7月のデイリリー
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 濃紺のジーンズにシャツと薄手のアウター一枚という、なんともラフな格好で快斗は寮を出た。
 もう五月も終わるとは言え夜になれば幾分肌寒い。
 そろそろ七時になるが、新一はまだ帰っていなかった。
 いつもなら夕方には寮に戻っているはずが今日に限って遅く、快斗にとってもその方が都合がよかった。
 何せ、これから喧嘩に行こうと言うのだから。
 相手が犯罪を何とも思わない連中なのだから喧嘩という表現はあまり正しくないが、快斗にしてみれば大差なかった。

 電車で二十分、八つ目の駅を降りて五分も歩けば指定された店のある界隈に着く。
 商店街や娯楽通り、歓楽街とは異なったこの雰囲気に、普通の人なら危険を感じて近寄ることなどまずしないだろう。
 ここを訪れるのは彼らの関係者か、或いは分別のない無知で愚かな若者だけ。
 けれど、その界隈に大した感慨もなく快斗は足を踏み入れた。

 指定された場所はもう少し進んだ先にある飲み屋。
 まだ時間に余裕はあるけれど別にぶらつきたいところもなかったので快斗は真っ直ぐその飲み屋へと向かった。
 建物と建物の間の暗がりにはところどころ人がいるところもあり、何やら怪しげな遣り取りをしていたり人目も憚らずじゃれ合っている男女の姿があった。

 その全てを無感動に眺めていた快斗は、突然視界に入ってきた信じられない光景に目を瞠った。
 あまりの衝撃に手足は硬直している。

 そこには、どこでどうしてそんなことになったのか――新一が立っていた。

 汚れて色落ちした灰色の壁を背に腕を組んで直立している新一。
 彼の周りには四、五人の男が彼を取り囲むようにして立っているが、どう見ても絡まれているようには見えなかった。
 男たちはそれぞれ新一よりずっとがたいがよく、眉間に深く刻まれた皺が作り出す渋面は重々しい。
 似たような黒いスーツで身を固めた彼らはいかにもやばそうな連中だ。
 けれど全ては真剣な眼差しで腕を組む新一の前に霞んで見えた。

 彼は男たちに溶け込むように上下黒のスーツをなんともだらしなく、またそれが何とも慣れた風に着崩していた。
 変装のつもりなのか、やや大きめの黒縁眼鏡が彼の人相を変えている。
 それは容姿が容姿なだけにまるでどこかのホストのようにも見えたが、彼を取り囲む強面の男たちのせいでやくざの若頭のようにも見えた。
 おそらくぱっと見ただけでは誰もあの工藤新一だとは気付くまい。
 ルームメイトである快斗ですら初めは気付かなかったくらいだ。
 まして、工藤グループの跡取りだなどと言われれば母親あたりが倒れてしまうだろう。
 それほど彼は自然にその場に溶け込んでいた。

 いったいどうしたものか。
 快斗は頭を抱えた。
 こんな場所では声を掛けるのも憚られる。
 だからと言って見て見ぬ振りもできず硬直していると、不意に後ろからぐっと肩を掴まれた。

「…三宅坊ちゃんのお客だな?」

 振り返れば、昼間三宅の傍らに立っていた、しかも快斗の鞄を蹴飛ばしてくれたあの男だった。
 相変わらず嫌な笑みを浮かべた口元がだらしなく歪んでいる。
 快斗はちらと新一を振り返った。
 彼はまだこちらに気付いていない。
 それだけ確認すると、男に連れられるまま快斗は界隈を進んでいった。










「…では、お話した通りにお願いします」

 ぐるりと囲む強面の男たちに新一が念を押すと、彼らはおのおの真剣な顔つきで頷いた。
 彼らは確かに厳つい顔をしているけれど見る者が見ればわかるだろう。
 それが犯罪を犯す者の目なのか、それとも犯罪を取り締まる者の目なのかが。

「ところで、」

 五人の男のうち、一番左端にいた男が口を開いた。
 ぱっくりと開いたカッターの下には、鎖骨の上、首の根本から胸の中心にかけて凄まじい切り傷がある。
 とても丁寧とは言えない縫合の跡まで見て取れて、大抵の者ならその傷を見ただけで怯んでしまうことだろう。
 しかも、この中で最も年を重ねた彼の強面は威厳に満ちている。
 その彼がどこか姿勢低く新一に話しかけている様子はとても奇妙だった。

「最近入ったばかりのうちの若い連中が何かまた下らねえことをしているようなんだが、あいつらにも知らせた方がいいだろうか?」
「いえ…なるべく身内だけに留めましょう。不自然に思われては元も子もありませんから」
「そうだな」

 確かに、と納得したように頷く男に、今度は新一が尋ねた。

「その下らないことと言うのは何かご存知ですか?」
「なに、遊びみたいなもんだ」

 強面を更にしかめる男は軽く頭を振った。

「懇意にしている社長の息子ってのが、いかにも遊び好きのやんちゃなガキでね。親の力を自分の力と勘違いしては、うちの若いのを連れて悪さしやがる。あいつらもあいつらで小遣い貰えるもんだからって、その馬鹿息子の我侭に付き合ってるそうだ」

 今日の昼間も二、三人連れてどこかに行ってたようで……

 そう言った男は、この界隈を仕切っている松岡組の頭だった。
 胸の傷は組同士の抗争が激しかった頃に受けたもので、今でこそ勲章みたいなものだが、当時は生死の境を彷徨うほどの痛手だった。
 もちろん病院など行けるはずもなく、だからと言ってもぐりの医者では設備に限界がある。
 その時彼の救命に深く関わったのが当時十五歳の新一だ。
 以来、松岡組組長である彼、松岡厳は新一に頭が上がらないのだった。

 と、突然硝子が砕け散るような音と物が壊れる音、何かが転がる音などが聞こえてきた。
 全員が音のした方へと振り返る。
 松岡が低い声で言った。

「ちぃ…外ならまだしも、内でまで騒ぎを起こしやがって…」

 今この時に騒ぎを起こす者と言えば若い連中でしかない。
 古株連中の動きは全て新一の頭の中に刻み込まれている。

 いち早く動いたのは新一だった。

 騒ぎが大きくなればこの一ヶ月の苦労が全て水の泡になる。
 それはもう新一ひとりの問題ではない。
 それだけはどうしても避けなければと、騒ぎの現場へ新一は正確に走って行った。
 その動きは病人の、まして病弱だなどと言われる者のそれではない。

 後に残された大人五人は出遅れながらも慌てて新一の後を追った。





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今回はちょっと短め。
オリキャラ二号の松岡厳さん。粋な親父は大好きだ!