7月のデイリリー
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慣れないブレザーも難なく着崩し、まるで往年着こなしてきたような風情で快斗は校門を潜った。
私立帝都学園。
その名に帝王のいる都を掲げる通り、この学校には日本の将来を担う名家の御曹子が多く通っていた。
もちろん快斗のような一般家庭の学生も多いが、頭が良くなければ決してこの学園の門を潜ることはできない。
帝都における偏差値は日本でも一、二を争う高さだった。
転校初日、快斗はやや寝坊したものの、授業には何とか間に合う時間に寮を出た。
やる気があるわけでもないわけでもないが、気が進まないのは確かだ。
自然歩調も緩くなる。
この時間になると登校のピークを過ぎたからなのか、歩いている生徒もまばらだった。
その学生がみんな快斗を追い越していくのは時間が時間だからだろう。
誰も快斗のことなど見向きもせずに走り去っていく。
少しだけ気をよくして、快斗は自分の教室へと向かった。
快斗のクラスはUのBだ。
この学校では成績がいい者から順にA、B、C…と六つのクラスに分けられている。
AとBが進学クラス、そしてその上に生徒がたった十名という特進クラスのSがある。
Sクラスを特上とするなら、快斗の所属するクラスは成績で言えば「上の下」だった。
この学校では何より成績を重視している。
そのためクラス分けは、学期毎にある期末試験の結果如何によって次学期のクラスが変動するという、まるで塾のようなシステムだ。
彼らは少しでも上のクラスに上がろうと、その期末試験を死に物狂いで受験する。
けれど、日本の未来を担うわけでも名家の御曹子でもない快斗にとってクラス分けなど興味がなく、そのため超難関と言われる編入試験もものの十分で終わらせてしまった。
その結果がBクラスだからと言って何ら問題はない。
ただひとつだけ問題があるとすれば、それは――
「あ…っ!」
快斗が教室の扉を潜った途端、それを見つけた女生徒が小さく声を上げる。
それにつられるように視線が快斗に集まってくる。
ポーカーフェイスが僅かに歪められたことに、気付いた者は誰もいなかった。
(…どこに行っても変わんねぇな)
どいつもこいつも同じ反応ばかり。
いい加減うんざりする。
別に誰に何を望んでいるわけでもないのだから、放っておいてくれればいいのに。
けれどそれすら言うのも面倒だと、快斗は無言で空いている席へと腰を落ち着けた。
どうせ話しかけたところでオドオドした返事が返ってくるだけだ。
わざわざ自分から不快な思いをすることはない。
微妙な沈黙に包まれたこの空気にもうんざりだが、快斗は外界を完全に遮断した。
窓のすぐ下は並木道、その向こうには広々とした校庭がある。
部活の朝練も終わり、授業前のグラウンドには人の姿はひとつも見当らない。
青空の下、ただ植えられた木々の影だけが伸びている。
その影が長かろうが短かろうが、木々には何の関係もない。
思考がないからではなく、ただそんなものに何の意味もないことを知っているから……
そんな下らないことをぼんやりと考えていると、不意にガタンと机が揺れた。
視線を向ければ、綺麗だけれどどこか冷たい印象を与える美人が悠然と見下ろしていた。
「…何か用?」
「貴方、文字も読めないの。余程頭が悪いのかしら」
「はあ?」
「ここは私の席よ。貴方の席はこの後ろ。ちゃんと書いてあるでしょう。わかったらさっさと動いて貰えるかしら、転校生さん?」
組んでいた腕をほどき、場所を示すように動く手は綺麗なのに、言葉や行動にいちいち毒のある少女だ。
快斗は少し気圧されながらも短く息を吐くと、素直に場所を動いた。
毒はあるが、飾り気のない真っ直ぐな言葉は不思議と嫌な感じがしない。
もしかしたら彼女は自分のことを知らないのだろうかとも思ったが、快斗を「転校生」と呼んだくらいなのだから知らないことはないだろう。
多少気になる少女ではあったが、すぐに担任が教室に入ってきたため、どうすることもなく快斗は再び口を噤んだ。
「ああ、宮野、親戚の方から電話があったそうだぞ」
「知ってます」
教卓から声をかけられたのは、前に座っている先ほどの少女だ。
特に意識したわけでもないが、「宮野」という名前は快斗の脳裏に刻まれた。
「えー、もうみんなも知ってると思うが、転入生だ。それじゃあ黒羽君、」
「黒羽快斗、よろしく。」
前に出て挨拶をと、教師がみなまで言う前にガタンと立ち上がると、快斗はその場で何とも端的な挨拶だけをして再び着席してしまった。
高校生にもなってわざわざ前に出て挨拶など馬鹿馬鹿しい。
名前なんて嫌でも知ってるだろうし、それ以外のことに突っ込まれるのも御免だ。
そんな無意味なことに時間を浪費しなくていいから、さっさと「学生の本分」とやらを全うすればいいのだ。
明らかに反抗的な態度を取る快斗に、けれど教師は叱るどころか戸惑いながら必死にフォローしようとしている。
「え、ええと、黒羽君はこの春まで江古田に通ってたそうだが、家の事情で転校することになったらしい。まだまだこの学校や寮にも不慣れだろうから、みんな力になってあげなさい。みんなも知ってると思うが、彼は幼少時代から有名な……」
その声を遮るように、バンッ、と快斗が机を叩いた。
驚いた教師は息を呑み、クラス中が息を潜めて窺うように快斗を見遣った。
「――余計なことは言わなくていいんだよ、センセイ」
快斗はすっと立ち上がり、教室内をぐるりと見渡して言葉を続ける。
少し持ち上げられた唇はあからさまな蔑んだ表情だ。
「どうせ言わなくてもこいつらみんな知ってんだ。…それにセンセイ、あんたも知ってんだろ?」
中身のほとんど入っていない、あまり意味のない鞄を手に、快斗はコツコツと教卓へ歩み寄る。
「俺に勉強は必要ない。だったら、授業も受ける必要なんかないよな?」
そんじゃ、さよなら。
固まったきり声もかけられないでいる教師を鼻で嗤い、快斗は来た時と同じく急ぐわけでもなくゆっくりとした歩調で教室を後にした。
何もかもが腹立たしい。
まるで物珍しいものでも見るような生徒の視線も、手に余るお荷物を押し付けられたような教師の顔も。
けれど何より腹立たしいのは――
期待などしていないと言いながら、彼らの態度に苛立っている自分自身だ。
わかっている。気にしなければいいのだ。
あんな連中、人体模型か人形だと思えばいい。
ただ造りが精巧なだけの、中身のないガラクタだ。
だってそうじゃないか。
感情があるなら。思考があるなら。
誰かひとりくらい、気付いたってよさそうなものじゃないか。
「…俺は化物じゃねぇ」
小さく悪態を吐き、今日はもう何もやる気が出ないからと、快斗は寮へ帰って行った。
けれど、自室の扉を開けた瞬間、快斗は思わず固まってしまった。
扉のすぐ先、部屋に入って一、二歩という距離で、人間がひとり倒れている。
……否。倒れているという表現はあまり正しくない。
規則正しい呼吸、その呼吸に合わせて上下する丸まった背中は、どう見ても眠っているようにしか見えなかった。
快斗は扉の名札にちゃんと「黒羽」と書かれているのを確認する。
確かにここは快斗の部屋だ。
もし部屋を間違ったにしても、出掛けに鍵を掛けたのだからそう易々と侵入できるはずがない。
増して侵入しておいてこんなところで寝転ける侵入者なんて有り得ない。
残る可能性を推察して、快斗は心底嫌そうに顔をしかめた。
入院していたはずのルームメイトが退院したのだ。
顔も名前も知らないが、まず間違いないだろう。
(変な奴…)
あまり関わらない方がよさそうだ。
もとい、初めから関わるつもりなどさらさらないのだが。
快斗はこの寝転けている少年を踏み越えて奥へ入ろうとした。
自室に他人がいるのでは外に行く外ない。
制服から私服に着替えて近場でも散策してこようとした快斗は、けれど次の瞬間。
「痛――っ!」
体が宙に浮き、視界が逆さまになったかと思うと、背中と頭に衝撃を覚えた。
何がどうなったのか、快斗はバランスを崩し転倒したのだ。
だが原因はすぐにわかった。
自分に乗り上げるようにして自分を見下ろす人。
それは先ほどまで玄関先で眠っていた少年だった。
快斗は思わず呆気にとられて言葉も出せずに少年を凝視した。
蒼い瞳に黒い真っ直ぐな髪、年の割に華奢な体つき。
けれど見かけに騙されてはいけない。
この腕は先ほど確かに快斗の体を投げ飛ばしたのだから。
暫し微妙な沈黙が流れたかと思えば、快斗に乗っかっていた少年が不意に首を傾げた。
「…あれ?」
きょろ、と目を彷徨わせ、あたりを見回していたかと思うと。
「悪い、寝ぼけてたみたいだ」
ばつが悪そうにそう言いながらどいた少年に、快斗は思わず脱力してしまった。
いったいどんな夢を見れば寝ぼけて人を投げ飛ばせるのだろうか。
第一、こいつは病み上がりではなかったか。
引き起こすために差し出された手を胡散臭そうに眺めると、快斗はその手を無視して自力で起き上がった。
それに気分を害したのか、少年の秀麗な眉が寄る。
「あんた、退院したの?今日からこの部屋に戻ってくるわけ?」
「…そうだけど、なんか悪いかよ」
不機嫌そうにそう言った少年に、快斗はにこりと微笑いながら言った。
「最悪だね」
そのあまりに端的な肯定に少年は思わず呆気にとられる。
「ルームメイトがいないって言うから喜んでたってのに、あんたタイミング悪すぎ。俺、自分のテリトリーに他人がいるの、許せないタイプなんだ。怪我だか病気だか知らねぇけど、どうせならずっと入院しててくれればよかったんだよ。せめて俺が卒業するまでね」
「…おまえ、自分が何言ってるかわかってんのか?」
「ああ、悪いね、気に障った?すぐに出てくし、あんたはゆっくり昼寝でもしてればいいよ。寮長にはあんたがいなくなるまで戻りませんとでも言っといて」
「――テメェ!」
呆気なく挑発に乗せられた少年は、どこにそんな力があるのか、凄まじい速さで快斗に向かって蹴りを繰り出した。
その思わぬ速さに気後れしながらも、快斗は寸ででその蹴りを受け止めた。
腕の骨をじんと痺れが走る。
凄いのは速さだけでなく、威力も相当あるようだ。
予想外の威力に奥歯を噛み締めて堪えていると、少年の気配が不意に変わった。
それまで年相応の高校生らしい熱さで上気していたかと思えば、突然、まるで老練された大人のような瞳で静かに言った。
「好きにしろよ。おまえの行動は全ておまえに返ってくるんだ。その責任も全ておまえのものだ。俺や、まして寮長の知ったことじゃない」
その挑発に乗せられたのは、快斗の方。
カッ、と頭に血が昇り、長年培ってきたポーカーフェイスがあっさりと破られる。
けれどここで何を言い返しても自分の幼稚さを思い知らされるだけのような気がして、快斗は何も言わずに部屋を出た。
結局制服のまま出てきてしまった。
これでは大したところへは行けない。
けれど今更着替えのために引き返すなど以ての外で、快斗は当てもなく歩き出した。
もうこの寮には戻れないだろう。
入院していたから快斗のことを知らなかったのだろうが、名前を知ったらどうせ彼も同じ反応をするに決まっている。
別にそれはそれで構わない。
むしろもともと関わるつもりもなかったのだから、初めにあれだけ衝突すれば今後干渉されることもないだろう。
全く、転校初日から散々だった。
他の人ならまだしも、わざわざ学校へ行く必要など快斗にはない。
そのことをよくわかっているから学校側も快斗をあまり強く注意することができない。
けれど、よくわかっているのだ。
どうして母親がそうまでして快斗を転校させたのか。
別に快斗だけが辛いわけではない。
快斗が辛いと感じていることに、そして彼女自身周囲の不用意な発言に傷つけられてきただろう。
それでも彼女がこうして快斗を学校という場所に放り込むのは、それは別に勉強させるためではなく、ただ……
「…ごめん、おふくろ」
欲張りは言わない。
たったひとりでいい。
たったひとりでいいから、自分を理解し支えてくれる他人がいれば、それだけで――
自分は己の存在に疑問など持たなかった、のに。
B / T / N
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お寝ぼけ新ちゃん、背負い投げ萌え!笑