7月のデイリリー
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 やがて騒がしかった現場にもほとんど人の姿が見えなくなる。
 その人影もおよそ快斗と新一しか見えなくなった頃、立ち尽くしたきり何も言わない新一に痺れを切らした快斗が口を開いた。

「…説明、してくれるんだろ?」
「……ああ」

 たっぷり十秒ほどの間を空けて、それでも新一は頷きを返した。

「病弱ってのは嘘?」
「…まあな」
「主治医がいるってのは?」
「…尚也の知り合いで、グルみたいなもんだ」
「もしかしなくても、寮長もグルなんだろ?」
「……ああ、そうだよ」

 快斗が尋問していく内に観念したのか、新一は溜息をひとつ吐くと、自分からぽつぽつと話し出した。
 話を聞く間快斗はひと言も口を挟まず、ただ新一が話し終わるのを待った。
 夜も更けて寮の門限なんて疾うに過ぎていたけれど、事情を知っている寮長が今回ばかりは見逃してくれるだろう。
 有り難いことにどんなに遅くなろうとも街の明りだけは煌々と照っていた。

「俺の家のことは、いくらか知ってるだろう?」

 話はそんな言葉から始まった。

 聞けば、高校入学前はアメリカのロサンゼルスに住んでいた新一は、その頃から随分と好奇心旺盛で活発な子供だったのだと言う。
 工藤の跡取りとして英才教育を受ける反面、趣味で入ったサッカーチームではプロから声が掛かるほど有名だった。
 攻撃と守備の両方に関わるミッドフィルダーというポジションで、フィールド全体を見通す新一の視野の広さはプロ顔負けだった。
 けれど、新一はもちろんプロにならなかった。
 サッカーはあくまで趣味に過ぎず、それを仕事にするつもりはなかったからだ。
 と言ってもそれは新一が工藤の跡を継ぐからと言う意味ではない。

 新一はその頃からずっと――探偵になることを心に決めていたからだった。

 きっかけは単純なものだった。
 ずらりと並んだ書斎の中、その隅にひっそりと並べられていた小説。
 いつも読んでいる分厚い専門書よりずっと軽く、保存状態も悪くてずっと粗末なものだったけれど、新一はすぐにその本に夢中になった。
 一日で全てを読み切り、それでも足りず、明くる日も明くる日も何度となく読みふけった。
 それはもう、シリーズ全作の一言一句違えず暗唱できてしまうほどに。
 コナン・ドイルの生み出した名探偵、シャーロック・ホームズ――
 彼は幼い新一の心を見事なまでに奪ってしまったのだ。

 新一は自分もいずれホームズのような探偵になるのだと疑わなかった。
 与えられる知識は貪欲なまでに吸収し、教師や両親が教えてくれないような知識も本を読み漁っては頭に書き込んでいった。
 もし新一がアメリカにおける飛び級制度を受けていれば、僅か八歳にして超難関と呼ばれるMITやハーバード大学にでも入学できただろう。
 おそらく知能指数だとて有り得ない数字を示したはずだ。
 それほど新一は普通の子供から、そして普通から外れた子供からですら逸脱していた。

 けれど、新一はすぐに現実を思い知った。
 工藤財閥の跡取り――その肩書きの重みから目を逸らすことなど、新一にはできなかった。

 日毎連れ出される、親しくもない人たちの集まり。
 日毎訪れる、自分の肩書きしか目に入っていない大人たち。

「…俺は工藤新一であって、俺じゃなかった。誰も、探偵になりたがってるガキなんか見ちゃくれなかったんだ」

 そう嗤った新一の歪んだ顔が嫌と言うほど自分とだぶって、快斗は思わず顔をしかめた。

 それは快斗にも覚えのある感覚だ。
 周りの誰もが自分ではなくIQ400の天才児を見ていた。
 勝手な想像を押し付けて、勝手な偶像を創り上げて。
 まるで自分は必要とされていないようなその孤独感は、味わった者にしか分かり得ない苦痛。

「それからの俺は、尚也に言わせりゃまるで人形みたいだったらしい」

 探偵となるべく洞察力を培ってきた新一は人一倍目がよかったが、いいことばかりではなかった。
 自分に口上を述べる相手が何を期待しているのかが分かってしまうのだ。
 笑いが欲しければ笑いを、同意が欲しければ同意を、同情が欲しいなら同情を。
 彼らの望む「工藤新一」を演じる新一は、新一をよく知る尚也からしてみれば確かに人形のように見えただろう。

「でも、俺は変わった」

 不意に新一が微笑を浮かべる。
 その、花が綻ぶような笑み。
 男相手に花と言うのもおかしな話だが、確かにこの時快斗はそう感じたのだ。
 その見たこともない穏やかな笑みは、快斗の心臓を騒がせるには充分なものだった。

 その上新一は更に快斗を驚かすようなことを言うのだ。

「俺を変えたのは――おまえの父親だよ」

 ドクリと、心臓が鼓動を速める。
 知るはずはない、けれど彼ならとも思う。

「黒羽盗一は俺にとっての偶像なんだ」

 ああ、やはり彼は知っていたのだ、と。
 懐かしいその名を耳にして、快斗はついにポーカーフェイスをかなぐり捨てた。
 もともとあってないようなそれをこの男の前で被り続けてもあまり意味はない。
 くしゃりと歪んだ今にも泣き出しそうな顔はひどく情けなかっただろう。
 けれどそんな快斗を新一は決して笑ったりしなかった。

 新一と盗一の出逢いは、新一が九歳になったばかりの頃だった。
 工藤の跡取りの誕生日ともなればこれ以上ないほど盛大なパーティーが開かれる。
 各方面で名を挙げた大物たちが大勢招待され、そのひとりひとりに新一は九歳とは思えないほどしっかりした口上を述べて歩いた。
 普通の、或いは礼儀を叩き込まれた名家のものであっても、子供であればこの辺りで音を上げそうなものだが、やはり新一は違った。
 疲れた様子など微塵も見せずに、時には年相応の子供らしく振る舞ってさえ見せながら、終始笑顔を浮かべていた。

 そんな新一に声を掛けてきた紳士が――当時すでに世界的マジシャンとなっていた黒羽盗一だった。

「ハッピーバースデイ、新一」

 ぽんっと目の前に現れた花に、新一は笑顔を浮かべてお礼を言った。
 少し子供っぽく見えるあどけなさで笑ったのは、彼が自分に期待しているのがそれだと思ったからだ。
 新一はもちろん自分の誕生パーティーに父親が黒羽盗一を招待したことを知っていたから、別段そのマジックに驚くこともなかった。

 けれど、彼はマジックとは別の方法で新一を驚かせた。

「君のポーカーフェイスは素晴らしいね。きっと素晴らしいエンターテイナーになれる」

 その言葉には新一も思わず目を瞬いた。

「おや?私が気付かないと思ったかい?外でもないこの魔術師を騙すには、君はもっと修行しなくちゃいけないね」

 気障な魔術師は片目を瞑って不敵な笑みを浮かべる。
 そのたった一瞬で、彼は見事新一の心を掴んでしまったのだ。

 彼のショーが始まるまで、新一は盗一とともにテラスに出て会話を交わした。
 そのほとんどは下らないことだったけれど、そのどれもが楽しくて新一は会話の全てを鮮明に覚えている。
 中でも興味を持ったのが、マジシャンの気質についてだった。

 マジシャンは人を愛する者がなれるものだ。
 それが彼の持論だった。

 マジックは、練習すれば誰でも修得できるものなのだ言う。
 得手不得手はあるけれど、時間をかけて基礎からしっかり学べば、誰でも素晴らしい技術を身につけることができるのだ、と。
 けれどマジシャンになれるのは一部の人だけだと彼は言った。
 マジックはそれを見る人が笑ってくれた時、それを愛しいと思えた時、初めて命を持つ。
 その命をマジックに吹き込み続けることのできる人だけが、マジシャンと呼ばれるのだ。

 それはひどく新一の心に響く言葉だった。
 その話を聞いている間中、新一の心は熱く高鳴っていた。
 マジシャンでなくとも、自分も何かに命を吹き込むことのできるような、そんな人間になりたいと思った。
 そして新一は初めて、探偵になりたいのだという夢を他人に語った。

 盗一は驚かなかった。
 新一が話し終わるまで何も言わずに聞いてくれた。
 そして彼は肯定しない変わりに否定もしなかった。
 新一は――初めて人前で、泣いた。

「あの人は、結局最後まで何も言わなかった。頑張ればなれるとも、夢を諦めちゃいけないとも、そんなことは何も言わなかった。でも――」

 新一が目を瞑る。
 何かを思いだしているのか、高まった感情が溢れたかのようにその瞼が微かに震える。

「その後に見せてくれたマジックが、言葉にならないくらい、凄かった。思わず泣きそうになるくらい、…凄かったんだ」

 それから、彼に会う機会は二度となかった。
 彼自身が世界中から引っ張りだこという人気マジシャンだということもあり、何かを決意した新一が忙しくなったということもあった。
 けれど何より――
 その数ヶ月後に彼がステージの最中に事故を起こし、亡くなったからだった。

「それから俺は自分に嘘を吐くのをやめた。もともと向いてなかったんだ。無茶でもなんでも、我慢するくらいなら、俺は怪我してでもぶつかってみなきゃ分からないんだってことに気付いた」

 いつだったか尚也が「新一と快斗は似てる」と言っていた。
 似てるかどうかは分からないけれど、それでもその言葉は正しいと思う。
 新一はどうしようもなく馬鹿で鈍くて不器用だった。
 ちっとも諦めなんかついていないくせに、分かりきった顔で周りに合わせてただ笑って。
 その息苦しさにも人に言われるまで気付きもしないで。
 そしてどれだけ不器用な真似をしていたのか、ずいぶん経ってから知った。

「でも、俺は工藤新一だ。どうしても工藤の名前から逃れることはできない。生まれた瞬間から、俺には責任が課せられてるんだ。でも勘違いするなよ?彼は工藤の姓を持ったこと、あの人たちの息子として生まれたことに、不満を抱いたことは一度もない」

 夢追う者の我武者らさで夢以外のもの全てをかなぐり捨てることも時には大事だろう。
 けれど、新一には夢以外にも大事なものがあった。
 普段は憎まれ口ばかり叩いているけれど、あの風変わりな両親を新一は確かに慕っていた。
 その彼らを捨てて夢だけを追うことはできない。
 工藤の名を捨てることなど、新一にはとてもできなかった。

 だが、自分の夢を捨てるつもりもさらさらないのだと言ってのけるのが、新一が新一たる所以だろう。

「俺の行いは全て俺の責任だ。逆に言うなら、その責任さえ果たせるのなら、俺は探偵になるという夢を諦める必要なんかどこにもないんだ」

 新一はすっと右手の人差し指を突き出した。

「――親父が出した条件はただひとつ。この三年間、探偵として活動することを許すかわりに、工藤家の人間としてその名を貶めることのないよう、決して工藤家の跡取りだと言うことを知られないこと」

 それは決して容易いことではなかった。
 もちろん、正体不明の人間を捜査に関わらせるわけにはいかないため、一部の警察関係者には素性をばらしてある。
 けれど彼らには決して他言しないよう堅く言ってあるので、この若い探偵があの工藤家の跡取りだと考えつく者はまずいないだろう。
 それでも、腕を認められるにつれ、警察が抱えるジョーカーに対する犯罪者たちの警戒も強くなる。
 ともすればいつばれてもおかしくない状況だ。

 けれど、そこは何と言っても工藤新一、抜かりはなかった。

 まず第一に、余程のことがなければ新一は人前に姿を現さない。
 今回の件は犯人がたまたま男女計三名を殺害した凶悪犯で、しかも拳銃を所持していたため、一刻も早く確保する必要があった。
 そのため新一自ら捜査の指揮に加わり人前に出ることになったのだが、そう言う場合、新一は自らを探偵と名乗ることは絶対にしないし、必ず変装をしてゆくのだ。
 今もその見事な変装はまるでやくざの若頭のように見える。
 それは初めに快斗が抱いた感想でもあるし間違いないだろう。
 そして第二に、情報面におけるあらゆるサポートを、外でもないあの尚也が請け負っているのだ。
 彼の手に掛かれば情報操作などまさに朝飯前だった。

「だが、おまえにばれちまった。本当なら強制送還だ」

 不意に新一が苦い表情で言ったそれに、快斗は首を傾げた。
 新聞で表沙汰になるならまだしも、自分ひとりにばれたぐらいで、どうしてロスにいる彼の両親に知れると言うのか。
 その疑問をそのまま尋ねれば、新一は皺の寄った眉間に更に皺を寄せながら、

「宮野は知ってるだろ?あいつ、親父に言われて帝都に入学した、俺の監視役なんだよ」
「ああ…あの子が…」

 快斗は思いきり納得してしまった。
 どこか普通を逸脱した彼女も新一の関係者だと言われれば納得できる。
 あの冷ややかさ、あの刺々しさは、そんじょそこらのお嬢様、まして普通の女子高生にはちょっと持てない空気だ。

「俺にとって帝都での三年間は執行猶予みたいなもんだ。この期間を誰にもばれずにやり過ごして初めて、ようやくひとつ親父に認めてもらうことができる」

 それもおまえにばれた今は難しくなったけど、と苦い顔をしていた新一は、けれど、と次には再びあの悪戯な笑みを浮かべて言うのだ。

「悪いが俺はもの凄く諦めが悪い。どんなことをしてでもおまえの口を塞がせてもらうぜ?」

 その笑みに快斗はもう降参する外なかった。
 もともと告げる気など欠片もなかった快斗だが、こうまであからさまに脅しをかけられれば従う外ないだろう。
 何より、すっかりこの工藤新一という男に絆されてしまった快斗が今更彼の敵にまわることなど、到底無理な話で。

「あんたには敵わねえな…」

 こう漏らした快斗に、新一は実に嬉しそうに笑ったのだった。





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快斗は新一より弱いのではなく、新一に対して寛容なだけなのです。