ぴちゃん…ぴちゃん…

 だだっ広い洞窟の中、水の滴り落ちる音が響き渡る。
 一滴ずつだが確実に溶けてゆく氷の微かな音。
 すっと現われた白い影はゆっくり氷へと歩み寄った。
 …不思議と、足音も衣擦れの音すらも聞こえてこない。
 ただ響くのは、溶けていく氷が滴らせる水音のみ。


『なにか良いことでもありましたか?』


 冷たい冷たい氷の中、未だ目覚めた姿を見たことのない彼がうっすらと笑みを刻んでいる。
 口元に浮かべられたそれはひどく楽しげで、そしてどこか危うかった。
 青白い、不純物の一切混じっていない氷はどこまでも透き通り、揺らめくこともなく氷付けにされている彼を写している。
 すらりと伸びた白い手足、色味を帯びていないふっくらとした唇。
 通った鼻梁と意志の強そうな眉が印象的な、まだ少年期を抜けきらない青年。
 しっかり閉じられている瞳を飾るのは、濃く影を落とす長い睫毛。
 そして体を覆い隠すように、絹糸のような黒髪が足先まで伸びていた。


『この数年ずっと貴方の側にいましたが、笑っているのを見たのは初めてですね』


 いや、嗤っているのでしょうか。
 ……人間を。










 剣や弓、鎖や槍……
 様々な武器を手に手に集まった、屈強な体つきの男達。
 硬質なそれらがぶつかり合う音はするが、会話らしい声は全く聞こえてこない。
 ただ硬い表情をした者が次々と集まって来ていた。

 砂漠に取り囲まれたオアシス。
 ここは、人間は足を踏み入れることのできないモヴェールの聖地だった。
 砂漠の真ん中に鬱蒼としげる緑は、森と言って良いほど植物が生い茂っている。
 その森の中心に王の住まう白い砦があった。
 建てられて数百年が経つ砦の白い外壁は生い茂る緑に囲まれているが、汚れなどはどこにもない。
 悠久の時の流れを示すかのようにところどころ裂け目が見えるが、砦としての役目は今も充分こなしていた。
 守るべき光の王はすでに二十年近く不在ではあるが。

 その砦の前の数メートル四方に渡って少し森が拓けている場所に彼らはいた。
 彼らの中のひとり、口ひげを生やした男がずいと一歩踏み出す。
 体に似合わない最敬礼をして、腹の底から響くような怒声で、砦に向かって吠えたてた。


『王、エリさま!お目通りを!』


 まわりに集まる者も皆、拝跪の体で控えている。
 しばらくの沈黙の後、重厚な扉が重々しい音を響かせながら開かれた。


『…特攻部隊長が何用です。それにこの者たちは?』


 凛とした涼やかな声が一喝し、男たちは拝跪したまま息を呑む。
 正式な光≠ナはないものの王族の親類であったがために現王となった、エリ。
 力≠アそ持っていないが王としての手腕に引けはなく、現在のモヴェールを率いているのは彼女の実力である。
 その威厳は本物だ。
 栗色の髪を後頭部でひとつにまとめ上げ、両の耳朶にはエメラルドの飾りが涼しげに揺れている。
 幾重にも折り重なる辛苦の装束に身を包んだ彼女の意志の強そうな瞳がゆっくりと辺りを見渡す様は、思わず見惚れる威風であった。

 彼女の気迫に男は僅かに怯んだが、しかしここで退くわけにもいかないとぐっと拳に力を込めた。


『人国、ヴェルトに光≠りとの情報が有りました。我々はこれよりヴェルトに攻め入り光≠フ奪還に向かいます』
『いけません』
『しかし、王…っ』
『――いけません!』


 王の厳しい一声に、特攻部隊長であるコゴロウはうっと言葉に詰まる。
 有無を言わせない声音に咄嗟に返す言葉もなく唇を噛めば、王は穏やかな、そして絶対の口調で言った。


『情報に踊らされて再びこの地に戦渦の火を放つ気ですか。そもそもその話の真価は確かなのでしょうね。もしそうでないのなら、一切の許可を下しません。あちらから仕掛けてくるのならまだしも、本来戦いを好まないこちらから仕掛けることは、断じて許しません』


 王の静かな声は男たちの士気を抑えるだけの力を持っていたが、しかし、とコゴロウは反論の声を上げた。


『お言葉ですが、王。我らには光≠ェ必要です。そして我らから光≠奪ったのは人間です。私も光≠見た者のひとり、私以外にも光≠見た者がいます。火のないところに煙は立ちません。確かめに行くだけでも価値はあると思います』
『ならば、このものものしい武装は何です』
『我らに闘う意志はなくとも、人間と我らは水と油。身を守る術は必要です。丸腰で尋ねるなど、殺してくれと言ってるようなものだ』
『ですが…』


 王は秀麗な眉をひそめ、口ごもる。
 けれど数秒考えに沈んだ後、


『それは皆の意志ととって構わないのですね?』


 拝跪した男達に投げられた視線の先で、彼らは各々同意の意を表すように頭を垂れてみせる。
 その様子に小さく吐息し、王は言い放った。


『わかりました。では、命じます。特攻部隊長であるコゴロウ、精鋭部隊長であるアキヒコ…貴方たちと、二人が選んだ精鋭十名で向かいなさい。それ以上は許しません』
『有り難う御座います!』


 最後に深く頭を垂れて立ち上がると、コゴロウは集まった男達をひきつれてその場を去った。
 もとよりこの申し出に許可が下りるとは思っていなかった。
 武器を手にした彼らは言うなれば意思表示の意味で出向いてもらったのだ。
 森に住む男手という男手を皆集めての懇願であれば、もしかすれば…と思った。
 そして結果は、完全許可とまではいかないものの計十二名の許可が下りたのだから上々である。
 彼らは今から別所で、コゴロウとアキヒコによって残りの十名を選出しなければならない。

 男たちが去った後、砦の前は先ほどと打って変わってしん…としていた。


『まさか…そんなことが、あるのかしら…』


 再び重々しい音を響かせて閉じた扉を背に、エリは顎に手をかけ何事か思案しながらひとりごちた。
 その様子は一国を治める王、と言うよりは、ひとりの女として佇んでいた。
 ひとりの、親愛する前光≠フ王、ユキコの友人としての彼女が。


『外が騒がしかったようですが、どうかしましたか?』


 突然聞こえた声に、エリははっと振り返る。
 誰もいないだろうと思って呟いた言葉は、誰にも聞かれてはならないものであった。
 まさか聞かれていないだろうか…?


『――キッド。気配を消して近づくのはやめなさいと言ったでしょう』
『ああ、すみません。癖みたいで』
『仕方ないわね…そうするように言ったのは私だもの』
『おかげで役立ってますよ。ところで、何だったんです?』


 キッドと呼ばれた青年は全身が白で包まれていた。
 熱線と砂をよけるために頭に巻かれた布。
 幾重にも重なり合う純白の布はモヴェール独特の装束で、キッドはそれを見事に着こなしていた。
 その布の端々からは陽光によって色の抜けた茶色の髪が跳ね、そこから覗く瞳は不思議なアメジストの輝きをしている。
 浮かんだ笑みは凛としていてどこか冷涼な印象を与えるが、その瞳は暖かみを帯びていた。

 エリはこの不思議な青年に絶対の信頼を持っていた。
 他の誰にも知られてない事柄でさえ、彼には知られているのだ。
 たとえば、この砦の地下に存在する空洞に、ぽっかりと浮かぶ巨大な氷の存在だとか。


『…何でもないわ。モヴェールはずっと温厚な種族だと思ってたけど、違うのかも知れないわね』
『戦争でも起こそうと?』
『いいえ…ああでも、同じコトね、きっと』


 いつから変わってしまったのだろうか。
 最後の光の王、ユキコさまが亡くなってからだろうか?
 否、それとも……


『もともと、そんなに変わらないのかも知れないわね。彼らも、私達も』


 こんなに姿も形も似ているというのに。
 忌み嫌い争いあうこと自体、間違っているのかも知れない。










* * *


「新一、そろそろ起きないと」


 腕の中でうーうーと唸る新一の髪を梳きながら、快斗はひどく甘い声でそう呟いた。
 このぐらいの声では新一が起きないのはわかりきったことなのだけれど。
 もう少し、この時間を堪能したい。
 朝に弱い新一は寝起きが悪い。
 それでも毎朝七時の会議には欠かさず出席するのだが、起き抜けの顔はおよそ噂に名高い少佐とは思えないほど幼いのだ。
 完全に覚醒しきっていない新一には殺人的な可愛さがあり、普段よりずっと自然に甘えてくれるのが快斗には嬉しかった。
 だからこの時間は、快斗にとっては幸せを噛み締める大切な一時なのだ。

 不意に、ゆっくりとした動作で絹糸のようなさらさらの髪を梳いていると、新一の手がまるで温もりを求めるように伸びて、背中に腕を回すように抱き寄せられた。
 その上快斗の胸に顔を埋めた新一に無意識に擦り寄られ、快斗はもうこのままずっと眠っていたい衝動に駆られたのだ、が。


「…ん…」
「新一。…サボるか?」


 快斗がその言葉を言った途端、新一はぱっちりと目を開けた。
 その様子に小さく微笑を漏らす。
 どんなに寝起きが悪くても、この言葉を使えば新一は一発で覚醒するのだ。
 だから快斗はいつもこれを最終手段に使う。
 今朝もそろそろ起きなければ本当に遅刻かサボリになってしまうだろう。
 さすがに大佐と少佐がそろって無断欠席ともなると問題だ。
 快斗的には全く問題はないのだが、新一のご機嫌を損ねてしまうことが大問題なのだった。


「おはよう、新一」
「…はよ」


 まだ寝ぼけているのか、背中に腕をまわしたまま新一がにっこりと微笑んだ。
 その笑顔に眩暈を感じ、快斗は思わず新一をぎゅうっと抱き締めた。
 けれど、そのまま一分ほど経過し……
 普段ならこの辺りで抗議が入るのだが、今日はそれがなく、どうした?と腕の中の新一を覗いてみた快斗は慌てた。


「こら、寝ちゃダメだって、新一っ」


 再びうとうとと気持ちよさそうに惰眠を貪っている新一。
 快斗はぺちぺちと手触りの良い頬を叩いて、不機嫌そうにしかめられる顔ですら愛しげに眺めた。
 昨夜はどうやら頑張りすぎたらしいと結論付けて本格的に新一を起こしに掛かる。


「遅刻したら俺のせいにするんだから、ちゃんと起きなって、新一」


 実際は快斗のせい以外のなにものでもないのだが、まあそこはおいといて。
 くったりしている新一を抱き上げると快斗はバスルームへと入った。
 新一の服を脱がせて、自分の服も脱いで。
 バスタブの中に二人して仲良く寝そべると、快斗は蛇口をひねって冷たい水を勢いよく流した。
 ざぁっ、と降り出したシャワーに新一が飛び起きる。


「ぅわっ、な、なに…!」


 突然のことに動揺した新一は危うく体勢を崩しそうになったが、快斗が腕の下から両腕を回して新一の体を背後から支えていたため、容易に抱き留められた。
 体を起こすことに失敗した新一はそのまま快斗の胸の中に戻ってくる。
 そうして漸く自分が今どういう状態かを理解した。


「え?か、かいとっ?」
「んv」
「お前何して、…って!」


 振り返った先に快斗の裸がある。
 更には見下ろした先にも自分の裸がある。
 そのことに気付いた新一は、途端――真っ赤になった。


(お。まぁだ恥ずかしがるかね、このヒトは)


 新一が真っ赤な顔を勢いよく両手でばちんと挟む。
 その様子はさながらムンクの叫びのようで、未だに初々しい恋人に快斗は浮かぶ微笑を堪えることはできなかった。
 けれど自分から離れようと暴れ出した新一を快斗は思いきり抱き締めると。


「おはよって言ってくんないの?」
「お、はよ…」
「おはようv」


 快斗は腕の中で丸まって顔を背けている愛しい人の頬にキスをして、水がお湯になるように温度を調節した。
 寝ぼけていた新一を起こすために冷水を浴びたのだが、いつまでも浴び続けていると今度は風邪をひいてしまう。
 そうして快斗と漸く覚醒した新一は二人で暖かいお湯に浸かった。
 備え付けてある、大佐のご要望で特別造られた簡易キッチンで快斗作の朝食を平らげ、濡れた髪を乾かして、乾かして貰って。
 いつもより少しだけロスした時間を取り戻すために、いつもより少しだけ慌ただしい朝を過ごす。
 それから二人はクローゼットにかけてある二人分の制服をそれぞれ着込み準備を整えると、大佐室を後にした。

 快斗と新一が相思相愛の仲になって数週間。
 すでに少佐室は無人の部屋となり、変わりに大佐室には同居人がひとり増えた。
 結局快斗の思惑通り大佐室の住人と化してしまった新一だが、独りになりたい時や喧嘩した時など、緊急避難場所程度には少佐の私室も活用中であった。





 なんとか遅刻せずに済んだ、早朝会議。
 その日も普段となんら変わりなく、なかなか平穏そうな日常の始まりのように思われた。
 実際この時点では何も不穏なことはなく、変わりがあると言えばいつもシャキッとしている少佐がどことなく気怠そうにしているぐらいだった。


(あぁもう新一ったら、それじゃマスク被ってたってマルワカリだよォ…)


 会議なんてそっちのけでまるで聞いてない快斗だが、けれどその優秀な頭脳には必要なことはしっかりと書き込まれていく。
 気怠げに椅子の背へと体を預けている新一の姿を横目にとらえながら、落ち着かない朝の会議の終わりを待っていた。

 新一は今、素顔こそ見せないが、気を許している同僚にだからこそ気を張っていない。
 おかげで隣に座した高木中尉なんかはいつもと違う新一の様子をチラチラと気にしていたりする。
 高木中尉にしてみればどうしたんだろう?程度のことなのだが、快斗は落ち着いてなどいられなかった。


「ということで宜しいでしょうか、大佐?」
「ああ、構わない。有り難う、沢口中佐」


 その挨拶を皮切りに会議は終了となった。
 各自資料を手に、大佐に向かって敬礼すると、それぞれの仕事場へと移る。
 最後に会議室に残ったのは快斗と新一だった。


「大丈夫、新一?」
「へーき。ってかおめー、ろくに話も聞いてなかったクセにあんな返事して良かったのかよ」
「ん?俺を誰だと思ってんの。新一に全神経向かわせてても聞き漏らしたりなんかしないぜv」

 なんなら会話を再現してみせようか?


 そんなことをのたまった馬鹿高い頭脳を誇る大佐に溜息し、新一も椅子から立ち上がった。
 慌てて支えに来ようとする快斗をマスクの下から睨み付ける。
 見えないはずなのにそれだけで伝わった快斗は途中で動きを止めた。


「仕事中は俺は少佐だって言っただろ」
「…わかってるよ。けど、俺の責任でもあるからさ…痛くない?」
「…ッ!」


 耳元に唇を寄せて低く呟いた快斗を凝視して、新一は自慢の蹴りを快斗の鳩尾へと見舞った。
 ほとんど条件反射のように繰り出されたそれは流石の大佐にも回避不能だったようで、快斗は思い切り喰らってしまった。
 快斗は痛みに腹を抱えているが、新一は振り向きもせずにスタスタと歩き出す。


「ちょ、新一…いったぁ〜…」
「工藤少佐!」
「…少佐」
「よっし、シゴトだシゴト!」


 働くぞ!と声をかけて出て行ってしまった人の、仮面の下の赤いだろう顔を思い浮かべて、快斗はそっと微笑を深くした。






BACK TOP NEXT

漸く再開、第二章。
えっと…期待(?)に答えられるかわかりませんが精一杯頑張ります。
第二章は“光”編で御座います。
いきなりキッド登場v
当初と設定のイロハが変わりましたがご勘弁。