ぱたん、と微かな音を響かせて、影がひとつ部屋の中へと侵入する。
 部屋主は眠っているのか、その影の侵入にも気付かずにまだ寝入っている。
 薄暗い室内に聞こえるのは彼の寝息だけ。
 その確かな寝息に快斗はほっとしながら、シーツに蹲るようにして眠っている新一の側へと歩み寄った。


(…嫌な夢でも見てんのかな)


 新一は苦しそうに柳眉を寄せている。
 少しでも気分が和らげば良いと、快斗は新一の絹糸のような細くしなやかな髪を指で梳いた。
 指の隙間からさらさらと髪が流れ落ちる。
 撫でるような感触が心地良いのか、新一の表情から苦悶の色が薄れていった。


「大丈夫だよ。ゆっくり眠って…工藤」


 広すぎるベッドの端に腰掛け、快斗は新一の髪を梳き続けた。
 新一は一向に目を覚まさない。
 人の気配に敏感な新一だから、自分が入ってくれば目を覚ましてしまうのではないかと快斗は思っていたのだが。
 それだけ眠りが深いのか、疲れているのか、或いは……

 と、微かに身じろいで、新一はゆっくりと静かに瞼を開けた。
 薄暗い室内だったが、暗闇に慣れた快斗の目には新一の顔がしっかりと捉えられている。


「…おはよ。起きちゃった?」
「…ぇ…くろ、ば…?」
「うん」


 寝ぼけているのか、新一は驚いたように瞳を瞬いている。
 本当に全く気付かなかったのかと苦笑した快斗だったが、新一の様子が急変し、慌てて笑いを引っ込めた。


「やめろ!やめ…っ」


 新一の体ががたがたと震え出す。
 それを押さえ付けようと新一は自分の肩を両手でぎゅっと抱きしめると、再びシーツの中に蹲ってしまった。
 暗い室内でも見てとれるほど、新一の顔は青ざめている。


「どうした、工藤?」
「…や、やめ、ろ…っ!」
「工藤!」


 一瞬、自分が触れたせいでこんな拒否反応を起こしているのだと思い快斗は体を引いたのだが。
 それでも尚蹲り何かを拒むように言葉を発し続ける新一に、そうではないのだと気付いた。
 新一は快斗ではない何かを拒んでいる。


「やめろ…嫌だ…」


 すでに譫言のようになってしまっている、新一の微かな声。
 震えながらも必死で何かを耐えているような新一をそのまま放っておくことなど、快斗にはできなかった。


「――工藤!」


 必死に体を縮まらせる新一を、快斗はその上から抱き締めた。
 包み込むように優しく。
 繋ぎ止めるように、きつく。
 意識が消えかかっているのか、新一の声が小さくなり瞳が虚ろになっていく。


「工藤!しっかりしろ、工藤!」


 ただ直感的に、このままではいけないと思った。
 このまま意識を失ってしまったら新一が消えてしまいそうな、いなくなってしまうような…そんな感覚に囚われて。
 快斗は抱き締める腕に一層力を込めた。


「くど――新一っ!」


 びくん、と一際大きく体が跳ねて。
 その後は力が抜けるようにして、新一が体を預けてきた。
 まさか気を失ってしまったのだろうかと慌てて新一の顔を覗き込んだが、意志のしっかりした蒼い瞳を見て快斗は安堵した。
 新一はひどく疲労しているようで体がぐったりしているが、あの震えはおさまったようだ。
 肩で浅い呼吸を繰り返している新一を抱き締めたまま、快斗は背中を優しく撫でる。


「…落ち着いた?」
「ああ…悪い…」


 顔を隠すように快斗の首元に額を埋めて、新一はそれまで強く自分の肩を掴んでいた手を快斗の背中へとまわした。
 一瞬驚いた快斗だったが、嫌なわけがない。
 そんな驚きなどおくびにも出さずに快斗は新一のしたいようにさせた。
 力の入らない新一の手が添えるように自分の背中にまわっているのが嬉しくて、快斗はこっそりと笑う。
 首元にかかる吐息の熱さがくすぐったかった。

 しばらく無言で背中を撫で続けていた快斗だが、新一が漸く埋めていた顔を上げたので、快斗は覗き込むようにして新一と視線を合わせた。
 宥めるように、殊更優しい声で快斗が言う。


「どうしたんだ?何があった?」
「…俺、…変なんだ」
「変って?」
「まるで俺の中に、もうひとり誰かがいるみたいで…」
「…どういうこと?」


 汗で額や頬に貼り付いた髪を横に梳く。
 顕わになった額が汗によって冷えてきていた。
 快斗はその汗を自分の袖で拭ってやりながら、催促するわけでもなく新一が話し出すのをじっと待った。
 新一の目はわけのわからない畏怖に揺らいでいる。
 けれど、快斗の紫紺の目とぶつかった時、意を決したようにぽつぽつと話し出した。


「今まではこんなことなかった。なのに、昨日急に…頭の中で、わけのわからない声が聞こえだした」
「その声はなんだって?」
「わからない…ただ、壊してやるって…」


 ひどく静かなゆっくりとした声。
 自分の声と似た、それ。


「どんなに抵抗しても駄目なんだ。まるで俺の中に別の奴がいて、そいつに支配されそうになる」

 支配されては駄目だとわかっているのに。


 混乱と恐怖に呑まれかけている新一の背中を、快斗は優しく撫でて宥める。
 快斗自身その声については何ひとつわからない。
 けれど、自分の声で新一は戻って来れたから。
 もしかしたら自分が新一の助けになれるんじゃないだろうかと、何の確証もないのに快斗は確信していた。


「一瞬だけ意識をとられた時、気付いたら人が倒れてて。俺の着てた服は燃えてるし…そんな、わけわかんねーことになってて…」
「うん」
「そいつに意識とられそうな時は妙に寒くて…誰かに触れられるとひどく寒くなって…」
「うん」
「…だけど」


 俯いていた顔を上げた新一は、まっすぐに快斗を見つめた。


「お前が側にいたら、なんか寒いのどっかいっちまった」
「――え?」
「やけに暖かくて、寒かったのが嘘みてぇ。すげー安心できてさ」

 自分でもなんでかわからねーんだ。


 そう言って新一は苦笑した。
 そしてそのまま新一はこてん、と再び顔を快斗の首元に埋めてしまった。
 その笑みがひどく綺麗で、快斗は無意識のうちに息を呑む。


(…反則だよ、その顔はっ!)


 おそらく新一は無意識のうちに向けたのだろうが、新一に惚れてる快斗としてはそんな笑みを向けられてはたまったものじゃない。
 そのうえ、お前だけは平気なんだと嬉しいことを言われたとあっては。
 まるで感情と理性を猫と鼠が綱引きしているようなものだ。
 それでもなんとか鉄の精神力で高ぶりかけた気持ちを鎮め、快斗は話を続けた。


「で、お前の中のもうひとりの誰かを起こしたのが、あの馬鹿な二等兵ってことか」
「えっ」


 なんで知ってるんだとばかりに新一が瞠目する。


「俺が知らないと思った?安心しろよ、天罰は下しといたからv」
「おま…っ、天罰ってなにしたんだ!」
「んー、骨の一、二本はまあ大目に見て貰わないとね」
「バーロォ、なにやってんだよ!大佐がそんなことしちゃマズイだろーが!」
「何言ってんの、あんなの足りないくらいだよ」


 柳眉を寄せて怒る新一を、怒ってても綺麗だな、なんて思いながら快斗はそっと包み込むように新一の頬に両手を添えた。
 そうして真っ向から見つめる。
 蒼い瞳を、ただまっすぐに。
 まるで余所を見るのは許さないとばかりに。
 呆然と見つめ返す瞳に、ただ真摯な気持ちを込めて、有りっ丈の本気を込めて言った。


「だって俺、工藤が――新一が、好きだから」


 そっと引き寄せて、赤い唇にひとつキスをする。
 触れるだけの遠慮がちなキス。
 触れたのも一瞬だけで、ちゅ、と小さな音をたててすぐに離された。


「お前に手ぇ出した奴を野放しになんかできない」
「くろ、ば…?」
「新一は、嫌…?」


 新一の頬を包んだまま、快斗は顔中にキスをおとしていく。
 額に、鼻先に、頬に。
 瞬きを繰り返す瞳の端にも。
 嫌がられてはいないのか、新一に抵抗する気配はない。


「新一の中のもうひとりの誰かを鎮められるのが俺だけだって聞いて、嬉しかった。新一は俺の特別だから。俺も新一の特別になれたら、すごく嬉しい」
「…黒羽…」
「また新一が暴走しそうになったら、今度も俺が鎮めてあげる。こうやってずっと抱き締めてるから…」
「…くろ、」
「もし俺のこと嫌じゃなかったら、快斗って呼んで…?」


 新一の声を遮るように、もう一度、唇にキス。
 羽のように柔らかく。
 熱情を煽るようなものではなく、ただ溢れそうな気持ちを伝えるために。


(俺を、認めて…)

 新一の中に、俺の居場所をつくって。
 できることなら、この気持ちと同じ気持ちを貰いたい。


 この三ヶ月、ずっと想い続けてきた。
 その想いを漸く伝えた。
 答えを聞くのは怖くて、先を知るのが怖くて、ずっと言えなかった想い。
 新一の言葉を待つ間がひどく長く感じられた。
 きっと一生で一番長い一瞬。

 声を出そうと新一の唇が開かれる。
 耳を塞ぎたいようなこのままでいたいような、そんな葛藤に快斗は襲われて。



「――快、斗…」



 呼ばれたのが自分の名前だとは一瞬わからなくて、けれど次の瞬間には快斗は瞠目すると新一の体を激しく掻き抱いていた。
 互いの呼吸もままならないほどに強く抱き締めて。
 苦しいはずなのに、息もできないほどに苦しいはずなのに。
 力を弱める気にはなれなくて。
 新一も何も言わず、ただ快斗の背中にまわした腕にゆっくりと力を込めた。
 徐々に加わっていく力に、快斗の顔に自然と笑みが浮かぶ。
 胸元まで嬉しさだけで一杯になり、息が詰まった。


「新一!…良いの?俺、調子に乗っちゃうよ?」
「バーロ…嫌だったらとっくにはっ倒してるっての…」


 照れくさそうにぼそりと呟いて、新一はほんのり赤く染まった頬を快斗の首元へ擦り寄せる。
 そこから伝わる熱が心地よくて、快斗は新一の髪を梳きながらその柔らかい髪にもキスをした。

 新一は、自分の髪にまでキスをする快斗に顔を上げることができない。
 どんどん上がってくる体温が何のためか、一番良く知っているのは新一自身だった。
 自分の中に燻っていた気持ちに気付いたのはつい最近。
 最初はただ気の合う、気を遣わなくても良い、そんな相手だったはずなのに、気付いたらそこにいないと落ち着かなくなるなんて。
 そんな気持ちに気付いて新一は戸惑った。
 その感情をなんと呼ぶのかわからずにここまで来て、快斗に言われて初めて自覚した自分が少し情けなかった。

 けれど、それでも。
 どこかでずっと望んでいたものが漸く満たされた感覚。


(…悪くねぇ)


 相変わらずキスをやめない快斗に恥ずかしさが込み上げたけれど、それすらどうでも良いほどに、新一は久しぶりに心底安心することができたのだった。










* * *


 翌日の昼過ぎになって、快斗と新一は二人揃って志保の医療室を訪れた。
 志保にはかなり心配をかけたという自覚があったので、新一は仕事の合間をぬってできるだけ早めに来たのだが。
 開口一番の志保の台詞に、新一は真っ赤に、快斗は苦笑いになってしまった。


「あら、妬けるわね、貴方たち」


 昨夜、高ぶった気持ちのままベッドの住人と化してしまった二人。
 基本的に体力にはかなり余裕のある二人だが、精神的にも肉体的にも低下していた新一の負担は大きかったようで。
 仕事中は気合いで立っていた新一だが、今は快斗に支えられるようにして立っているのがやっとだった。
 快斗はというと妙ににこにこしていて、周りの人たちから怪しまれたほどである。
 人より諸々の事情に詳しい志保にしてみれば、昨夜なにがあったかなど一目瞭然だった。


「お陰様で、志保ちゃんv」
「ええ、黒羽君もご苦労様。昨日、肋三本と腕を折った全身打撲の二等兵が担ぎ込まれたわ。勿論捨てたけど」
「アハハ、ごめんねーv」
「なっ、…快斗!お前、骨の一、二本って言わなかったか!」
「何言ってるの、工藤君。あれだってまだ甘いぐらいよ」
「志保まで…!」


 いつの間にか自分の知らない間にすっかり結託してしまっている志保と快斗。
 その会話の物騒さに新一は思わず眉を顰めたのだった。


「とにかく、心配かけたて悪かった、志保。もう大丈夫だから」
「…ある意味大変そうだけど?」
「…志保っ!」


 冗談よ、と言って志保は楽しげに笑う。
 絶対冗談なんかじゃない、と新一は真っ赤に染まった顔を拗ねたようにぷいっと背けた。
 そんな何気ない行動すら可愛らしく見えて、快斗と志保は思わず笑みを深くする。


「何でも良いけど、用がないならさっさと仕事に戻りなさいよ。私も仕事中なんだから」
「相変わらず容赦ないね、志保ちゃん」
「あら、これでも容赦してる方よ」

 工藤君や貴方でなければ入れもしないわ。


 その言葉が冗談ではないのだと悟ると、二人は苦笑して医療室を後にした。
 新一は来たときと同じように快斗に支えられながら。
 さり気なく腰にまわされた腕を見て、熱々ね…と志保は溜息をこぼす。


「…護衛役、降板かしら。私も服部君も」


 黒羽君がいれば心配ないものね、と志保が呟く。
 あの時、誰が新一に手を出したのかと聞きに来たときの快斗の真剣な瞳は、忘れようと思っても忘れられないだろう。
 薄ら寒くなるような怒りを滲ませた剣呑な危うい光。
 けれどそれが新一に向かうことはないのだと確信できるから、志保は安心して新一を任すことができる。
 おそらく黒羽快斗は自分と同類なのだ。
 志保は自分が、新一が絡めば誰よりも非情になれるだろうことを知っていた。

 それよりも、今気になることは。


「あの時の工藤君の服…焦げてたわよね。でもどこにも火傷なんかなかった…」

 勿論、相手のあの馬鹿な男にも。


 ただのエネルギーの爆発によって気絶させられ、着ていた服だけに影響が出たということ。
 それはまるで……


「まさか、ね」


 確かに彼の瞳は綺麗な蒼をしているけれど。
 彼の御方は綺麗な蒼い瞳を持っていると言うけれど。
 そして、生涯忘れ得ぬ記憶が示唆しているけれど。
 彼は、人間だから。

 自分の体に流れる血とは別の血が流れているはずなのだからと、志保は浮かぶ懸念を無理矢理振り払った。






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漸く終わった、第一章!
快新両思いへの道、終了。
新一、謎いなぁ…大した謎じゃないんだけど。
書きたかったことをうまく書けたかはわかりませんが取り敢えずは一段落です。ふう。