「なん、で、今…、見つかるんだよっ」


 大将に頼まれたデータ処理をしている途中。
 快斗は、四年の間ずっと探していた資料を見つけてしまった。
 その情報が知りたくて、快斗は今ここにいる。
 その情報が知りたくて、十四支部に配属されることに拘った。
 全てはこの情報を知るためであり、快斗はそのためだけに軍に入隊した。

 けれど、できるなら。
 今は見つけたくなかった。
 今知るには、快斗は現状に愛着を持ちすぎていたのだ。

 鼓動が早く打ち付けている。
 快斗は選択を迫られていた。
 愛しい者を選ぶか、己の信念を選ぶか。


「――新一…っ」


 こんな俺を、きっとお前は許さない……。










 覚束ない足取りで快斗は資料室を後にした。
 見つけた資料には端から端までくまなく目を通した。
 全ての情報は快斗の頭の中に組み込まれた。
 後は、快斗がどう動くか。

 ほんの数ヶ月前までなら何も迷うことはなかった。
 今まで生きてきた半分以上の年月を、ただこのためだけに生きてきたのだ。
 幼い頃に掲げた絶対の信念を曲げないために、快斗は動かなければならない。
 けれど今、快斗には守りたい者が、愛する者が、いる。
 工藤新一という、魂の片割れが。
 もし快斗が己の信念を選ぶとすれば、それは同時に彼を――争いを誰より憎む優しい新一を傷付けることになるだろう。

 快斗はすぐに決断することができなかった。
 決心がつかぬまま、どこへともなく歩いている。


「黒羽大佐」


 ふと快斗の足が止まった。
 聞こえた声はまるで知らない声だというのに、なぜかひどく気に掛かる。
 快斗は声の方へと向き直り、そこに見た人物をやはり知らないと思った。
 ――けれど。
 どこか、懐かしさを覚えるのはなぜだろうか?


「…貴方は?」
「失礼。初めまして」


 ブラックカラーのシックなスーツをびしりと着こなした、端整な顔立ちの紳士。
 別段背が低いわけでもない快斗だが、それでも彼の方が快斗を上回っているようだった。
 丸縁眼鏡の奧の瞳が悠然と見つめてくる。
 彼は隙のない身のこなしですっと手を差し出すと、口元に笑みを浮かべながら名乗った。


「私は工藤優作という者だよ。息子が、世話になってる」
「!…しんいち、の?」
「ええ」


 確かに、言われれば面差しがよく似ている。
 母親の血をより濃く受け継いだ新一だが、こうして優作と見比べれば彼ともまたよく似ていた。
 快斗は表情を引き締めて新一の父親だと言う工藤優作≠見つめた。

 工藤、優作。
 ヴェルトの頭脳であり国王と同等の扱いを受ける影の人物。
 その国政能力は国王を遙かに凌ぎ、もしも彼が国王であったなら或いは国家統一も夢ではないだろうと言われたほど。
 だが普段、一国を左右しかねない彼の存在は最高機密として隠されている。
 工藤優作は王室お抱えのただの学者であり、気ままに研究を行う昼行灯なのだ。

 快斗自身、新一に聞かされるまでは学者である優作こそ知っていたがそれほどの要人だとは知らなかった。
 そんな男が、今、なんとも言い難い絶妙なタイミングで現われた。
 快斗でなくとも何かあるのではと疑ってしまうのは当然だろう。


「私に何か御用ですか?」


 自然と硬い声音になる。
 対する優作は、別段気にする風もなく相変わらずの悠然とした笑みを向けた。


「息子と話をしたんだろう?」
「…?」


 優作は何を言いたいのか、快斗にはわからなかった。
 話とは何のことなのか。
 大体にしてなぜ彼はそんなことを聞くのか。


「快斗君」


 と、黙り込んでしまった快斗の名を優作は静かに呼んだ。
 鼓膜に木霊する不思議な声。
 ふいに既視感みたいな感覚を覚え、快斗は狼狽えた。

 自分は以前、彼にこうして呼ばれたことがある?


「あの子に過去を聞かれた。違うかい?」
「…なぜ、それを?」
「私が、あの子に聞けと言ったからだ」


 快斗の瞳に剣呑な色が浮かんだ。
 早鐘のように打っていた鼓動がしんと静まる。
 思考が冴えていく。
 自分でも驚くほど硬く冷えた声で快斗は言った。


「それはつまり、貴方は知っているということですか?」

 …俺の過去を。


 そうでなければそれを聞けと新一に促す理由がない。
 あの時、新一はあんなにも不安そうにしていた。
 不安に揺れながら、それでも受け止めたいのだと。
 そう言っていた。
 その心をただ嬉しいと感じ、だからこそ快斗も色々なことを新一に話した。

 けれどもし優作からすでに快斗の過去を聞いていたのなら、だからこそ話せと新一が言ったのだとしたら。
 快斗は――信頼されていないということだ。

 けれどそんな快斗の疑心を読みとったかのように優作は言った。


「私は確かに知っているよ。だが、新一は違う。あの子は何も知らない」


 驚き僅かに瞠目した快斗に優作は苦笑した。
 確かに優作から告げることは簡単だったし、その方が話も早かっただろう。
 けれどそれでは意味がないのだ。
 それは快斗から新一に伝えなければならないことなのだ。
 快斗にとって新一が、新一にとって快斗が、運命を共有しようと選んだ存在ならば。


「君は話さなかったんだね…」


 快斗の肩が微かに揺れる。
 ほんの些細な反応だったが、肯定するには充分な反応だった。
 それだけでわかってしまった。
 快斗の抱えるものの大きさも、快斗の新一に対する気持ちの大きさも。
 だからこそ、おそらくまだ迷っているだろうことも。


「何も君を責めてるわけではないよ?」
「…なら、どうして?」
「確かめておきたかった、というだけさ…色々と」

 大事な息子に関わることだから。

「君は――本当に望むものを選びなさい。選んだら、決して迷ってはいけない。あの子ならわかってくれる」


 優作の言葉に息を呑み、けれど、と快斗は首を横に振る。


「新一は優しいから…俺が信念を貫けば、あいつはきっと許さない…」
「君が中途半端な心でそれを成そうと言うのなら、確かにあの子は許さないだろう。だが苦悩の末に出した結論であればそんなことはない。
 たとえ君がどちらの道を選ぼうとも、新一は君を受け止める」


 快斗は顔を歪め、そのまま俯いてしまった。
 爪が食い込むほど強く握りしめた手が白い。
 何か言おうと口を開くのだが、うまく言葉にできずに口唇を噛み締める。
 咽はカラカラに乾いていた。

 快斗は何度かそれを繰り返したあと、漸く掠れた声で言った。


「どうして、そんなことを言ってくれるんですか…?」


 何かを思い出すように、優作の目に昏い色が滲む。
 だがそれもほんの一瞬のことですぐにいつもの落ち着いた笑みが戻る。
 俯いていた快斗がそれに気付くことはなかった。


「私自身、身に覚えのある感情だからだ」
「…あなたが?」
「私は諦めてしまったけどね。あまり良いことではないよ。行き場のないやるせなさがずっと心に蟠ってる。君には、そんな思いをして欲しくない」

 だから、たとえそれがどんなものであっても、自分の気持ちには正直でありなさい。


 それだけ言って優作はくるりと踵を返した。
 快斗もまた、そんな優作を呼び止めようとはしなかった。
 無言でその背中を見送る。
 快斗の心は今、最後の決断を下そうとしていた。

 新一が大好きだと心が叫ぶ。
 どんな顔だって大好きだけど、喜び笑っている顔は特別に大好きだ。
 哀しませ泣かせるようなことはしたくない。
 傷付け苦しませるようなことはしたくない。

 けれど――
 快斗の心は決まった。

 このまま何も成さなければ、優作の言うように快斗はきっと解くことのできない蟠りを心に抱えることになるだろう。
 心から笑えない。
 心から喜ぶことができない。
 …心から新一を愛することが、できない。
 だから。


「俺は――お前を守り、これを貫く」


 選ぶことなどできるわけがない。
 今を共に生きる新一と、今までの自分を造りあげた過去と。
 どちらがより大切かなど、快斗にわかるわけがないのだ。
 だからこれは、どちらも棄てられない者の欲張りな選択だった。
 けれど、それが快斗にとって漸く導き出された唯一の真実だから。
 快斗が望んだものだから。

 すでに日が傾き暗くなった回廊にぽつりと佇んだまま、優作の消えた道を見つめる快斗はゆっくりと頭を下げた。










* * *


「朝からやっとったっちゅーのに、元気そうやな、工藤…」


 服部は壁にもたれて首を伝う汗を拭いながら、今更言ってもあまり意味のない愚痴を吐いた。
 自分たちの体力差は今に始まったことではない。
 今までも幾度となく思い知っている。
 とは言え、昼前から稽古に顔を出した自分が朝の四時すぎから剣を振るっていた新一よりもばてているなんて、あまり認めたくない服部だ。
 しかも新一は未だに空気を相手に剣を振るっている。


「何があったんか知らんけど、何かあったんやろなぁ」


 まるで全てを忘れるかのようにこうして新一が剣を振るい続けることは、今までにも何度かあった。
 理由を教えてもらったことは一度としてないが、服部は偶然に一度だけその理由を聞いてしまったことがある。
 ひとりの成人したモヴェールの男が軍人養成学校の訓練所に攻めてきた時のことだ。
 怒りに猛狂ったその男は、わけのわからないことをわめきながら誰彼構わず襲いかかった。
 その時立ち会った数人の監督はその男に向かって容赦なく斬りかかった。
 応戦しなければまだ成長途中の兵士が全滅させられてしまうのだから当然だ。
 だが、至る所に傷を作りながらも暴れる男をまるで庇うように――新一は立ちはだかった。
 そして当時すでに抜きんでた実力を持っていた新一は監督の攻撃を難なくいなし、傷だらけの男の手を引いて訓練場を飛び出したのだった。

 その後のことは詳しく知らないが、とにかく新一は無事戻ってきた。
 どうしたんだと監督に詰め寄られても黙りを決め込んで、新一は結局何ひとつ教えなかった。
 けれどその直後、服部は見てしまったのだ。
 小さな血まみれの帽子を握りしめ、ひとり黙祷を捧げる新一の姿を。

 男は何に怒ったのか。
 その怒りの原因を新一はどういう経緯で知ったのか。
 それは誰にもわからないし、新一に問うつもりもなかった。
 ただ、おそらく感じただろう、やり場のない哀しみ。
 まるでその哀しみを振り切るように、あの時も新一は夜までずっと体を動かし続けていた。

 振り切らなければならなかったのだろう。
 新一がなろうとしているのは軍人であり、人の命を奪うのが仕事なのだ。
 この世の中、綺麗事ばかりでは決して生き延びていくことはできない。
 どうあっても血は流れる。
 言い換えるなら、人は血を流さなければ生きていくことができないのだ。
 けれど、それではあまりに哀しすぎるから。
 少しでも血を流さずにいられる時間を長く維持するために、新一は軍人になることを決めたのだ。


「…ひとりで踏ん張らんかて、俺らがおるのに」


 確かに力は弱いかも知れないけれど、人の心≠ニは時に何よりも強い力の源になりうるのだ。


「それに、心配せんかて黒羽大佐やっておるんやから。そう簡単に人の血は流れへんで?」


 誰かが血を流さなければいけないのなら己の血を、と。
 人の分まで傷付こうとするのだから見ていられない。
 手を貸さずにはいられないのだ。
 それはきっと自分だけが感じるわけではないだろうと服部は思う。
 その腕に抱えきれない人を、たとえ銜えてでも拾い上げようとただひたすら走る男に、手を差し出さずにいられる者がどこにいるのか。
 そんな服部もまた、その男のためなら自分が血を流すことを厭わないのだ。



 けれど、服部は自分の間違いを知らない。
 快斗が己の信念を貫くため――その手を振り払おうと心に決めたことを。

 この地に憎しみしか抱くことのできない己のために新一が傷付くというなら、自らその手を振り払ってしまおうと、そう心に決めたことを。






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……………。
ゴメンネ、快斗。
もともとの予定とは言え、ちょっと快斗には痛い話です、最終章。
でもまだまだ痛いかも?汗