――ごめんね。いつか言うから…まだもうちょっと待って欲しい。
――全然構わねーよ。言えるときに言えば、さ。
いつだったか快斗と交わした、そんな遠くもない過去の言葉。
もしあの時無理矢理にでも快斗の口から過去について聞いていたなら、今自分はこんなに辛い思いをしなくて済んだのかも知れない。
夜の砂漠を歩きながら新一はそんな途方もないことを考えていた。
太陽が沈み大地は冷え、昼間の熱波が信じられないほどに今は頬をくすぐる大気も冷たい。
その中を新一は防寒着もなしにただもくもくと歩いている。
以前は快斗の軍服が砂と冷気から守ってくれたが、今はそれもない。
新一の体温はゆるゆると確実に奪われていたけれど、胸の奥で猛る炎があまりに熱いせいか、少しも寒いとは感じなかった。
絶対に、なんとしてもこの戦を終わらせる。
その思いだけがこうして新一を突き動かしている。
離れようと言われ、快斗に拒絶され。
なりふり構わず優作に頼み込み、意地でも快斗と同じ戦場に立つと決めた。
本部に転属し特攻部隊隊長に任命され、そこですぐにオールとの抗争に関わって捕虜として捕えられ……
そして今、入隊以来ずっと辛苦をともにした軍服を棄て、惨状をともに生き抜いてきた剣を棄てた。
自分を死んだと偽ってまで向かっているのは――モヴェールの森。
快斗と離れてからもう随分経つのだと新一はぼんやり思った。
離れても一度として忘れたことはない。
言葉を交わさなくなって、視線を交わさなくなって、…あの熱を感じられなくなって。
もう随分経つのに、この胸の想いは積もってゆくばかり。
「逢いたい、な…」
実際、快斗の顔を見れなくなってからは三日と経っていない。
それなのに新一の心はひどく飢えていて、体に馴染んだあの温度にとても飢えていて。
快斗の側にいられないことがこんなにも辛い。
辛くて辛くてたまらない。
「…でも。この辛さに、俺は耐えていかなきゃなんねぇんだ」
新一はこれからの行動計画のため工藤少佐≠フ存在を世間的に殺した。
正確には工藤新一≠ニいう人間を殺したのだ。
人間であることを棄てるために。
全ては快斗を生かすため、人間として彼の傍らで生きる道を棄て、永遠に隔たれる存在――モヴェールになる。
それはとても簡単な、そして新一にとっては死ぬより辛い選択だった。
ふと、すでに暗くなった夜空を見上げる。
小さな光がいくつも灯り、澄み切った大気に数え切れない星が瞬いている。
なぜか昔から空を見れば落ち着くような気がした。
それでも思うことは馬鹿みたいに彼のことばかりで……
(なぁ、快斗…)
俺が死んだら、涙ぐらいは流してくれるだろう?
* * *
紙のように真っ白な顔色で横たわる人を、佐藤は苦虫をかみ潰したような表情で見下ろしていた。
横たわるその人は若くして第十四支部の指揮官に任じられた大佐、黒羽快斗。
精悍な顔立ちで冷静沈着、時には前線に立ち怒号を上げる雄々しさも併せ持つ青年。
けれど今の快斗にそんな面影はなく、ただ年相応の疲れ切った子供のような顔で眠っていた。
耳にこびり付いて離れない彼の絶叫。
悲鳴にも近いその声を聞き、佐藤は胸の張り裂ける思いがした。
けれど自分は哀しむよりも先になんとかしなければと、思った。
それが彼≠ニの約束であったし、実際に放っておけば快斗が何をしたか、火を見るよりも明らかだった。
あいつを、…きっと無茶するだろうから、快斗を頼みます
そう頼んで背中を向けた彼=\―工藤少佐。
あの時は間違いなく大丈夫だろうと確信できた。
何よりも強く思い合っている二人が、どういう理由かは知らないけれど離れてしまい、それでも尚互いのために体を張っていた。
だから、今はどんなに大変でもきっと大丈夫だろうと信じられた、のに。
「…約束、したじゃないのよ」
ぽつりとこぼれた本音。
頼みを聞くかわりに絶対に生きて還って来ると、約束したのに。
何より、彼のために還ってきて欲しかったのに。
白い、白すぎる顔。
負け知らずの凄腕将校がこんなにも憔悴しきっている。
頭の奧で鳴り響く絶叫は薄れることなく、佐藤は唇を噛みしめるとその部屋を後にした。
「なん、だ、これは…っ」
強張った顔で絞り出すように驚愕の声を上げた目暮総帥を筆頭に、その場にいた誰もが凍り付いた。
ソレを運んできた兵士は深く頭を垂れ、事態の深刻さに戸惑っている。
「先ほどオールから送られてきました、おそらく…工藤少佐のものかと…」
ところどころが引き裂かれ土や血がこびり付き薄汚れたソレは、工藤少佐がずっと身につけていたはずの――軍服。
左腕にヴェルトの紋章、そして胸部に灯籠の刺繍があるため間違いはないだろう。
そしてそれとともに送られてきた仮面と剣。
軍服と同じくぼろぼろのそれらを見れば、それだけで嫌でも彼がどうなってしまったのか容易に想像がつく。
彼は二度とこの地を踏むことはないわ
笑みすら浮かべながらそう告げた、この世のものとは思えない酷薄な美貌と冷たい目をした女に震えが走る。
彼女の言葉の意味するところは、つまり……
佐藤は微かに震える拳をぎゅっと握りしめた。
知らせを聞いた誰もが打ちひしがれる中、けれど佐藤はひとり別の思いを馳せる。
自分が哀しむよりも先に気になったのは快斗のことだった。
何の臆面もなくかの人を愛してると明言した彼が、その人の弔報を聞いて普通でいられるはずもない。
渋面のまま佐藤は快斗へと視線を巡らせたが、意外にも彼は静かに壁にもたれ掛かっているだけで。
(黒羽君…どうしたの…?)
まるで凪のように静かに佇んでいる。
工藤少佐の弔報に打ちひしがれる者たちの中、まるで快斗だけ別世界にいるかのよう。
けれど、佐藤はすぐにそれが間違いであると気付いた。
快斗の瞳の中で昏々と燃える激しい炎――憎悪。
不意に快斗が動き出した。
目暮総帥の手にした軍服を緩慢な動作で取り上げる。
総帥は戸惑いつつも、工藤少佐はもともと快斗の部下だったのだからとしたいようにさせてやるようだった。
快斗は軍服についた傷と血を何度も緩く指でなぞる。
何の感情も表さない顔とは裏腹に昏く燃える双眸。
快斗は次第に俯いていき、ぼろぼろの軍服を抱き締め顔を埋めてしまった。
じっとその光景を見守っている者たちから固唾を呑む微かな音が聞こえてくる。
声をかけることも身動きすることもできず、ただ茫然と眺めているだけ。
たったひとりに向けるたったひとつの想いが、まるで神聖な何かであるようで……
やがて徐に顔を上げた快斗は変わらず無表情なままだった。
けれど新一の黒剣を手に取ると何も言わずに扉へと向かう。
あいつが生きてるなら、頑張れる
不意に佐藤の脳裏に浮かんだ言葉は以前快斗に言われたものだった。
少佐が捕虜に捕られた時、絶望と憎悪に駆られるままに佐藤へ掴みかかってきた快斗。
少佐からの伝言を聞いた快斗は疲れた顔で、それでも笑ってそう言った。
けれどそれは裏を返せば工藤少佐が生きていなければ頑張れない、ということで。
佐藤は慌てて快斗を止めた。
「ちょっと待ちなさい、黒羽大佐!」
佐藤の呼びかけにも全く反応せず快斗はそのまま部屋を後にしようする。
それまで固まっていた総帥も、漸く我に返ると戸惑いながらも快斗を引き留める。
「待て、大佐!少佐の剣をどうするつもりだっ」
それを皮切りに次々と制止の声をかけられたが、快斗はそのどれも聞こえてはいなかった。
今、彼の頭を占めている言葉はただひとつ。
「…て、…る…」
小さく漏れた呟きは誰の耳にも届かないが、聞こえなくとも佐藤だけはそれを正確に理解した。
笑っていた快斗。
恥じらいも臆面もなく少佐が好きなのだと笑いながら教えてくれた。
そして少佐が快斗を頼むと告げた時の、真摯な眼差しの中に一瞬揺れた優しい色。
自分だけが知っている、彼らの深く強い繋がり。
その相手を奪われて、どうして取り乱さずになどいられるだろう。
「待ちなさい、黒羽君!」
呼んでも止まらない快斗に佐藤は掴みかかった。
その場にいた兵士たちが佐藤に倣って次々に快斗にしがみつき、快斗は行く手を阻まれてしまった。
けれど快斗にはそんな彼らも誰ひとりとして目に入らないようで。
「…してやる…!」
「黒羽君!」
「殺してやる、殺してやる、殺してやる――っ!」
いつの間にか快斗は泣いていた。
激しい憎悪に燃えさかる瞳から、透明な雫を幾筋も流していた。
泣きながら、戯言のように呪いの言葉を吐き出し続ける。
黒羽大佐≠ェこんなにも動揺し、増して泣くところなど見たこともない者は、ただ驚いて瞠目していた。
けれど黒羽快斗≠よく知る佐藤だけは決してその手を離さない。
「俺の大事なモンを、あいつらはいつも奪ってく!」
あいつだけは――新一だけは、絶対に守りたかった、のに…!
言葉にならない絶叫が聞こえる気がして、佐藤はたまらず快斗を剣の柄で殴っていた。
無防備な後頭部を強打され快斗はその場に昏倒する。
床に崩れ落ちた快斗を見下ろし、佐藤は荒い呼吸を吐いた。
目が覚めたとき、きっとまた憎まれるのだろうけど。
けれど頼まれたのだ。
快斗が決して無茶をしないよう、貴方が助けてやってくれと。
……今はもういない人に、頼まれたのだ。
約束を違え還ってこなかった彼の頼みを聞いてやる義理はないはずだけれど、それでも佐藤は約束を守るつりでいた。
「ごめんね、黒羽君…」
貴方は望まないのだろうけど。
工藤少佐の最期の願いだから、叶えてあげたくて。
昏倒した快斗に鎮静剤を投与して、兵士たちは一気に慌ただしくなった司令塔へと戻っていった。
佐藤が部屋を後にしたその直後、快斗はすぐに目を覚ました。
頭がぐらぐらして視点は定まらないし体は怠くて思うように動かない。
佐藤に殴られたことはもちろん覚えているが、わざわざ追いかけてまで掴みかかる気力など今の快斗には到底なかった。
そして未だ快斗の腕の中にある新一の軍服。
おそらく佐藤の計らいだろう、取り上げられずにかけられていたそれを快斗はぎゅっと抱き締めた。
見間違えるはずはない。
いつもいつも一緒にいて、自分は誰よりも側近くで彼を見てきたのだから。
これが新一の軍服であるのは間違いない。
仮面も、あの見事な黒剣も、全ては新一のもの。
だからつまり、新一は……
「…んでだよっ」
腕の中の軍服に顔を埋め、体を縮こめるように丸くしてくぐもった声が呟いた。
「なんで、死んじまうん、だよ…!」
この手の中から、大事なものがことごとく滑り落ちていく。
落とさないようしっかりと握っていたはずなのに、どんなに足掻いたところで最後はいつも地面にぶつかって砕けてしまう。
初めは尊敬して止まなかった父王。
王妃、大好きだった国の皆、その国から見える空、小さな感動をもたらすための魔法、そして――
不器用なその手で、それでも自分を求め癒してくれた、新一。
愛してる。
言葉にできない烈しさで彼を想っている。
離れてもずっとただひとり、新一だけを思っている。
側にいられないことは辛いけど、ただ新一が生きていてくれるならとそれだけを思って。
それ以上は何も望まなかった。
――なのに!
「あいつらはいつも奪ってくんだっ」
本部の資料室で見つけた暗号化された秘密文書。
嫌な予感と逸る鼓動を抑えながらその暗号を解読してみれば、父王の暗殺はヴェルト、そしてオールの謀略なのだと知った。
ヴェルトの誰が関わったのかは記されていなかったけれど、オールの現元帥が関わっていることは明確だ。
そう。
シエルの前国王、盗一を暗殺したのはオールの現元帥。
オール、の。
そして今、彼らは新一までも奪ったのだ。
「許さねぇ…殺してやる…!」
快斗は寝台に蹲りながら十一年前と同じ――或いはそれ以上の怒りに戦く躯をぎゅっと抱き締めた。
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