7月のデイリリー
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翌日、なんとか七度二分にまで熱の下がった新一は、休めばいいものをそれでも学校へ行くらしく、ごそごそと準備を始めた。
初めは寝たふりでシカトしていた快斗だが、昨夜のこともあってか気になって仕方がない。
もし登校中に倒れでもしたらどうするのか。
結局気になって眠るどころじゃなくなった快斗は、珍しく一限目から登校すべく自分も準備をして寮を出た。
一、二歩という微妙な距離を保って、快斗と新一は並んで登校する。
そこにもちろん会話はない。
新一がいつも連んでいる平次と尚也は、朝練や寮長の仕事の関係で一緒に登下校することはあまりなかった。
そのため新一はいつもなら一人で登校するのだが……
同じ部屋のくせにばらばらに行くのも微妙で一緒に出たはいいが、だからと言って仲良く話せるわけもない。
おかげでこの微妙な距離を保ちながらの登校となってしまった。
前を歩く学生がちらちらと物珍しそうに後ろを振り返る。
二人並んで登校することなどまずなかったのだから当然と言えば当然だ。
しかも、いつの間にか快斗と新一は仲が悪いなんて噂まで流れていて、全く以てその通りだったのだから仕方ないだろう。
快斗は何より見せ物にされるのが大嫌いなのだが、けれど不思議と今、周りの視線は全く気にならなかった。
それより気になるのは――
ちらりと横目で新一を見遣り、昨日ほど顔色が悪くないことに快斗はとりあえず安心した。
確かにこの華奢な体躯には繊細な印象を受けるが、だからと言って病弱などという弱々しい印象は全く受けない。
それにはやはり初対面のあれこれが関係しているのだろうが、それとは別に、彼の見せる眼差しが少しも揺るがない力強さを秘めているからなのだとも思う。
けれど昨日倒れたのも事実だ。
寝不足だなんだと言っていたけれどどこまで本当か疑わしいものだった。
校舎に入り階段を上って廊下を渡る。
そしてようやく教室まで辿り着いた快斗は、まるでいつもの倍以上時間がかかったような気がした。
別に「一緒に登校しよう」と言って出てきたわけでもないのだが、快斗より二つ隣の教室に向かう新一が遠慮がちにちらりと振り返った。
快斗も扉に手を掛けたまま足を止めてしまったため、再び微妙な沈黙が流れる。
「…しんどくなったらとっとと帰れよ」
結局うまい言葉も見つからなくて、快斗はそんな、我ながら可愛くない台詞を言い捨ててさっさと教室に入ってしまった。
何をそんなに動揺しているのか。
昨日からどうもやってることがめちゃくちゃで、快斗は我知らず溜息を零した。
授業が始まるまでにはもう少し時間があったけれど、することもないので大人しく席に着く。
と、快斗より先に着席していた、快斗の前の席の少女が話しかけてきた。
「一緒に登校だなんて、ようやく工藤君と和解したのかしら?」
冷めた瞳にからかうような笑みを口元に浮かべている少女の名前は宮野志保。
転校してからこっち何かと快斗にちょっかいを出してくる、快斗にしてみれば苦手な少女だった。
「…別に喧嘩してねえし、だから和解もしてねえよ」
「あら、でも、あんなに彼のこと拒絶してたじゃない」
「…」
黙り込む快斗を志保が楽しそうに見遣る。
けれどその笑みを浮かべたまま、彼女は物騒な台詞を吐いた。
「気を付けなさい。彼と親しくなるということがどういうことか、きっとすぐに思い知ることになるわ」
そんな予言を頂いたからだろうか。
「二年B組の黒羽快斗だな?」
突然わらわら現れたかと思えば行く手を阻むように自分を取り囲んだ彼らを、快斗は特に興味もなさそうに見遣った。
お昼休み、購買で適当に買ったパンを片手に渡り廊下を歩いていたところ、全く見覚えのない連中に絡まれた。
おそらく三年生だろう、快斗を見下すように睨み付けてくる。
眼鏡をかけたいかにもエリート風の者から自己陶酔型の気があるいかにも遊んでそうな者までと見た目はまるでばらばらだった。
昔から同学年の連中には敬遠されてきた快斗だが、ある種のこうした連中にはやたら好かれてもきた。
と言うのも、馬鹿高いIQと名前ばかりが先走って、こちらのことなどよく知りもしない一部の馬鹿な連中が絡んでくることがままあったのだ。
彼らにしてみれば暇潰しのようなものだったのだろうが、生憎それにいちいち付き合ってやるほど快斗はお人好しでもない。
その都度御礼代わりの蹴りをプレゼントして引き取ってもらってきたのだった。
快斗が無言でいると、先ほど話しかけてきた茶髪少年が再び口を開いた。
「おまえ、工藤のルームメイトだそうだな」
「…それが何か?」
工藤の名前に快斗の眉がぴくりと動く。
「工藤の前のルームメイトがどうなったか知ってるか?」
「…」
「三ヶ月も経たないうちに退学したぜ」
愉しげな笑いを零しながら語る少年に、ここにきて快斗の興味は完全に失せた。
何かと思えば、よりによって自分を脅そうだなんて。
身の程知らずも甚だしい。
どうやら彼は新一のことが余程気に入っているらしく、終いには彼のルームメイトに自分がどれほど向いているか、自分でないのならいっそルームメイトなどいない方がいいとまで言い出した。
これにはさすがの快斗もうんざりだった。
それに、なぜかわからないが、話を聞いているうちにムカムカと腹が立ってきた。
快斗は軽く俯きながら溜息を吐くと、さっさと話を終わらせることにした。
「…で、結局あんたはどうしたいわけ?」
額に押し当てた手の隙間からちらりと視線を向ければ、僅かに怯んだ少年の喉がこくりと鳴る。
不機嫌さを隠しもしない快斗の目には剣呑な光が浮かんでいた。
まるで虎に睨まれた鼠。
それほどに彼の劣勢は明らかだった。
けれど快斗が何かを言うより先に唐突に現れた第三者によって、凍るようなその場の空気は拡散してしまった。
「――懲りない人ですね」
そう言いながら現れたのはなんと尚也で、きょとんとしている快斗を除き、その場にいた者たちの顔色が一気に蒼くなった。
「か、川嶋…っ」
「言ったでしょう、三宅先輩。あいつの邪魔になる人には、俺、手加減しませんよ?」
「お、俺は別に、その…」
「先輩がいらないことをしてくれる度にあいつにどれだけ負担が掛かってるか、知らないでしょう?」
尚也は終始穏やかな口調で笑顔を浮かべてはいたけれど、その内心が正反対であることは子供でもわかる。
まるきり怯えてしまった哀れな彼らをちらりと見遣るが、快斗は少しも同情してやる気持ちなど起きなかった。
「まあ今回は未然ってことで目を瞑ります。でももし続くようなら、覚悟しといて下さいね」
最後ににっこりスマイルまでサービスして、尚也は快斗の手を掴むとゆっくりとその場を離れる。
声もなく立ち尽くす少年たちを残し、二人は校舎へと消えた。
渡り廊下を過ぎて中庭に差し掛かった頃、それまで大人しく引かれていた快斗が足を止め尚也の腕を払う。
同じく立ち止まった尚也が向き直り、そこでようやく二人は向かい合った。
快斗が胡散臭そうに尚也を睨み付ける。
「なんだ、あれ」
その睨みをものともせず、尚也は相変わらずの笑みで言った。
「なにって、ああ、別に黒羽君を助けたわけじゃないよ」
助ける必要ないもんね、ととぼける尚也に快斗はさらに詰め寄った。
「前のルームメイトってなんだ」
「…聞かない方がいいと思うけど?」
「いいから話せ。あいつら俺に用があるんだろ?今ので納得したとも思えねえし」
「……確かに」
脅して済むようなら、去年のあの騒動の時に散々思い知らせてやったのだから、二度とそんな気など起こさないはずだ。
けれど新たにルームメイトが現れて、彼らはまた同じことを繰り返そうとしている。
新一のルームメイトである快斗は知っておく権利も必要もあるだろう。
尚也は渋々――面倒くさそうに話し出した。
「新一の前のルームメイトは、頭もよくて顔もよくて、実家もそれなりの企業を経営してたんだけど、入寮直後から一部の三年連中にいびられて、たった三ヶ月でやめちゃったんだ」
「入寮直後から?俺は何もされてねえけど」
「だって黒羽君と新一、仲悪かったでしょ?でも前のルームメイトの子は新一と同室になって浮かれまくってたから」
先輩方としては面白くなかったんじゃない、と尚也は続けた。
「いびられたって、具体的に何されたんだよ」
「…聞きたい?」
不意に笑顔を消した尚也が静かに言った。
いつも笑っているだけにその表情には見ているだけで気圧されそうな気迫がある。
それに間髪入れずに頷きを返すと、
「――殺されかけたんだよ」
そう言った尚也の目には何の感情も見えなくて、快斗はその表情の裏にどれほどの激情が隠されているかを知った。
「正確には全治半年くらいの怪我なんだけどね。一歩間違えれば確実に死んでた。もちろん新一は警察に届けようとしたよ。あいつは何も悪くないけど、あいつのせいで事件が起きたようなもんだからね。……だけど俺が全部隠した」
使える限りの力を使って事件そのものを揉み消した。
証拠も何もかも揉み消して、先輩方にはきついお灸を据えて、被害者の家族にも半ば強制的に示談で済ませて頂いた。
おかげでその件は表沙汰にならずに済んだのだが……
「新一ってばすごく怒っちゃって、しばらく口も聞いてくれなくて困ったよ」
そう言って尚也はいつもの笑みを浮かべた。
「新一は良くも悪くも偶像なんだ。それは不可侵でなくちゃならない。だから彼には信頼できる相手が少ないし、そういう相手を作らないよう自分から避けてもきた。君と平次ぐらいだよ、昔からの付き合いでもないのに新一が素顔を見せてる相手なんて。下手に親しくすればすぐ誰かに潰されちゃうからね」
ああ、だから、彼は「工藤新一」という仮面を被るしかなかったのだろうか。
不意に快斗は新一がなぜあんなにも裏表の激しい性格になってしまったのかわかったような気がした。
あの外面は、必要以上に自分に踏み込ませないための防壁なのだ。
事実、尚也と平次以外に新一と親しい者など快斗は思いつきもしなかった。
その孤独は決して知らない感情ではなかった。
なぜなら――快斗もいつだって独りだったから。
「君は新一の隣に立つことができる?」
尚也と新一の間に何があるのか、快斗は知らない。
けれど彼がわざわざ仲裁に入ったのは、あの言葉通り自分を助けるためではなく、他でもない新一を助けるためだったのだ。
もし同じ事が続くようならさすがに学校側だって黙っていないだろう。
最悪、退学すら考えられる。
そうさせないために彼は全てを揉み消して、或いは寮長の立場を利用して新一のルームメイトを入れてこなかったのかも知れない。
人の気持ちがわからない奴はクズだと思う。
そしてそれを知ろうともしない奴はクズ以下だ。
言葉ひとつ視線ひとつで、人なんていくらでも傷付けられる。
(でも、あいつはいつだって俺を真っ直ぐ睨んできた)
思い出すだけで憎たらしい、けれどこの上なく深く心に残る眼差し。
そこに物珍しさやまして怯えなど少しもなくて、快斗は彼を突っぱねながらもどこか気になる感情を消し去ることができなかった。
彼が見ていたのはIQ400の天才児ではない。
彼はいつだってありのままの快斗を見つめていた。
その瞳にも、昏い哀しみが滲んだのだろうか。
「…少なくとも俺はあの程度の連中にやられたりしないね」
その答えに尚也は満足そうに笑みを深めた。
黒羽快斗をなめてもらっちゃ困る。
IQ400は伊達ではないし、何より快斗にはそれにも勝る身体能力がある。
昔から父親について世界各地を巡ってきたけれど、その全てが安全な国ではなかった。
時には父の名に吊られた連中に襲われたことすらあった。
その甲斐あって、今ではどんな連中に絡まれようと誰も快斗には敵わない。
たかが一高校生がどれほど束になってかかってこようが、銃を持った誘拐犯すら凌いできた快斗の敵ではなかった。
「三宅先輩のことだからきっとまた何か仕掛けてくるだろうけど、病院送りは御免だからね」
それは快斗に言っているのか、それとも三宅に言っているのか。
どちらにしろ厄介な話だと、快斗は面倒くさそうに、けれど幾分楽しげに肩を竦めた。
B / T / N
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アイドルだけど、彼はおキレイなだけじゃありません。