7月のデイリリー
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 あれから数週間が経った。
 快斗と新一の仲は相変わらずで、同じ部屋で生活していても口を利くことはほとんどない。
 快斗においては学校にもほとんど出ておらず、たまに出たかと思っても遅刻や早退でまともに授業を受けたことがない。
 学校側もあれやこれやと対策を練ってはいるのだが、退学を切り札に強制しようにも、退学させたいなら勝手にどうぞ、と言った快斗にほとほと手も足も出せずにいる。
 そんなわけで、ルームメイトであり学生会役員でもある新一の元に泣きつきに来る教師は後を絶たなくて。

「あ、新一おかえりー」

 漸く教室に戻ってきた新一に、尚也はパンを頬張りながら手を振った。
 向いの席では平次が三個目のパンに手をつけている。
 新一は二人の間に適当な椅子を引き寄せて腰掛けると、だるそうに溜息を吐いた。

「先生、何やて?」
「いつもと一緒。いい加減うぜえ」
「また黒羽君かー」
「一応あいつに話してはおるんやろ?」
「返事もしねーからほとんど独り言だけどな」

 そう言って新一は半ばヤケクソ気味にパンの袋を破いた。
 職員室に呼び出された帰りに購買で買ってきたパンなので売れ残り品だが、それでも腹の足しぐらいにはなる。

 新一だって、好きでもない相手にいくら説得されたところで気が変わるはずはない。
 それがわかっていながら何度も説得しなければならないなんて一種の拷問だ。
 学校側が自分を頼ってくれているのはわかっているけれど、新一にもできないことはある。
 そこのところをわかってもらおうにも、彼らも彼らで手一杯で、こちらの都合などまるでお構いなしだ。
 工藤新一ならなんでもできる。
 そう思っている連中が多くて困る。

「…工藤君」

 と、廊下から自分を呼ぶ声を聞きつけ、新一は背後を振り仰いだ。
 見れば、両手を組んで扉に背を預けた少女が新一をじっと見つめていた。
 どこか冷たいその視線を受け、新一は一口もパンに口を付けずに立ち上がった。
 どうやら今日は昼食に縁がないようだ。

「工藤?」
「服部、そのパン食っちまっていいぜ。五限までには帰るよ」

 不思議そうに小首を傾げる平次と、笑顔の奥に射るような鋭さを隠した視線を投げる尚也。
 新一はぴらぴらと手を振って教室を後にした。

「いったい何や?」
「さあ?でも心配ないってさ」
「はあ。おまえ、心配性やからなぁ」

 あんま甘やかしたらあかんで、と平次に諭され、尚也は楽しそうに頷いた。





 少女――宮野志保に呼び出され辿り着いたのは、お約束だが屋上だった。
 出入り自由の屋上は安全対策のため緑色の金網で四方を取り囲まれているため、まるで巨大な鳥かごのようだ。
 新一はこの場所が嫌いだった。

「で?親父は何だって?」
「ふふ…工藤君、あの人が嫌いなのもわかるけど、そんな顔しても逆に優作さんを喜ばせるだけよ」
「…うるせえ」

 新一は仏頂面をさらにしかめてそっぽを向いた。

 優作とは工藤グループの現会長を務める新一の父親、工藤優作のことだが、新一は彼と非常に仲が悪かった。
 とは言え、工藤家を一般家庭の基準で考えてはいけない。
 一歩間違えれば犯罪すれすれの親子喧嘩も、優作にしてみれば思春期にありがちなただの子供の反抗だ。
 簡潔に言えば新一などまるで相手にしていないのだ。
 新一にしてみればそれが余計に気に入らない。
 そして志保は、その優作の指示によってわざわざこの学校まで転校してきた、言うなれば優作の手先なのだ。
 彼女が優作側の人間である以上、新一としては彼女ともできるだけ関わりたくないところだ。
 けれど。

「残念だけど、今回は優作さんとは関係ないわ。私の個人的な用件よ」
「個人的な…?」

 この一年、志保とは何度も接触してきた新一だが、優作絡みではない話題など初めてと言ってもいいのではないか。
 にわかに興味が沸いた新一は無言で先を促したのだが。

「貴方、黒羽君と同室なんですってね」

 志保の口から出た名前に再び新一の顔が歪む。
 それを見た彼女は至極楽しそうに笑った。

「噂通り、彼とは仲が悪いみたいね」
「そんな噂流れてんのかよ…」
「黒羽君の貴方に対する態度を見てたら誰だって気付くわよ」

 なんせ、寮のルームメイトとは三年間をともに過ごすのだ。
 その三年間をできるだけ円滑に過ごしたいと思うのは当たり前だろう。
 そのため誰でもルームメイトにはクラスメイト以上に気を遣うし、それゆえどの学生よりルームメイトととの仲が良くなることが多い。
 もちろん、どうしても気の合わないルームメイトと同室になってしまうこともあるのだが……
 学年首席の工藤新一ともなると話は別だ。

 この学校でその名を知らない者はいない。
 下級生にもなると彼が目当てで入学してきた者も決して少なくないだろう。
 それほど工藤グループ御曹子の肩書きは重く、そして工藤新一としての影響力も大きい。

「工藤新一はこの帝都学園のイドラ――偶像よ。彼が貴方を拒絶している間はまだ安全ね」

 意味深なその台詞に新一は目を細める。

「一部の過激な貴方の崇拝者は、貴方のルームメイトである彼の存在をあまりよく思っていないのよ」
「…またあの馬鹿どもか…」

 去年の騒動を思い出し、新一は深い溜息を吐いた。
 一年間一人部屋という大贅沢をしてきた新一だが、なにも初めからルームメイトがいなかったわけではない。
 入学当初はもちろんいたのだが、当時二年生だった新一よりひとつ年上の先輩がそのルームメイトに散々嫌がらせを働いたため、とうとう彼は自主退学してしまったのだ。
 それが去年の七月頃。
 以来、新一にはルームメイトがいない。
 それ自体は何も困らないのだが、また去年のような騒動を起こされてはたまったものじゃなかった。

「気を付けた方がいいわね。貴方のせいでまた退学者が出るようなら、優作さんが黙ってないわよ」

 言うだけ言って、志保はさっさと歩き出す。
 その後ろ姿に新一は訝りながら声をかけた。

「どういう風の吹き回しだ?」

 志保は優作側の人間だ。
 そして優作は――新一を自分の手元へ連れ戻そうとしていた。

 彼女の仕事は帝都学園での新一の動向を逐一報告することで、機会があれば優作はいつでも新一を連れ戻すつもりでいる。
 去年の騒ぎでは尚也が機転を利かしてくれたため事なきを得たが、二度も続くようならさすがに優作も黙っていないだろう。
 優作にしてみれば息子を連れ戻すまたとないチャンスだ。
 なのに彼女が言ったことはまるで新一を助けるような台詞である。

 けれど志保は軽く振り向くと、冷めた瞳に少しだけ楽しそうな光を滲ませながら言った。

「簡単に帰って来られちゃつまらないじゃない」

 ぱたん、と扉が閉まる。
 新一はたっぷり二分ほど立ち尽くし、やがて緩く首を横に振ると、同じく屋上を後にした。










「宮野と尚也って似てるよな」
「馬鹿なこと言ってないで、早くしないと平次帰ってきちゃうよ」

 不自然なくらい自然にさらりと流されて、新一は横に座る尚也をじとっと睨んだ。

 時々思うのだが、志保と尚也はよく似ている。
 口が悪いとか腹が黒いとかそういうことじゃなく、物事を全て自分にとって楽しいか楽しくないかで判断するあたりがそっくりなのだ。
 自分が楽しくなければ誰のどんな言葉にも従わないし、逆に自分さえ楽しければ犯罪すれすれの行為だって平気でできる。
 けれどお互いに同族の匂いを嗅ぎ付けているからだろうか、彼らは非常に仲が悪かった。
 まさに同族嫌悪というやつだ。

「これとこれは新しいやつね。あとこれ、別件でメールきてるんだけど、気になるから読んどいて」

 次々と出される資料に新一は別段苦もなく目を通していく。
 隣でパソコンのキーを叩き続けている尚也も慣れたもので、新一の指示に従いながらこの二ヶ月間で溜まっていた仕事を消化していく。
 この場に平次がいればそのあまりに異様な雰囲気に呑まれていたことだろうが、幸い彼は大会が近いこともあって剣道部に通い詰めだった。

「あ、そういえば」

 急に作業の手を止めた尚也が新一を覗き込む。

「この間の件、先方さんが治療費払いたいって言ってるけどどうする?」
「は?なんで知ってんだ?」
「なんか市警の誰かが口滑らせちゃったらしいよ」
「おいおい、機密事項って言ったのに…」

 はあ、と頭を抱える新一は、答えなどわかりきっているのに聞いてくる尚也を軽く睨み付けながら言った。

「丁重に断わっとけ」
「はーい」

 答えながらキーを打つ尚也は即座にお断りのメールを打ち込んだ。
 その文字は日本語でも英語でもなく、フランス語だったりするのだが。

「それとメールの件だけど、明日にでも行ってくる」
「急ぎの用件?」
「でもないけど、ちょっと気になるんだよ」

 曖昧に言い逃げる新一を、けれど尚也は容赦なく問い詰める。

「…もし危ないようなら行かせないぞ」

 忙しなく動かしていた手を止めて尚也は真っ直ぐに新一を見つめた。
 その顔にいつもの笑みはなく、ともすれば怯んでしまいそうなプレッシャーをかける。
 けれど新一はそれを軽く流すと笑みすら浮かべて不遜に言うのだ。

「俺を誰だと思ってる?」

 たったそれだけの言葉だが、この男が口にすれば何倍もの重みが生まれる。
 なぜなら彼は――

「…了解、シルバー・ブレット」

 尚也は口端を持ち上げると、新一にも負けないシニカルな笑みで言った。

 と、外から聞こえてくる聞き慣れた足音に二人は顔を見合わせると、出していた資料を慌てて仕舞い込んだ。
 時計を見ればそろそろ十時になる。
 延長許可を取っている部の学生が帰ってくる時間帯だ。
 二人がすっかり全てを片してしまった頃、声も大きく「つっかれたー!」と唸りながら平次が入ってきた。

「おかえり、平ちゃん」
「よう。邪魔してるぜ、服部」

 自分の部屋よろしくくつろいでいる新一に平次は力ない頷きを返す。

「もうあかん、毎日こんなんやったら死んでまう」
「剣道部の練習、そんなに厳しいの?」
「帝都は文武両道がモットーやからな…練習も半端やないで…」

 部活やっとらん自分らにはわからんやろけどなあ、と睨まれた二人は、寮長と学生会という肩書きのおかげで免除されているようなものだ。
 別に絶対どこかの部活に入らなければいけないわけではないのだが、ほとんどの学生が部活に入っているため、入っていない者の方が逆に目立ってしまう。
 けれど寮長には仕事が山とあるし、学生会ともなれば、ただの学級委員でさえクラスのあれこれで忙しいのに、更にそれを統轄しなければならない。
 そのためたとえ部活に入っていなくても別段おかしく思われることもなかった。
 ちなみに平次の入部動機はと言えば、もともと幼い頃から剣道を習っていたので勧誘され、そのまま入っただけなのだった。

「ま、疲れてるとこ邪魔しちゃ悪ぃし、そろそろ戻るか」
「おー?用事あったんちゃうんか?俺やったら気にせんでええで?」
「いや、もう済んだし」
「そうなん?ならええねんけど」

 ほなまたな、という声に片手だけで挨拶を返すと、新一は自室へと向かった。
 本当はまだまだやらなければならないことはあるはずだが、尚也のことだから新一の了解が必要な分は最初に言われた二、三件で確認済みだろう。
 あとは尚也がどうとでもしてくれるし、新一は新一で自分のやるべきことをすればいい。
 それにはまず明日にならなければ何もできないのだが……

(問題はどうやって抜け出すか、だな)

 去年と違い今はルームメイトがいる。
 そのルームメイトが真面目に通学してくれさえすれば何ら問題はないのだが、生憎彼は不真面目な不登校児ときた。
 仮病を理由に学校をさぼるにしても証人がいるのではやりにくい。

 どうしたものか、と思考しながら自室のドアを開けた新一は、自分のベッドに胡座をかいてトランプを弄っている快斗を見て目を奪われてしまった。

 右から左、左から右へと、まるで意志を持った生き物のように彼の手元でトランプが踊っている。
 一度手を返せばあったはずのカードが消え、さらに返せばなくなったはずのカードが現れる。
 それ自体は簡単なマジックだ。
 どうしたらカードが出たり消えたりするのか、そのトリックを知っている人も多いだろう。
 けれど彼の手はまるでその知識を裏切るように鮮やかに翻る。
 それは一月や二月、たとえ一年や二年練習したところで手に入れられるような動きではなかった。
 長年、それこそ生まれた時から慣れ親しんできたからこそ成せる業。

「なに見てんの」

 と、こちらに気付いていたらしい快斗が視線も寄越さず言う。

「…別に」

 新一は無愛想にそれだけ返すと、視線を逸らしてベッドへ潜り込んだ。

 あの事件以来、快斗はあまり新一に突っかかってこない。
 相変わらず自分の存在を煙たがっているようだが、十時以降の外出も無断外泊もしていなかった。
 それ自体はルームメイトの自分や寮長の尚也にとってもいいことなのだが、初めにあれだけ言いたい放題言われた新一としては、どういうつもりなのか気にもなろうと言うものだ。

 あの時、彼を捜しに行った先で不良少年に絡まれて、返り討ちにしたところをなぜかその捜していたはずの快斗に目撃されてしまった。
 非常に気まずい場面を見られてしまったにも関わらず、それについて快斗が何も言ってこないのも気になる。
 おかげで新一は彼にどう接していいのかわからず――あんな場面を目撃されては下手に突っかかることもできずに、こんな微妙な遣り取りを繰り返している。

 新一はもう一度だけちらりと快斗を見遣ると、複雑な溜息を吐いて、明日どうするかということに思考を切り替えた。





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平次は新一と尚也の心のオアシス(笑)