階段のあたりからばたばたと聞こえてくる慌ただしい足音に、志保はふぅと溜息を吐いた。
 今はまだ昼時だから兵士のほとんどは基地か訓練場にいるのでこの施設にいる者は少ない。
 加えて言えば志保の医療室に出入りできる者は酷く限られているのだ。
 こんな外れまで急患が運ばれてきたとは考えにくいので、訪問者は志保に用事があって訪ねてきたのだろう。
 本部に移転したという新一がここにいるはずがないし、第一彼はこんなに慌てたりはしない。
 黒羽大佐も新一同様、優作においても勿論のこと、第一彼が訪ねてくることなど滅多にない。
 考えるまでもなく誰であるかはわかりきっていた。


「…もう少し貫禄つけないと昇進できないわよ、服部君」


 誰が戦場で取り乱す上官などに従うというのか。
 まあそれが彼らしさであり志保の気に入っているところでもあるから何とも言えないのだが。
 できれば扉は壊さないで欲しいわね、などと暢気に考えていると、件の人物服部平次が勢いよく部屋に飛び込んできた。


「ドクター…!」


 肩を忙しなく上下させている服部の顔色はそうと見て取れるほど青ざめている。
 何かただごとではないことが起きたのだと志保はすぐに悟った。
 服部は少々抜けているところもあるがもとはしっかりしているし、大袈裟な態度を取ることはあっても多少のことでここまで取り乱したりはしない。


「何事?」


 志保の瞳がすっと眇められる。
 服部がここまで動揺する原因など聞かずとも、ただひとり――新一のことでしか有り得ない。
 同じくこと新一においてだけは慎重な志保は僅かに表情が強張るが……


「工藤がっ、工藤がオールに殺されたって…!」


 予想もしていなかった、けれどある意味では最も恐れていた事態に志保の顔は一瞬にして絶望に染まった。

 新一が、殺された。
 その言葉はまるで壊れた機械のようにぐるぐると志保の脳髄を巡っていた。

 転属命令が出て新一が本部に向かったことはもちろん知っていた。
 本部から遠く離れたこの支部に情報が遅れて通知されるのも仕方ないだろう。
 けれど、なぜ、そんなことになったのか。
 本部に向かったはずの新一がなぜオールに殺されたのか。


「さっき本部から連絡があったらしくて…司令塔は今、大騒ぎなんや!」
「司令塔――そう、黒羽君は?…黒羽君はどうしたの!」


 志保は震える手で服部に掴みかかると、憎悪すら孕んだ瞳で睨み付けた。

 あの男は新一を守ると言っていた。
 どこからくるのか知らないが、その言葉には絶対の自信があった。
 そして他でもない新一が彼を認め彼を慕い、ともにいることを望んでいたから。
 だから、彼ならきっと大丈夫だろうと安心して任せてしまった。

 ――なのに。
 やはり任せるべきではなかったのだ!


「大佐やったら今本部におるわ。工藤が転属したん聞いてすぐ飛んでったらしいねんけど、そん時にはすでに工藤はオールの捕虜になっとったらしくて…」


 そして昨日、工藤少佐はオールに囚われたまま処刑されたのだと本部から弔報がまわってきた。


「そんな…、工藤君が死んだという証拠はっ?」
「…あいつの…軍服と仮面、それから剣が…オールから送られてきた、って…!」
「そんな、そんなことって…」


「新一は死んでない」



 掠れた声が今にも絶叫に変わろうとした時、その声が聞こえてきた。
 突如として視界に入ってきたその姿に志保が固まり、服部が背後を振り返る。
 こんな軍事施設に出入りするにはおよそ似つかわしくない格好でそこに佇むその人は……


「優作さん!」


 重なったその声ににこりと微笑み、優作は何事もなかったかのようにゆったりとベッドに腰掛けた。
 二人は慌てて彼に詰め寄る。


「工藤が死んでないて、どうゆうことですかっ?」
「彼は生きてるんですか!」


 鬼気迫る二人を優作はまあまあと宥めながら彼らの頭をぽんぽんと撫でる。
 そしてあくまで穏やかな口調で言った。


「心配をかけたね。連絡が遅くなって悪かった。だが安心すると良い、新一は生きてるよ」
「ほん、ま、ですかっ?」
「ああ、私の信頼する魔女殿からの情報だから間違いないよ」


 これは紅≠統べる魔女の遠見によって得られた情報だ。
 彼女はただひとつ未来を予知することだけは不可能だが、遠見をしたり空間をねじ曲げ遠い地を繋ぎ合わせたりすることができる。
 そうやって見つけた新一は確かにしっかりと生きていた。


「私は彼女のように不思議な力は持っていないからあの子が何をしたいのかわからないが、とにかく生きてることは確かだよ」


 そう言い切った優作に志保と服部は漸く胸を撫で下ろすことができた。
 けれど安堵し顔を見合わせる二人に、そこで、と優作が話を切り出す。
 何もわざわざ新一の無事を伝えるためだけにここまでやって来たわけではない。
 紅の魔女に空間をねじ曲げてもらってまで訪ねてきたのは重要な用事があってのこと。
 そう、それも早急な。


「志保、君に頼みがあるんだ」
「私に…?」
「そう。これは君にしか頼めない。本当なら服部君にも同行願いたいところだが、こればかりはどうにも無理だ」


 服部が訝しげに眉を寄せる。
 志保は腕の良い軍医だ。
 軍医の嗜みとして一通りの訓練を受けてはいるが、新一や服部ほどに腕が立つわけではない。
 弱くはないが決して強くもなかった。
 その彼女に頼み事とは一体なんだろうか。
 僅かに表情を引き締め緊張する志保に優作は静かに言った。


「君にぜひ、モヴェールの森まで行ってもらいたい」


 志保の目が先ほどと同じように見開かれる。
 モヴェールの親に棄てられここへやってきた志保は彼らに良い感情を抱いているとは言えない。
 散々嬲ってくれた人間にも同じだけ嫌悪を抱いているが、そんな自分に初めて手を差し伸べてくれたのも人間である優作と新一だったため、信頼の感情は僅かに人間に対する方が強い。
 その志保に、モヴェールに行けという優作の意図は何か。


「モヴェールの森に行って、何を…?」


 思わず震え出しそうになるのを必死に抑え、志保は緊張で掠れた声を出す。
 優作はすまなく思いながらも先を続けた。


「新一が光≠セと言うことは知ってるね?」
「…はい」
「ではアレに双子の弟がいることも知ってるね」
「はい、知ってます」


 だんだんと優作の意図が見えてきた志保はぎゅっと手を握りしめる。


「この戦の最終局面にコナンの力が必要になる。だから、コナンに会って話をつけてきて欲しいんだ」


 傷付き手足が千切れても走ることをやめないあの子を、どうかキッドとともに助けてやって欲しい、と。
 予想と違わぬその願いを、志保が断わることはなかった。










「ほんまに一緒に行かんで平気なん?」


 すでに何十回も聞かされたその言葉に呆れながらも志保は苦笑を返すしかない。
 服部が心配してくれているのはわかっているし、実際どれほど危険かもよくわかっている。
 けれどこればかりは服部の手を借りるわけにはいかないのだ。
 なぜなら……


「貴方は人間よ、一緒にいれば危険だわ」


 モヴェールと人間は相容れぬ存在なのだから、志保のようにモヴェールの血の混じる者ならまだしも、生粋の人間である服部が同行すれば危険度は上がるだけだ。
 そのことについては優作にきっちり説明されたし服部も納得している、けれど。


「せやけど俺だけなんもできへんの、めっちゃ悔しいわ…」


 ぎり、と悔しげに唇を噛む服部に志保はふっと笑みを浮かべた。
 そして――
 その左頬を思い切り捻りあげてやった。


「ひててて!ロ、ロクターっ?」
「情けないこと言わないで。これは私だからこそできることなの。貴方には貴方にしかできないことがあるでしょう?」
「俺にしかできへんこと…?」


 解放された頬を少し涙目になりながら服部がさすっている。
 志保は恨みがましい視線をさらりと無視して尊大に言った。


「工藤君の望みはなに?」


 はっと服部が目を瞠る。
 腰にさしてある剣が急に重みが増した気がしてぎゅっと握りしめた。
 なんだか自分はとことん情けないと顔をしかめる。


「戦争の終結、やな…」
「そうよ。貴方にはその剣がある。しっかり掴み取ってみせなさいよ、平和ってやつを」
「せやな…、任しときっ!」


 どん、と頼もしく胸を叩いて見せた服部に志保は満足そうに頷いて。
 何も持たず、ただ砂漠の砂から自身を守ってくれる布を羽織ると踵を返した。

 新一が望んだもの。
 自らを黒で戒め、死せる者と生ける者たちのために戦を終結させようとしていた。
 そして、平和を掴もうとしていた。
 それは多分今も変わらない彼の望みだろう。
 だからここにいない彼の分まで自分たちが頑張ろうと、それぞれに歩き出した二人は強く胸に誓った。






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漸く志保ちゃん(と服部)を再登場させることが出来た…