ぴちゃん…ぴちゃん…

 だだっ広い洞窟の中、水の滴り落ちる音が響き渡る。
 一滴ずつだが確実に溶けてゆく氷の微かな音。
 いつかの光景とデジャビュするそれは、けれど今内包するのは年若き少年ではなく、成長したひとりの青年だった。

 あれから二年の月日が流れた。
 艶のある漆黒の髪は更に長く、閉じられた瞼は微かに震えている。
 白磁の肌はひどく綺麗で、傷痕などひとつも見あたらない。
 ――否、たったひとつをのぞいて。

 脇腹にはっきりと刻まれた刀傷が開くことはないが、消えることだけはなかった。
 念の込められた傷は治りが遅い。
 あの時の快斗の憎しみが込められたこの傷は、おそらく一生消えないだろう。
 けれど新一は閉じられた瞳の奧で思う。
 消えなくて、良い。
 この傷は快斗の想いを受け止めた証なのだから、一生消えなくて構わないのだ、と。

 瞼が震える。
 そっと力を込めれば、うっすらと開くことができた。
 二年の月日をこの中で過ごした新一だが、そろそろ解放の時が近いのだろう。
 コナンでは十八年、それも新一の力がなければおそらくもっとかかっただろうに、たったの二年で回復した新一の力の強さはさすがだった。
 軽くコナンの数倍はいくだろう。

 そう思い、口元が歪む。
 こんなに強大な力を持っていては、たとえ完治したところで快斗のもとに戻れるかどうか。
 この力で彼を傷付けたりはしないか。
 この力が、禍を呼ばないか。
 ……本当に、戻っても良いのか。

 けれど新一の思考はそこで途切れた。
 カツン、と小さな足音を響かせながらひとりの女性が姿を現したのだ。


「初めまして、光の王。私、紅子と申します。紅≠統べる魔女ですわ」


 不適な笑みを浮かべたその美女は、新一の目の前でぴたりと足を止めた。
 細く開いた瞳で新一をそれをじっと見つめる。
 もちろん紅子は新一が声を返せないことなど百も承知だ。


「あと数日としないうちに貴方は解放されるわ。その前に、確かめておきたいことがあったんです。
 私は魔女。未来を視る力を持つ者。
 あの時、黒羽快斗がヴェルトの国王を刺していれば、彼は自ら滅びの道を選び朽ち果てるはずでしたわ。そして貴方はその後を追って同じ闇へと堕ちていた。世界は再び混沌に包まれるはずでした。
 貴方にはその未来が視えていたのかしら…?」


 新一はわけがわからないと僅かに眉を寄せた。
 確かに自分には強大な、それこそ持て余すほどの力があるけれど、決して未来を視たりできる力はない。
 もし未来が視えていたならもっと巧く快斗を引き留めることもできたはずだ。
 何より、予定された道をただ歩くだけの生にどれほどの価値があるだろう?
 そんな新一の様子に紅子はなぜか満足げな笑みを浮かべた。


「…今まで、どんなに足掻いても私の視る未来が覆されたことはなかった。
 いつからか私は諦めましたわ。どんなに足掻いても、決して未来が変わることはないのだと。
 そんな私の絶望を、貴方は打ち砕いてくれた。私を救ってくれたのよ。
 貴方は私の視た未来を変えた。もう、この先に続く未来を私は視ることができない。
 でも、それは何より幸せなことですわ」


 先が視えてしまう不幸に、疲れていたから。
 だから。


「私を救ってくれた貴方を、今度は私が救って差し上げますわ」










* * *


 初夏の風が優しく吹き抜ける水無月。
 その月も二十日と一日が過ぎようという今日この日、人々の顔には笑みが溢れていた。

 あれから。
 世界を巻き込んだ戦から二年ばかり。
 彼らの生活にはいくつもの変化が訪れた。
 今まで諍いを起こし続けていた人間とモヴェールは、各々が積極的に和解へと踏み出した。
 未だいざこざは起こる。
 長い年月をかけて隔たれてきたのだから、たった二年で全てが丸くおさまるはずもないのだ。
 けれど、それでも、国王となった人を中心に定められた新しい律≠ノよってこれまでのような流血沙汰は格段に減少した。
 以前は剣を用いて行われていた処刑は、律によって無駄な血を流すことなく罪を裁くようになり。
 中立で公正な立場にて物事を計れるよう、そういったいざこざを解決するための機関を設けた。
 ひとつに統一された国の中で、各地方を治める者を民の中から選び出し、支え合いながら国政を行う。
 そうすることによって各地の民の声は国王の耳へと届き、定期的に開かれる会議によってそれらを解決していく。

 全てはまだ始まったばかりだ。
 けれど、彼らの出だしは順調だった。
 国民は国王を愛し、国王もまた国民を愛す。
 国王は宮殿に居座り高い敷居から下を見下ろすのではなく、自らその敷居を下りて国民と直に触れ合う。
 へたに強いためもあり、国王は普段から警護の者を連れて歩くことはなかった。
 そこがまた人々の安心感を呼ぶのだろう。
 もともと人当たりも良く愛想の良い彼はとても自然に、まるで国を統べる者とは思えない様子で民衆の中へと溶け込んでいる。
 それはかつての彼の父親のようで、それでいて彼にしか成し得ないこの国の在り方に、人々の顔には幸福の笑みが浮かぶのだった。

 その彼、黒羽快斗の今日は二十二歳の生誕祭。
 当初は簡単なスピーチ程度しか予定していなかった快斗だが、意外にも国民の中から不満の声が出たのだ。
 今日のこの日を祝わずしていつ祝うのだ、と。
 快斗のお気に入りの菓子屋の主人も、彼の魔法≠見せてとせびりにくる子供たちも、よく宮殿を抜け出してはこっそりお邪魔している居酒屋の主人も。
 彼の生まれたこの日を祝いたいからと、生誕祭を催すことになったのだ。
 そのため、今日はいつも以上にこの宮殿前の広場は賑わっている。
 花が、リボンが、そこらじゅうを彩っていた。

 その騒ぎを窓からこっそり見下ろして、ふと快斗が溜息を吐く。


「なんつーか、みんなノリの良い奴ばっかりだな、この国は」
「平和な証ですよ。国王である貴方に日頃の感謝も込めて、ということではないですか?」
「…税金の無駄遣いになるから、スピーチだけで終わらせようと思ってたのに」
「何を仰るんですか。税金などほとんど取ってないんですから、彼らには大した負担にはなりませんよ。逆に、祭りでものが売れれば人々の懐も暖まりますよ?」
「でもなぁ…」


 はぁ、と再び溜息を吐く快斗に、白馬はこっそりと苦笑をこぼした。
 この王は何より国民の生活を潤すことを優先する。
 無駄な税金などは一切取らず、そのくせ彼らの経済状況を良くするために惜しみなく金を出すものだから、もしかしなくとも宮殿が最も苦労しているかも知れない。
 けれど、彼らのためにする苦労を苦労とも思わない快斗は、ただ笑うだけなのだ。
 苦労しながらも何とか凌いでいっている白馬もまた、それ以上は口を出そうとしない。


「それにしても、この窮屈な衣装はどうにかなんねーかな…」


 毎年着せられているけれど、相変わらず慣れることはない。
 王の正装だからと千影にはしっかり着るよう念を押されているのだが、動くたびにじゃらじゃらと音の鳴りそうな衣装に快斗は三度溜息を吐く。


「年に数度しか着ないんだから我慢しなさいよ!」


 いそいそと衣装を着付けている侍女のひとりが楽しげに笑いながら言った。
 彼女は中森宰相のひとり娘で青子と言う。
 はきはきした快活な性格で、それでもやはり女性らしい器用さを兼ねた彼女は侍女連中の頭でもある。
 幼い頃から一緒に遊んでいた青子に快斗は弱く、拗ねたように唇を尖らせながら押し黙った。

 その光景を微笑をのせて見守っていた白馬だが、不意に聞こえてきたノックに慌てて「はい」と返事を返した。


「白馬さま。宮野さまがいらっしゃってますが…」
「…判りました、すぐに行きます」


 外から声をかけてきた侍女にはそれだけを返し、白馬は快斗に向き直る。


「国王。志保さんもいらっしゃったようです」
「志保ちゃんか、懐かしいな…半年ぶりかな」
「私は先にご挨拶をしてきます。王も、それが終わりましたらお越し下さい」


 それだけ言うと、白馬は青子に後の指示を任せて部屋を後にした。
 パタンと閉まった扉を眺め、快斗は何かを思い出すように瞳を眇める。

 彼女は彼≠フ幼馴染みだ。
 あの時、快斗は彼女に随分と罵られた。
 けれど全ては自分の所為だから甘んじて受け入れて。
 散々罵った後、彼女は言った。


彼を、今度こそ幸せにしてあげなさい


 誰も彼も、みんな自分には優しすぎると思った。
 彼らにとっても大事だったろう人を殺しそうになった自分を、それでも受け入れ許してくれる。
 だから、全力でそれに応えようと誓った。
 それだけを思い、ここまでひた走ってきた。
 けれど、たまに思い出してしまう。
 ――否、忘れたことなど刹那にも有りはしないのだけれど。

 彼は、いつ、還ってきてくれるのだろうか……










 通された部屋でやることもなくソファに腰掛けていた志保は、ノックをして入ってきた白馬に不適な笑みを向けた。
 それを受ける白馬もまた、似たような笑みを浮かべている。


「…彼にはバレていないようね?」
「抜かりはありませんよ」


 そんな不穏な会話を交わしながらも彼らはひどく楽しげだ。


「宮殿の中は自由にできないからね。貴方に頼んで良かったわ」
「こちらこそ、助力できるとは光栄です」


 あどけない笑みを浮かべながらも、時折思い出したように哀しげな表情をする彼に。
 ずっと、笑っていてもらえるなら。


「それでは、予定通りに事を運びましょう」










* * *


 白い鳩が楽しげに空を舞う。
 鳩の次は花、花の次は蝶……
 次々にその手から生み出されるものが全ての者の視線を奪った。
 笑みが浮かび、感嘆の溜息が漏れ、驚きの歓声が上がる。
 そうすることによって、何よりのプレゼントを快斗は人々から貰うのだった。

 色々な人が自慢の菓子や装飾品や家具などを贈ってくれたけれど、そのどれにも勝ることのない贈り物。
 それは彼らの顔に浮かぶ幸福≠ニ言う名の笑みなのだから。


「素敵な贈り物を、有り難う」


 魔法≠ノ見惚れる人々に、快斗は心底嬉しそうに言う。
 途端にそこら中から歓声が上がり、拍手の嵐が起こった。
 その中に立ち、快斗は思う。


(新一…見てるかな?)


 これが今の俺。
 お前に救われた命で、多くの命を守っている。
 暗く翳っていた人々の顔に幸福の笑みを咲かせた。
 この国は平和≠セろうか。
 お前は、この国に還ってきてくれるだろうか。
 ――俺のもとに、還ってきてくれるだろうか。

 ふと空を見上げた快斗に、高らかに声を張り上げて志保が言った。


「国王陛下。私からもプレゼントがあるの」


 広場に集まった国民を掻き分けて、凛と背筋を伸ばして歩み寄る。
 綺麗に着飾った彼女はまるでどこかの歌姫のようだった。
 自然と静まりかえる周囲に満足げに視線を投げ、ひたとその視線を快斗に据える。


「…志保ちゃん、プレゼントなんてそんなの、」
「良いから受け取りなさい。ちょっと大きすぎたみたいで、白馬くんに貴方の私室まで運んでもらったのだけど」
「白馬に?」
「ええ」


 にこりと微笑む。
 その顔には楽しくてたまらないと書いてあった。
 そして、ふと視線を空に投げてぽつりと零す。


「ねぇ。今日の空は、とても蒼くて綺麗だと思わない?」

 まるで、この空までもが貴方の生誕を歓んでいるみたい。


 そう言って快斗に視線を戻すと、ニッ、と不適に笑みながら。


「貴方の空≠ェ部屋で待ってるわよ」


 快斗が弾かれたように宮殿を見上げる。
 それから慌てて志保へと向き直ると、信じられないとでも言うように志保を凝視した。
 震える唇から掠れた声を絞り出す。


「還って、来た、の…?」
「さあね。自分で確かめなさい」
「…っ」


 快斗は自分の頬をパンッ、と叩くと、踵を返して一目散に駆け出した。
 残された国民たちはわけのわからない展開に動揺している。
 志保は満足げに声に出して笑った後、快斗の立っていた祭壇へと登って言った。


「悪いけど、王は暫く欠席よ!彼はいないけど後夜祭は大いに楽しんで頂戴!」










 慌ただしく響いてくる足音に彼は笑みを深くした。
 普段は衣擦れの音すら響かせずに歩けるクセに、その慌て振りがひどくくすぐったい。
 そんなにも逢いたいと望んでいてくれたのだろうか。
 この二年の間に彼の心は変わってはいないだろうか。
 そんなものは疑う余地もないと知りながら、彼――新一はこっそりと笑うのだった。

 やがて、壊れるのではないかという勢いで押し開けられた扉。
 肩で呼吸をしながらきょろきょろと彷徨う視線が捜しているのは、他でもない自分だろう。
 新一は紗の帳ごしに身をひそめながら、久しく逢っていなかった快斗の姿を見つめた。

 あれから二年。
 幼さはなりを潜め、成人した男らしさがある。
 それでもあの頃と少しも変わらない紫紺の瞳が嬉しかった。
 護ることができたのだ。
 あの輝きを。

 そう思い、ふと新一が口元を綻ばせた時。
 快斗は何の躊躇いもなく、こちらへと歩み寄ってきた。
 そして、彼と自分とを隔てていた紗の帳、ベッドから垂れる天蓋をすっと手で払いのけた。
 蒼の瞳と紫紺の瞳が真っ直ぐにぶつかりあう。


「…快斗」


 そう言うのが早かったか。
 それとも――
 その腕に掻き抱かれるのが早かったか。

 成人したというのに、未だ子供くささの残る仕草で快斗は強く強く新一を抱き締める。
 新一もまたその背に腕をまわし、強く強く力を込めた。


「おかえり、新一…っ」
「…ただいま」


 透明な雫のこぼれ出す瞼に、新一はそっと口付けて。
 あの時流せなかった涙を流す彼へ愛おしげに微笑んだ。
 きっと逢えなかった間も彼は泣かなかったのだろう。
 新一が弱音を吐ける場所を快斗の腕の中だけだとしていたように、快斗もまた新一の腕の中だけをその場所にしていただろうから。


「立派な国になったよな」
「当たり前だろ!お前を幸せにしたくて、頑張ってたんだから…!」
「…うん。お疲れ、快斗」


 ちゅ、と軽く口付けると、離れていく唇を追うようにして快斗がかみつく。
 強引に入ってくる舌は、それでも優しく新一を愛撫する。
 新一はゆっくりとベッドへと倒れ込みながら、襲ってくる眩暈に逆らうことなく身を任せた。
 舌と舌とを絡め合い、呼吸もままならないほどに強く求め合って。
 やがて僅かに唇を離した快斗が、新一のそれと触れたまま小さく言った。


「もう、どこにも行かないよな…?ずっと一緒にいれるんだよな…っ?」


 忙しなく動く快斗のしなやかな手が、新一の呼吸を確実に弾ませていく。
 新一は吐息をかみころしながらそれに答えた。


「二度と離れねぇ、よ。俺の居場所は、お前の隣、だけ…だ…っ」


 何度も何度も口付ける。
 まるでそれだけが唯一の気持ちを伝える方法だと言わんばかりに。
 体を、心を、全てを共有できるのは、この人だけ。

 やがて取り払われていく布。
 晒されていく体に。
 暴かれていく心に。
 深く深く、その人の存在を刻み込んで。


「……愛、してる…」





 蒼く澄んだ空の下。

 二人の救世主に、漸く安息が訪れた。










 ばっさりと切られた髪が何を意味するのか。
 それは、魔女との秘密。
 愛しい人を守るため、一生隠していく秘密。

 強大な力は魔女によって封印された。
 それは二度と解放されることはない。

 ただひとつ――



 愛する者を傷付けられよう時以外は。






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この話で、「空色の国」は完結となります。長い間お付き合い下さり、どうも有り難う御座いました。
軍服萌え…!などという妄想から生まれた話ではありますが、予想以上に深い話となり、とても思い入れの深い話となりました。
散々辛い思いをした彼らですが、最後はこういう形におさまりました。
歓んで下さる方、納得いかない方。両方いらっしゃることでしょう。でも、これが私なりの彼らの「結論」です。
新一は、たとえ封印した力でも、この先快斗に何かあるなら躊躇わず封印を解くでしょう。
そういった不器用なところも彼らの一部です。
まだまだ書ききれなかったシーンもあります。でも、これでこのお話は終わりです。
このお話が少しでも読んで下さる方の心に残ったなら、幸いvv
有り難う御座いました!