微笑を浮かべたまま鼓動を止めた、その体を愛しげに抱き締める。
 未だ温もりの伝わってくるその人が死んでしまったなど、到底信じられなかった。
 血を吐かんばかりに叫び声を上げ、けれど不思議と涙は出なくて。
 ただひとつの事実が快斗のそれを戒める。


(――俺が、斬った)


 彼の血色に染まったこの手が何よりの罪の証。
 彼の腹に深々と剣を突き刺したのは、他でもないこの手。
 哀しむ権利がどこにあるのだろう。
 何よりも護りたかった者の命を、自らの手で奪っておきながら…!

 本当に望むものを選びなさい。
 選んだら、決して迷ってはいけない。

 いつだったか、彼の父だという人が言っていた言葉が過ぎる。
 本当に望むもの。
 そんなもの、初めから決まり切っていたのに。
 憎悪に取り憑かれ、それを見極めることができなかった。
 快斗は抱き締める腕に力を込めて、まるで神聖な誓いのように熱を失い始めた唇へと口付けた。


たとえ君がどちらの道を選ぼうとも、新一は君を受け止める


 ――こんな受け止め方が、あってたまるか。










 そこに居合わせた者たちはただ茫然とその様子を見つめることしかできなかった。
 血を流し横たわりながらも気高さを失わない光≠ニ、涙の代わりに血を吐きながらその人に口付ける若き国王。
 荘厳で美しく――残酷だ。

 事情を知らない白馬も中森も、そこにどれほどの想いがあるのか判らないはずがなかった。
 最期の新一の言葉が届いたわけでも唇の動きを読みとったわけでもないけれど、彼らは互いを自らの命とするほどに愛し合っていたのだ。
 愛する者を、ひいては自分を護ろうとして、その護るべきものを失った王。

 その痛々しい光景を正視できずに顔を背けていた白馬は、けれどはっとして顔を上げた。
 護るべきものを失った者の辿る道など、ひとつしかないではないか。


「…国王!」


 慌てて歩み寄ろうとした白馬を、けれど快斗は拒絶する。


「来るなっ!」


 新一を抱き締めたまま、快斗は光を失い昏々とした瞳で睨み付ける。
 かつては紫紺の輝きを放っていた瞳が驚くほど翳っている。


「来るなよ、白馬」
「国、王…っ」
「駄目だよ、もう…新一がいないなら、俺は国なんてどうでも良い」


 微笑む顔はあどけなく、ひどく幼く、同時に今にも崩れてしまいそうな危うさを伴っていた。
 白馬はごくりと唾を飲み込む。
 快斗が微笑みながら何を覚悟しているのか悟ってしまった。
 彼は死ぬつもりなのだ。

 そうだ、と。
 今更になって気付く。
 新一がなろうとしていたのは、モヴェールの光≠ネどではなく、まして人間の光≠ナもなく。
 ただひとり、愛した者を導くための光≠ノなろうとしていたのだ。
 復讐と言う名の暗闇に彷徨う快斗を平和という光の中に導くためだけに、永久に影の存在となることを決意した。
 だからモヴェールの光≠ニなることを拒み、自分の存在を秘密にしろと言ったのではないか。
 新一が照らしたかったのはただひとつの魂。
 そのためだけに生き、そのためだけに、死ぬ。
 そして何よりその光に縋っていた魂がそれを失ってしまえば――無限の暗闇に囚われるしか道はない。
 快斗をその深淵から救い出す術を持たない白馬は絶望する。
 けれど。


『この馬鹿が。死にたいなら勝手に死ね』


 背後から突然響いた声に、入り口付近で立ち尽くしていた中森や白馬は慌てて振り返った。
 現われた人物を見て瞠目する。


「コ…コナンさま…?」


 中森の呆けた呟きが耳に入るが、目を瞠る彼らをその人物――コナンは軽く一瞥しただけで、ずかずかと室内へと入って行った。
 横たわる双子の兄。
 その体を抱き締める兄の思い人の前にコナンはぴたりと足を止めた。
 ゆるゆると力無く首を上げる快斗の瞳をコナンは容赦なく射抜く。

 自分を睨み付けてくるこの少年が本物のコナンなのだと、快斗はぼんやりと考えた。
 確かに彼と新一はよく似ていた。
 背丈、容貌、内に秘めた激情やどこまでも澄んだ蒼い瞳でさえ瓜二つだ。
 けれど。
 今、この腕の中にいる人こそが新一なのだ。
 どこまでも似ている彼らは、けれど快斗にしてみれば全く似てはいなかった。

 愛したのはこの人だけ。
 鮮烈な光で自分を導き、時に激しく奮い立たせては、時に暖かく受け止めてくれる。
 不器用な彼らしい、彼だけの優しさ。
 愛したのは、この人、だけ。

 コナンが何をしにここへ来たのかは知らないが、快斗は新一の体を強く抱き締め直すと威嚇するように殺気をみなぎらせた。


「…何しに来た」
『別に死に損ないに用はねぇよ。用があるのは新一だ』
「新一は渡さない。もう二度と、誰にも渡さない!」
『…そんなに新一を殺したいのか?』


 コナンの声に快斗の体が僅かに強張った。
 全くこんな男のどこに惚れたのだろうと呆れつつコナンは言う。


『新一はまだ死んじゃいない。ただ眠ってるだけだ。だから、俺が叩き起こす』


 コナンの口端がにっと持ち上がる。
 快斗を挑発する時に新一がよく浮かべていた笑みと似ていた。
 その笑みは、いつだって打算に縋りそうだった快斗を奮い立たせてくれたもので。
 なぜか無条件に大丈夫≠セと思わされてしまう。


「新一、…助かるのか…?」


 いもしない神に祈りを捧げるように、快斗が掠れた声で囁く。
 コナンはしっかりと頷いた。


『アンタがさっさとその手を離して俺に任せてくれるんなら、だけどな』


 いつまで抱き締めてんだよと、兄離れのできていないコナンは膨れっ面を向ける。
 新一が快斗をどれほど想っているかよくよくわかっているコナンだが、それでも大事な兄を取られるのは少しだけ悔しい。
 キッドがいなければ駄々をこねて無理矢理モヴェールの王としていたかも知れない。

 やがて躊躇いながらも快斗は優しく新一の体を床に横たえた。
 コナンがその傍らに膝をつく。


『キッド。今から新一の精神と接触を図る。そんで叩き起こすから、お前は俺の体を頼むよ』
『…返還の氷≠ナすね?』
『それしかないだろ』


 コナンの口元が皮肉げに歪み、キッドは布で覆われた顔を僅かにしかめた。

 返還の氷≠ニは十八年もの間、瀕死の重傷を負ったコナンが生きながらえるために閉じこめられていた治癒能力のことだ。
 その力はどんな傷も癒すことができる。
 けれど、それにはひとつの禁忌があった。
 力は自分にしか作用させてはならない。
 もし万が一にも他人に作用させてしまった場合、その力を使った者は命を落とすことになるのだ。
 その上氷はその者の力を養分として自己治癒を行うため、力の差によってその進度はまちまちなのだ。
 力が強ければ治癒の速度も速くなるし、弱ければ遅くなる。
 ただ、果たしてコナンで十八年もかかったそれに新一がどれほどの時間で回復するのか検討もつかなかった。


『あの時、新一が氷付けになってれば良かったんだ、なんて言ったけど。…本心じゃなかった』
『…わかってます、コナン』
『ほんとに…ほんとにこんなこと、望んじゃいなかった…』


 氷付けになる苦しみをコナンは知っている。
 全てを冷たい蒼の帳越しに見てきた十八年は容易に言葉で表すことなどできない。
 すぐ側にあるのに、どんなに触れたくても触れることのできなかった人。
 何より望んだ、他人との関係の中に生まれる暖かさ。
 それを叶えてくれた新一に、自分と同じ苦しみを味わわせることはひどく心苦しいけれど。

 ふと、快斗へと視線を向ける。
 目があった瞬間、コナンは思わず苦笑を浮かべた。


『新一に、…たとえ何年かかったとしても、幸せになって欲しいからな』


 そう言ってコナンは新一へ腕を翳すと、蒼白い強烈な光を放ちそのまま隣に崩れるように倒れ込んだ。
 床にぶつかる直前にキッドが優しく抱き留め、そっと横たえる。
 双子の王は同じような微笑を浮かべていた。



 心配そうに二人を覗き込む快斗にキッドが改めて向き直る。


「返還の氷≠ノついては新一から聞いてるでしょう?」
「…聞いてる」


 いつだったかそう遠くもない、まだ大事なその人の温もりが常に隣にあるのだと信じて疑わなかった頃。
 新一が自分の出自を確かめるために向かったモヴェールの森で、氷付けになっていた弟と会った後。
 その背に負った宿命と戦によって滅茶苦茶にされた家族に涙する彼を腕に、快斗は新一の気が済むまで黙ってその話を聞いていたことがある。
 十八年前に起こった人間とモヴェールの大戦によって瀕死の重傷を負ったコナンは、返還の氷≠ニ呼ばれる治癒能力の氷の中へと囚われていた。
 その氷は確実に彼の傷を癒したが、長い年月をその氷に隔たれて過ごしてきたのだ。

 今の快斗はただの一日だろうと新一と離れて過ごすのは耐え難いことだった。
 まして何年も離れて過ごすなど。
 けれどキッドは、それをわかっていながら敢えて言うのだった。


「彼が完治するまでにどれほどの月日が必要なのか、それは誰にもわかりません。それでも貴方は人々を統べる王です」


 快斗は新一を見つめていた視線を上げ、キッドを見つめた。


「…だから?俺にどうしろって言うんだ?自分の命より大事な人をこの手で斬っておきながら、他の奴らを護れってのか?」


 快斗が嗤う。
 それはキッドに向けた嗤いではなく、他でもない自分への嗤いだった。
 誰より護りたかった人を守れなかった自分に、どうして民を護ることができるのだろうか。
 憎悪にかられ剣を抜いた自分に、民を統べることなどできるはずもない。


「…では、貴方は新一の望みすら叶えられないんですか?」
「新一の望み?」
「彼が、こうして体を張ってまで貴方の復讐を止めたのは、貴方の幸福を望んだからです」


 踏み出した足に躊躇いはなかった。
 痛みに顔を歪めながらも、自分の行動に後悔などしていなかった。
 愛する者に二度と十字架を背負わせないと、そう言った顔は微笑んでいた。

 新一が何を望んだのか。
 それは、快斗の幸せに他ならない。


「貴方が生きること。復讐という戒めから解放されること。一度は捨てた民をそれでも捨てられなかった貴方に、もう一度チャンスを与えること。それが、彼がこうして今まで必死に足掻いてきた理由です」

 それを、貴方は叶えてあげないのですか…?


 キッドの静かな問いかけに快斗は返す言葉を持たなかった。
 新一は自分の本当に望むもののために、躊躇いもなくその一歩を踏み出したというのに。
 自分は今、ここで何をしているのだろう。
 何度となくあの暖かい腕は力強く背中を押し出してくれたというのに、未だにこんなところで踏みとどまっているなんて。
 快斗はきつく唇を噛みしめる。


「貴方はこれから王としてコナンとともに民を導く。剣も流血もない、新しい律によって治められる国を創り上げる。
 そして、平和な国に新一を迎えてあげなさい」


 長い長い戦いの中に傷付いてきた体と心を癒せるように。
 平和な国を築き上げ、彼を迎え入れてあげなさい。

 快斗はゆっくりと顔を上げた。
 その瞳にはもう翳りはなく、不思議なアメジストの輝きを取り戻している。


「…必ず」


 強く返されたその言葉に、キッドもまた満足げに笑うのだった。
 新一と離れることは快斗にとって苦痛でしかない。
 けれど、だからこそ新一が必ず生きて還ってくることを信じて平和な国を築き上げるのだ。



 不意に、新一の体が蒼く光り出す。
 おそらく意識下での接触が成功し、コナンの誘導のもとに新一が返還の氷≠使ったのだろう。
 額から徐々に全身に広がっていく光を眺め、快斗は強く新一の手を握りしめた。

 凍えるほどに冷たい手。
 ちくりとした痛みが走るが、快斗は頓着しなかった。
 握った手を優しく取り上げ、恭しく口付ける。


「…待ってるよ、新一」


 やがて新一の体を光が包み込み、掴んでいた手に感触がなくなり……
 光が止んだ時、そこにはコナンがひとり横たわっているだけだった。


「新一はモヴェールの森、白の砦の地下にいます。逢いたければいつでも来なさい。氷越しですが、彼と逢うことができますよ」


 ぐったりとしたコナンの体をキッドが優しく抱き上げる。
 新一との接触に力を使い、ひどく疲弊しているようだった。
 コナンはもともとあまり力が強いわけではないのだから、最強と言われる力を解放しきった新一と接触するのは容易ではない。
 それでもたったひとりの兄のために、必死に自分の持てる力の限りを尽くした。
 新一のために皆が命を削っている。
 快斗もまた、彼のために覚悟を決めた。


「俺は行かない、還ってくるって信じてるから。あいつのために、…国を護る」
「…そうですか。貴方がそう決めたのなら、そうすると良い」


 それだけ言い置いてキッドはコナンをつれて踵を返す。
 けれどふと、今思いついたとでも言うように掛けられた快斗の言葉に足を止めた。


「そう言えば、アンタは誰なんだ?」


 以前、新一が言っていた。
 キッドと名乗るモヴェールが快斗とひどく似ていた、と。
 そのモヴェールとは間違いなくこの青年のことだろう。
 確かに声を聞いている限りでは自分と似ているような気がするのだが……

 キッドは振り返ると、顔を覆っていた布にそっと手を掛けた。


「私は貴方ですよ」


 白馬と中森の驚愕の声が聞こえる。
 快斗はと言うと、やはり彼らと同じように驚きに目を瞠っていた。
 取り払われた布の下から現われたのは、新国家の国王となった快斗と瓜二つ――というよりは全く同じ造形をした顔。
 キッドは不適な笑みを浮かべた。


「私は貴方の影でした。ですが、その影も今ではこの通り命を持っている。貴方が新一を愛するように、私はこの方を誰より愛している」


 ぐったりと力無く瞼を閉じているコナンだが、その手はしっかりとキッドの衣装を掴んでいた。
 無意識のその手がキッドを笑ませるのだ。
 物言わぬ氷の化身であった頃から、ずっと側近くで見守ってきた。
 彼のために得た、その全てを彼に捧げるためだけに生まれたような命だったけれど……
 そんな自分でもコナンは必要としてくれる。
 他の誰でもなく、自分を必要としてくれているのだ。


「新国家の影の柱となるのはコナンです。もし彼に害が及ぶようなら、私はたとえ貴方だろうと容赦しませんよ」


 ニッ、と笑んだその瞳には快斗と同様の翳りが見える。
 彼もまた、快斗と同じように常に憎悪と隣り合わせているのだ。
 それほどまでにひとりの人を想っている。
 けれど、自分が本当に望むものも知っているのだ。
 だからこそこうしてその瞳に昏い輝きを秘めながらも、何の躊躇いもなくコナンを抱き締めることができるのだろう。

 驚く彼らを残し、今度こそキッドは宮殿を後にしたのだった。










 白の砦へと足を向けたキッドの背後に歪みが生じる。
 ぐにゃりと渦状に歪んだその中心からひとりの人間が現われた。
 漆黒の長い髪を揺らし、色褪せない美貌の魔女は朱のひかれた唇に微笑みをのせている。
 キッドは振り返りもせずに、彼女と同じような笑みを浮かべながら言った。


「…やはり貴方だったんですね」
「ええ。この子の力が必要だったでしょう?」
「はい。コナンにしかできない大役でした」


 新一と血を同じくして生まれたコナンだからこそ、眠りに入った新一と接触することができたのだ。
 たとえば強い力を持ったこの魔女ですら、新一と接触することはできなかっただろう。
 否、できることはできたのだが、無理にすれば新一の精神を壊してしまったかも知れない。
 だから、彼女は自分の移動術を使ってコナンを連れてきたのだろう。
 あの時あのタイミングでコナンが現われたのは、彼女の手助けがあったからに他ならない。


「貴方には本当に感謝してますよ。今回のことと言い、…私に命を与えて下さったことと言い」
「ふふ…今日は随分と素直なのね」


 いつもは何を言ったところで礼を言われたことなどなかった。
 それは自分の生み出したキッドを可愛がるあまりにちょっかいを出し過ぎてしまったためなのだが。


「懐かしいわ。貴方を作ってから、もう何年経つのかしら」
「さぁ…父の死を知ってから間もなくのことですから」
「そうね。今にも消えてしまいそうだった貴方、黒羽快斗の心に命を与えたのは、ただの気紛れだったのに」


 幼いながらも父の死を目撃した快斗の心は、いとも容易く復讐と言う名の憎悪に飲み込まれた。
 その中で、震える子供のように身を縮ませて震えていた快斗の心。
 父の願った平和を望む心は、父を奪われた憎しみに今にも押し潰されてしまいそうだった。
 その心を救い、新たに命を与えたのは、彼の悲劇を憐れんだ魔女の気紛れに過ぎない。

 未だ憎悪に囚われていた快斗を導こうとしてくれた新一。
 彼を失えば、もとは自分とひとつだったはずの快斗の心は永遠に憎しみに染まってしまうだろう。
 キッドに命を与え、名を与え、コナンを守るという新たな使命を与えた紅を統べる魔女は新一を、ひいては快斗を救ってくれたのだ。
 その魔女に、普段なら決して口にしないだろう感謝を告げたのは心から感謝しているから。
 けれど紅子は静かな微笑を浮かべたまま言うのだ。


「けれど、お礼を言われるのは筋違いだわ」
「…え?」


 首を傾げるキッドに紅子は微笑を濃くする。


「お礼なら私にではなく光の王になさい」
「…なぜです?」

 彼を救ったのは貴方ではないですか…?


 紅子はその問いには答えなかった。
 代わりに、まるで謎かけのような言葉を返す。


「彼は私を救ってくれたのですわ」


 そう言った魔女の顔はとても柔らかく、暖かく、そして優しかった。






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ごめんなさい、全然一話に入りきらなかったよ…!
まだまだ書きたいシーンがあったなんて内緒ですが。死。
…キッドの謎は本当、大したことないんです。コナンさんも出せて良かった!
そんなわけで次へどうぞ…