞳とぶつかって、新一は思わず言葉に詰まる。


「無視すんなよ、俺をちゃんと見ろ!お前は新一だろ?コナンだか何だか知らないけど、どんなに名前や態度を変えたって俺にわかんないはずないだろ!お前のその目を、他でもないこの俺が忘れるわけ、ないだろうが…っ!」


 朝も昼も夜も、夢の中でさえ焦がれ続けていた。
 私怨にかられた心を唯一救ってくれた、故国を思い出させるその不思議な輝きを秘めた双眸に。
 この心を惹きつけて止まない、唯一無二の存在。


「俺のこと嫌いになった?だから目も合わせてくれないの?俺が不甲斐ないから、…もう、俺なんかには愛想が尽きた…?」


 掠れた声が耳をくすぐる。
 鼓膜を通じて魂を直に揺さぶられているかのようだ。
 快斗の腕に強く抱かれ、なんとか保たせてきた細い一本の糸は今にも切れてしまいそうだった。
 あんなにも厳重に守ってきたはずなのに。


「…そんな、わけ…っ」


 快斗の真っ直ぐな紫紺の瞳が自分を射抜いている。
 見てはいけないと、見ないようにしていたそれに新一は吸い込まれるように魅入った。
 そして、強く抱き締めてくれるその人の背に新一もまた手を伸ばそうとして……

 こんこんと、鳴り響いたノックに意識を引き戻される。


「!」


 二人しかいなかった空間に第三者が現われたことによって、新一の思考は急激に冷えていった。
 伸ばしけていた手を強く握りしめる、そのまま下へとおろす。
 今度こそキッドが来たのだろう。


「…もう、出てってくれ」


 絞り出すように呟かれた声はすでに冷え固まっていて、ほぐれかけていた新一の心が再び固まってしまったのだと快斗は感じた。


「…新一、」
「俺は新一じゃないし、新一は死んだんだ。どんなに俺にそいつの影を求めたところで…っ」


 その先は、声にならなかったけれど。
 震える声と震える肩が全てを語っていた。


「――俺は諦めねぇ。絶対、お前を取り戻す」


 座り込んだまま顔を上げようとしない新一に、けれど快斗はそれ以上は何も言わずただこめかみにひとつキスをして。
 キッドとすれ違うようにして出て行った。

 後に残ったのは、濡れた瞳を誰にも見せまいと声を押し殺して肩を震わせる新一だけだった。






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久々にそれっぽい(?)快斗と新一の絡みを入れてみました。
キッドさんてばなんてバッドタイミング!いや、ナイスタイミングと言いますか…(笑)
コナンさんがすっかり出てませんが、次は出てきます。