7月のデイリリー
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 快斗が店を出てすぐに感じたのは違和感だった。
 数分前に通った時と景色は何一つ変わらないのに空気だけがぴりぴりと緊張している。
 これはひとりのものではない。
 大勢の緊張がこの場に張りつめていた。

 気付けば、人影がない。
 通路のど真ん中に座り込んでいたチンピラも、端の方で話し込んでいた連中も、いつの間にかどこかへ消えてしまったようで、ここには快斗の姿しかなかった。
 しかも気配だけが充満していて、それが余計に奇妙さを煽る。

 すると、訝りながら歩いていた快斗は、不意に伸びてきた腕によって捕らえられてしまった。

 抵抗する間もなくその腕は強引に快斗を物陰へ連れ込む。
 不意を付かれたにしても何の抵抗もできずに捕らえられてしまうなんてと、快斗は目を瞠った。
 がっしりした男の手は新一のそれとは似ても似つかない。
 快斗はすぐに抜け出そうとして、けれどがっちりと腰に回された腕から抜け出ることはできなかった。
 相手を確かめようにも首を回すこともできず、顎に指を添える形で右手に口元を覆われているため、声を出すことも口を開けて噛みつくこともできない。
 とうとう我慢の切れた快斗が見えない敵の腕を掴んで飛び上がり、その反動で背負い投げようとして……

「――大人しくできないなら、眠らせるよ?」

 左耳のすぐ後ろで聞こえた声に快斗は抵抗の手を緩めた。
 その声が誰のものか、快斗はよく知っていた。
 あの小柄な体のどこにそんな力があるのか知らないが、彼はあの工藤新一の友人だ。
 普通の人ではありえない何かを隠していても不思議じゃない。
 むしろその方が納得できるくらいだ。

「…寮長」
「や♪」

 声の主は――川嶋尚也だった。
 こと工藤新一に関しては全く容赦のない男。
 普段から笑顔の絶えない彼だが、ひと度新一に害しようものなら、その笑みはまるで般若の如く凄みを増す。
 いつもは温厚(を装っている)だけに怒らせれば何よりも恐ろしい相手、それが帝都における川嶋尚也のイメージだ。

 快斗が大人しくなったと知ると、尚也は拘束していた手を緩めた。
 ようやく窮屈な体勢から解放された快斗は軽く首を振り、あらためて尚也へと向き直る。
 彼は全体的に黒っぽい私服に着替えていた。
 黒のジーンズに、上は首元のゆったりした七分袖のシャツ。
 肘のあたりで軽くめくられた袖からのぞく腕は、確かに先ほど快斗を捕らえていた腕だ。
 普段は制服の下に隠れてわからないけれどこうして見ればよくわかる。
 筋肉隆々…とまではいかないまでも、小柄な割りにがっしりした腕には鍛えてきた者の逞しさがある。
 尚也が空手の全国大会優勝者だと知らない快斗は、それでも彼が何かしらの武術に長けているのだろうと思った。

 けれど快斗はその男相手に恐れるどころか呆れ返りながら言った。

「あんたと言い工藤と言い…こんなとこで遊んでていいのかよ」

 尚也は一流企業の社長令息、新一は大財閥の御曹子。
 快斗と違い、彼らはその言動ひとつで家の名を貶めることもある。
 言わば、背負っている責任の重さが違うのだ。
 そんな男が二人も揃ってこんなやくざのうろつく界隈で何をしているのか。
 すると尚也はいつものように笑みを浮かべながら、けれどどこかいつもと違う笑みで言うのだ。

「…新一は遊んでなんかいないよ」

 その静かな口調にはどこかあの新一が見せた老練された瞳と似た気配があった。

「君は知らなくちゃならない」
「…知るって、何を?」
「工藤新一がどういう男なのかを」

 尚也は快斗の隣を通り抜けると表へ出て歩き出した。
 何を言われたわけでもないけれど、その背中で「ついて来い」と言われているのがわかり、快斗もその後へと続いた。
 相変わらず空気はぴりぴりと緊張しているけれどもう気にもならない。
 その原因が――なぜかわからないけれど――新一だろうことが分かったからだ。

「遅かれ早かれ、俺も新一も君にはばれるだろうと思ってたんだ。何たってルームメイトだし。でも、前のルームメイトだったら俺たちもその心配はしなかった。だけど君は違う。君は――たぶん初めから気付いてた」

 何を、と口を挟むことを快斗はしなかった。
 尚也が何を言いたいのか、頭ではなく感覚で理解していた。

 工藤新一という男にいつも感じていた違和感。
 何がどうだと言葉で言い表すことはできないけれど、ずっと感じていたそれ。
 何か快斗など思いもよらないものをひた隠しにしているようで、ずっとすっきりしなかった。
 それが――今ならわかるのだろうか。

 連れられるままに進んでいくと二人は小さな広場に出た。
 広場と言っても直径十メートルもないような狭い広場で、四方に通じる通路をのぞいて建物にぐるりを囲まれたその空間は余計に狭く感じる。
 その中心には小さな噴水があり、その前にひとりの男が蹲るようにして座り込んでいるのが見えた。
 そしてその男を見下ろすように立っている――新一。

「あれが、工藤新一だよ」

 聞こえるか聞こえないかと言う囁きで告げる尚也。
 二人は今、新一を左に男を右に見られる通路に隠れるように立ち、彼らの会話が聞こえるように声を潜めていた。

 蹲った男からおよそ三メートルほど離れた場所に落ちている黒いものが拳銃であることに気付き、快斗はドクリと嫌な鼓動を鳴らす。
 それはどちらが持っていたものなのか。
 おそらく男の方だろうが、どちらにせよ危険であることに違いはない。

 思わず体が動きそうになった時、大気を震わせるような凛とした声に快斗の意識はぐいと惹きつけられた。

「――観念して下さい」

 低く重く、それでいて清々しいその声は、たとえるなら冬の海のようだった。
 冷たく凍ったそれはまるで無慈悲な神のようで、けれどそれこそが自然の摂理なのだと知る人は知っている。
 彼の声に含まれているのは感情ではない。
 たとえるならそれは――真理。
 誰も否定することのできない、絶対的真実だ。

「貴方は二つ、ミスを犯した。ひとつはこの場に来てしまったこと。もうひとつは、この場に僕がいることを知らなかったことです」

 新一が何を言っているのか、快斗には見当もつかない。
 けれど、拳銃を手にしていた相手に怯むどころかその相手を呑み込むこの圧倒的な存在感こそ、彼の隠していたものの正体であることはもう疑いようがなかった。

「何を証拠にそんな言いがかりを…!」

 その動揺の現れこそが新一の言葉を肯定していることに気付いているのかいないのか、男が上擦った声で半ば叫ぶように言った。
 よくよく見てみれば、彼は右手を庇うようにして蹲っている。
 そして遠く転がった拳銃の反対側、同じく三メートルほど離れた場所には空き缶が転がっていた。
 まさかとは思うが、よもやあれで拳銃を蹴り飛ばしたなんてことはあるまいか。
 けれど、彼の蹴りの見事さを快斗はよく知っていた。
 もしかしなくともきっとそのコントロールも素晴らしいのだろう。
 そして快斗の推測は決して外れていなかった。

「ベレッタM92F…」

 新一の声に男の肩がびくりと跳ね上がる。

「うまく誤魔化したつもりでしょうが、犯行に使われた真の凶器はベレッタM92F――つまり、そこに転がっているそれです。証拠が見たければ警視庁に来られれば見れますよ。もっとも…」

 両手をポケットに突っ込んでいた新一は、そこで右手をすっと挙げた。
 途端、気配はあったのに人影の全くなかったそこは、建物と言う建物、通路と言う通路から飛び出してきた人々で溢れかえった。

「――嫌でも監獄には連れて行かれますけどね」

 わらわらと現れたのは総勢五十人ほどの男たち。
 そのどれもが体格の逞しい厳つい顔をしていた。
 中には先ほど新一とともにいた四人の強面の男たちもいて、彼らは手に手に拳銃を握っていた。
 ぱっと見ただけでは彼らをやくざと見紛ったかも知れない。
 けれど、その中の数人が手にしているもの――銀色の鈍く光る手錠を見て、快斗はそうではないことを知った。

 よくよく見ればどうして彼らは皆が皆刑事だったのだ。

「浅沼章彦、殺人の罪で逮捕する!」

 もう抵抗する気力もないのか、男はあっさりと刑事たちに組み敷かれ、両手に手錠をかけられてしまった。
 両脇から無理矢理起こされ、そこで初めて新一と真っ直ぐに視線を交わす。
 けれどその強すぎる眼差しに一秒と耐えられず、彼はすぐに目を逸らしてしまった。

「あんたは…何ものなんだ…?」

 すっかり気の抜けてしまった男が、それでも諦めきれないように小さく呟く。
 すると新一はひどく華やかな笑みを浮かべて、まるで内緒話でもするように人差し指を口元に宛って言うのだ。

「Need not to know――知る必要のないこと、ですよ」

 新一の笑みに呑まれた男は返す言葉もなく刑事たちに連れて行かれる。
 いつの間にかパトカーまで近くに止められていて、どうしてこれで気付かなかったのかが不思議なくらいだった。
 あのぴりぴりとした空気は何十人もの刑事たちのせいだったのだと快斗は今にして気付く。
 男を乗せたパトカーが颯爽と走り去ると、すぐに制服を着た警官がやって来て現場検証を始めた。
 拳銃は証拠として確保され、新一が蹴っただろう空き缶もちゃっかり確保されている。

「工藤君!」

 と、狭い広場いっぱいにいた刑事たちもばらばらと各自の仕事へと戻っていく中、ひとりの中年男が小走りで新一へと駆け寄った。
 ふっくらとした体つきはあまり行動派とは思えないが、山高帽の下の眼光の鋭さは年長者の貫禄を感じさせた。

「工藤君、怪我はないかね?」
「大丈夫ですよ、警部。万事うまくいきました」
「ああ、だが、君が拳銃を向けられた時は冷や冷やしたよ」
「あの男がベレッタを所持しているのは事前に分かっていたことですし、それも計算の内ですよ」
「それならそれでもう少しちゃんとした対策をだな…」

 警部と呼ばれた男は途中から説教のようなことを言い出して、終いには父親よろしくあの工藤新一を謝らせてさえいた。
 すっかり覇気のなくなった新一は叱られた猫のように縮こまっている。
 その姿は先ほどの彼とはまるで別人のようだった。
 たっぷり十五分くらいのお説教の後、ようやく満足した警部が指揮に戻ると、新一はこっそり溜息をついた。
 危ないことをしたという自覚があるだけに――まあそれと同じだけその危険を回避できる自信もあったのだが、警部の小言はいちいちもっともで反論の余地がなかったのだ。
 俄に慌ただしくなった現場からひとりまたひとりと刑事たちが帰っていく。

 ついに出るタイミングを失った快斗が立ち尽くしていると、またも男たちが口々に何か叫びながらわらわらと現れた。
 しかも快斗のいた通路からもやってくるものだから、彼らに押し出されるような形で快斗は広場へと飛び出してしまった。

「大丈夫ですか、工藤さん!」
「生きてますか、工藤さん!」

 格好よかったですよ工藤さん、さすがですね工藤さん、あんたになら俺も捕まりたいよ工藤さん……
 工藤さん工藤さんと連呼された新一が振り返る。
 初めは苦笑を浮かべて彼らを迎えた新一だが、けれどそこに快斗が混じっているのを見るなり大仰に顔つきが変わった。
 何度となく(不可抗力で)彼を驚かしてきた快斗だが、これほどまでに驚かれたのは初めてかも知れない。
 気付けば尚也は当然のように行方を眩ましている。
 これではまるで快斗が自分でこの場に来たみたいだ。
 まあ、もともと来ようとはしていたのだが……
 快斗はあまりの気まずさに視線を逸らしたまま無言で新一の前に立った。
 すると、快斗の背後からぬっと現れた男――松岡厳が如何にも嬉しそうに声を掛けた。

「すまねえな、工藤さん。刑事どもが帰るまでは我慢しろって言ったんだが、この馬鹿どもが聞かなくてな。ま、一緒に出てきてまった俺もこいつらのことは言えねえが」

 くつくつと喉の奥で笑う彼はとても楽しそうだ。
 やくざの組頭だなんて知らなければ、愛嬌のある、それでいて威厳もあるなんとも人好きのする親父だと思えただろう。
 とは言え、そうと知った今も彼を嫌ったり憎んだりする感情など沸いてこなかった。
 初めはあんなに暗く異質な雰囲気に見えたこの界隈も、今ではすっかりその雰囲気が払拭されている。

「…今回のことは本当に感謝してます、松岡さん」

 硬直していた新一はようやく動きを取り戻すと、松岡に向かって深く頭を下げた。

「警察に協力させるような真似、本来ならあなた方に頼むべきではないと分かっていたのですが…」
「おいおい、ちょっと待ちなって!」

 松岡は慌てて新一に頭を上げさせた。

「勘違いしてくれるなよ。俺は警察に手を貸したんじゃねえ。俺の恩人、つまりあんたに手を貸したんだ。あんたの頼みとあらば俺は喜んで何でもしよう。俺たちはそりゃ生き方はうまくないが、大事なものぐらいちゃんと分かってる。こいつらもあんたを慕ってやってくれたことだ。それをあんたに謝られちゃあ格好悪くてなんねえだろ」

 それに俺たちがしたことと言っちゃあ、この場を貸しただけだしな。

 それだけ言うと、松岡は男たちを引き連れて踵を返した。
 駄々をこねる者は「工藤さんにはまだまだやらなきゃならねえ仕事があるんだよ!」と拳を見舞われ強制退去。
 あっさりとした別れではあるが、それは松岡が新一の立場を考慮してくれてのことだった。
 未だ数名の刑事がうろつくこの場所で、万が一にも新一の害になるようなことを彼ないし彼の舎弟たちがしでかすともわからない。
 その万が一を防ぐためにも、本当なら誰より新一を慕っているだろう自身を抑えて彼はこの場を去ってくれたのだ。





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松岡厳氏のモデルが誰かは、恥ずかしいので死んでも言うまい…。