7月のデイリリー
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 軽く避けたついでに足を引っかけただけなのに、男は盛大に棚へと突っ込んで行った。
 ずらりと並べられていた高価な酒が無惨にも落ちて割れていく。
 赤いのか透明なのか、混ざり合った液体はもう何か分からず、ただアルコール独特の香りを部屋中に立ち込めさせた。
 それを見て「あ〜あ、勿体ない」と呟いた快斗に、その場にいた男たちの顔はみるみる怒りに歪む。

「てめえ、やりやがったな!」
「はあ?そいつが勝手に蹴躓いただけだろ?」

 大人しく殴られていればいいものを、たかが十六、七歳の子供相手に大の大人が手も足も出ないのでは、末端とは言え松岡組の者としての面子がたたない。
 男たちは当初の目的も忘れて本気で快斗を潰しにかかった。

「たたんじまえ!」

 その声を合図に次々飛びかかってくる男たちを、快斗は冷静に見据えていなしていった。
 逆上した相手ほど扱いやすいものもない。
 怒りに気を取られすぎて思考力は落ちているし、何より行動が読みやすい。
 動きがいちいち大振りになるのでそれを防ぐ余裕が充分にできるし、下手をすれば猪突猛進で本能のまま突っ込んでくる単細胞もいる。
 こんな安易な挑発に引っ掛かってくれるのも相手がまだ若いからだろう。
 これが場慣れした熟練の玄人ともなれば話は別だが。
 とは言え、高が十やそこらしか快斗と年の変わらない相手では話にならない。

 振りかぶった手を掴まえて背負い投げ、蹴られる前に鳩尾にきつい一発。
 首を狙ってくる相手には身を屈めて下から突き上げ、背後を狙われればくるりと回って蹴り飛ばす。
 その縦横無尽な動きは木の葉のように捕らえようもなく、与えられる一撃一撃は鉛のように重い。
 まるで三百六十度全て、むしろ、次にどう動くかが見えているようなその動きには誰もついていけなかった。

 実際、快斗には見えていた。
 ただ後ろに目があるとかそういうことじゃなく、気配や空気の流れを読みとる能力、つまり第六感が人より優れているのだ。
 加えて、その知能指数の高さ。

 快斗のIQは幼少時から少しも下がることなく今なお測定不能の馬鹿高い数値を有していた。

 目で見て、耳で聞き、第六感で捉えた情報全てを一瞬で変換し、次に起こることをまるで見ているかの如く予測する。
 それは――昔から幾度も危険な目に遭ってきたがゆえの、快斗の哀しい習性だった。

 息ひとつ乱さず涼しい顔をした快斗とは対照的に、息も切れ切れであちこちに傷をこさえた男たち。
 それでも彼らはしつこく粘る。
 前方から男が真っ直ぐに突っ込んできた。
 こういう突進型は素直に受け止めためせず、避けてその背中を軽く押すだけで相手は勝手に沈んでくれる。

 すっと体を左に傾けその直撃を免れようとして――
 まるでサッカーボールのように男が飛んでいくのを、快斗は見た。

 奥のカウンターにぶつかった男は小さく呻いて床に転がる。
 おそらくぶつかった衝撃で口の中でも切ってしまったのだろう、口からは血の混じった泡を吹いている。
 彼はすでに気を失っていた。
 ただの一撃ですっ飛ばし、その上気絶までさせてしまうとは。
 いったい誰だと振り返った快斗は、またしても目を瞠り硬直してしまった。

「――黒羽っ?」
「……工藤」

 新一が吃驚したように目を瞠った。
 快斗はうんざりしたように肩を落とした。

「な、なんでおまえがこんなとこ…っ」
「…そりゃこっちの台詞だっての。あんたの方こそ、なんで早退しといてそんな格好でこんなとこうろついてんだよ」

 新一は珍しく焦っているようだった。
 それもそうだろう、こんな決定的な場面を見られては言い訳のしようがないし、簡単に説明できるものなら初めからこそこそ隠れる必要もない。
 彼は体調不良を理由にここ連日学校を早退している。
 けれど彼が度々学校を抜け出していた本当の理由は体調不良などではなく、この件に関係があると見てまず間違いないだろう。
 こうなると主治医云々も怪しいものだ。
 視線を逸らして考え込んでしまった新一を快斗は胡散臭そうに見た。

 思えば、彼とはこんな邂逅ばかりしている。
 大体出逢ったその日からおかしいとは思っていたのだ。
 病み上がりの男が出会い頭に一本背負いを見舞ってくれた挙げ句、絡んできた相手を逆にぼこぼこにして泣かしていたのだから。
 そんな男が秀才で体の弱いエリートだなんていったいどこの誰が信じると言うのか。

「てめぇ、一人で来いっつったのに助っ人連れてきやがったな!」

 と、鼻から血を流した男が目の端にうっすら涙を浮かべながら怒鳴った。
 上擦った涙声ではどんなに凄んでも迫力がない。

「あのなぁ…俺ひとりでこの様なのに、助っ人呼ぶ必要なんかねえだろ」
「う、うるせえっ!三宅の坊ちゃんが黙ってねえからな!」

 けれど、それに反応したのは新一だった。

「…三宅、だって?」

 その声だけで室内の温度が二、三度は下がっただろうか。
 それまでの動揺もどこへやら、すっかり事情の呑み込めたらしい新一は快斗の前に歩み出た。
 自分よりずっと年下の体格もずっと貧弱な少年に、けれど男は呑まれてしまって声も出すことができない。
 まるで庇われるような体勢にむっとしたのは快斗だが、

「これは三宅の仕業か」

 そう言った声のあまりの低さに口を挟むことができなかった。

「こいつが俺のルームメイトと知ってて手を出したのか?」
「な…っ、知るか!ただそいつを潰せって言われただけで…」
「おいおい、少しは頭を使えよ。おまえのここは空っぽなのか?潰せと言われて、はいわかりました、なんて今時ガキでもやらねえぜ」

 新一は軽く鼻で嗤いながら人差し指でこめかみをとんとんと示す。
 明らかに挑発しているその態度。

 新一は――怒っていた。
 尚也にあの話を聞いていなければ快斗にもただ新一が挑発しているように見えたかも知れない。
 けれど新一には、前のルームメイトを、方法は違えど同じようにして傷付けてしまった過去がある。
 それはもちろん新一のつけた傷なんかではないけれど、新一が原因である事実は否めない。
 それゆえ彼は同じことを繰り返そうとしている三宅が許せないのだ。

 だが鼻血男の理性は挑発めいたその言葉の前に呆気なくぶち切れる。

「この――!」

 足下に散らばっていた瓶の欠片を掴む。
 ナイフのように、とは言わないが、それでも人間の肉を貫くには充分な得物だ。
 乱暴に掴んだせいで硝子の端が指に突き刺さったが、男に気にした様子はない。
 逆上したあまり痛みにも気付かなかったのだろう。
 そのまま男は新一へと突っ込んでくる。
 しかし新一は微動だにせず、慌てた快斗が咄嗟に彼の前に飛び出し男をねじ伏せようとした、その瞬間――

「――やめろ、馬鹿者がっっ!」

 びりびりと鼓膜を打ち震わせる怒号が響き、びくっと体を竦めた男は手にしていた欠片を床に落とした。
 見れば、店の入り口に何とも強面の壮年の男が立っていた。
 軽く六十は超えているだろう彼のどこにそんな力強さが隠れているのか。
 続いて入ってきた同じく強面の男たち。
 何事だろうかと思った快斗は、それが先ほど新一を取り囲んでいた者たちであることに気付いた。

「いいか、おまえら全員よく聞けよ」

 気絶している者を除き、彼の声に男たちは必死で耳を傾けた。

「おまえら新入りは知らねえだろうが、古株や幹部連中はようく知ってる。この人には、たとえ死んだって手を出すな。もし手を出そうもんならうちの組のもん全員黙っちゃいねえ。もちろん、この俺もだ」

 鼻血男は今や床に手をついてまるで土下座でもしているような格好である。
 彼がどこの誰なのか快斗には見当が付かなかったが、似たような体勢の男たちが一斉に「はい、組長!」と返事をしたため、彼がこの界隈を仕切るやくざ組の頭であることを知った。
 最後の意地で表情は取り繕ったものの、快斗は驚きすぎて声も出ない。
 なぜ新一はやくざの組長なんかと知り合うことになったのか、しかも、なぜその男に慕われているのか。

「工藤さん、その人はあんたの知り合いなんだろ?」
「ええとその、…ルームメイトです」

 新一が気まずそうにこちらを見た。
 何しろ快斗は何の事情も知らないのだ、さすがに拙いと思っているのだろう。
 けれどひとり陽気な組長はこの惨状を見ると、吹けないからだろうか、「ひゅー」と口笛を真似ながら言った。

「相変わらず容赦ねえなあ、工藤さんは」
「…俺がやったのはあそこで伸びてる男ひとりだけですよ」
「へえ?てことは、こいつらほとんど伸しちまったのはあんたか!」
「はあ…まあ…」

 いきなり話をふられても快斗は曖昧に頷く外ない。
 やくざの組長相手にどう接していいのかわからず、だからと言って自分の信条的にへりくだって話すのも御免だ。
 すると、彼は強面を思いっ切り愛嬌のある笑顔に変えて、快斗の肩をばしばしと叩きながら言った。

「若いのに感心だな!どうだ、あんた俺んとこの組に入らねえか?」
「松岡さん…彼は一応俺のルームメイトなんで、勘弁して下さい…」
「そりゃ残念だな。本当は工藤さんも誘いてえんだが、あんたには別なお勤めがある。さすがに俺が独り占めするわけにはいかねえ」

 松岡は至極残念そうに苦笑した。
 別なお勤めとは何だろうかと快斗は首を傾げる。
 けれど、それを尋ねる間もなくどこかからヴヴヴ…と低い振動音が聞こえてきて、次の瞬間松岡の表情は再び厳めしく引き締まった。
 周りの男たちも表情を改める。
 新一は「しっ!」と唇の前で人差し指を立て、取り出した携帯に素早く応答した。
 けれど二、三言葉を交わしただけで通話はすぐに終わった。

「…松岡さん」

 新一が視線を投げれば、それを受けた松岡がこくりと頷き無言で店を出ていく。
 後の男たちもそれぞれ新一と視線を合わせた後、松岡に続いて店を出て行った。
 残ったのは新一と快斗、そして快斗に絡んでいた男ども。

 新一は快斗を真っ直ぐ見据えると怖いぐらい真剣な目で言った。

「おまえはここを動くな」
「…素直に聞くと思ってんの?」
「俺が言ってるのは警告じゃない、命令だ」
「なんの権利があって、」

「――おまえら!」

 快斗を飛び越え、転がっている男たちに向かって新一は声を張り上げた。
 男たちはびくっと肩を竦ませると大慌てで立ち上がった。
 カウンターの手前で気絶している仲間を蹴り飛ばしたのが目の前の少年であることを彼らは充分認識している。
 しかも相手は自分たちのお頭だとて決して手を出さない相手だ。
 つまり下っ端の彼らは新一に従わなければならない。
 それ以前に、この声、この瞳を前に逆らえる者がいるならお目に掛かりたいものだ。

「おまえら、俺が戻るまでこいつを捕まえとけ。そしたら今回の件はなかったことにしてやる」

 もし失敗したら、その時は――

 皆まで言わず新一はただ笑みを刻んだ。
 ニィ、と口角を吊り上げる様はこんなにも憎たらしいのに、どうにも憎めないその表情。
 こちらが反論する間もなく新一はさっさと店を後にした。
 快斗は慌てて後を追おうとして、けれど背中に飛びついてきた男たちのせいでそれも叶わない。

 彼らも必死だった。
 なりふり構わず快斗の背中に、腕に、足に、腹にとしがみついて、どんなに払っても払ってもまるできりがない。
 終いには遠慮容赦なく殴りつけたり蹴り飛ばしだした快斗だが、それでも彼らは執念で腕を離さなかった。
 このしぶとさはいったいどこから来るのか。
 組長の統率力か、或いは新一の脅しが利いたのか、それとも……

「工藤さんの命令だ、死んでも逃がすんじゃねえぞ!」
「あの人の期待に応えるんだ!」

 そう口々に叫ぶ男たちに、快斗は否応にもその理由を知った。

 工藤新一は偶像なのだと尚也は言った。
 まさにその通りだと思う。
 ただそれは見せかけなどではなく、確かにそう成りうる何かがあったからこそ、工藤新一は偶像となったのだ。

 少年のようでいて、大人のようでもあり。逞しくありながら、脆さも内包している。
 善でもなく悪でもなく、白でもなく黒でもない。
 彼は全てにおいて中庸だった。
 全てにおいて、何ものにも染まらなかった。

 それは、陰と陽で支配されたこの世界ではあまりに特異な存在。

 だからだろうか、彼はたった一瞬で荒くれた男どもを従えてしまった。
 帝都の連中ばかりかあんな一癖も二癖もある尚也でさえ従えてしまった。

 そしてこの自分までも、彼は捕らえてしまったのだ。

(…上等だ)

 快斗は筋金入りの人間不信だ。
 不信と言うよりは嫌悪に近い。
 自分を見る誰も彼もが嫌いだったし、何よりそんな自分が大嫌いだった。
 なのに、不思議と新一に対する時だけは違った。
 どんなに悪態を吐こうとも、どんなに対立しようとも、彼の前にいる時だけは偽りのない自分でいられた。

 そしてそんな自分が、快斗は決して嫌いではなかったのだ。

「おまえら、邪魔すんじゃねえ」

 腹に腕をまわしていた男と視線がかち合う。
 すると男の肩は大袈裟なほどびくっと跳ね上がった。
 あんなにも必死で掴んでいた手でさえ微かに震え、一秒ごとに確実に力が緩くなっていく。
 大の大人が、それも並の人間よりずっと胆が据わっているはずの男が情けない、と思われるかも知れない。
 けれど彼の立場に立たされれば、おそらく誰もが同じ反応を返しただろう。

「…好きな方を選べ」

 快斗は今や笑みさえ浮かべている。
 それが一層彼らの恐怖心を煽る。

「今、俺に殺られるか、後で工藤に殺られるか。…言っとくけど、俺は工藤ほど甘くねえぜ?」

 その言葉が決定打だった。
 快斗に回された腕は次々に離れ、ついに自由になった快斗は、妙に畏まった男たちに見送られるような形で店を出た。
 中には床に手をつけて土下座している者までいて、と言うのも運悪く快斗と視線を合わせてしまった彼なのだが、なんだかちょっと涙ぐんでいる姿はひどく哀れだ。





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俺様新一、我が道を行く(笑)