辺り一面、黒一色だった。
家々から垂れ下がる布も、通りに飾られる花も、ずらりと陳列する人々が身につけている衣装も黒い。
一等兵から将校、市民までもが並ぶその真ん中を漆黒の棺が運ばれていく。
それは棺にしてはひどく軽く、中に人が入っているとはとても思えない。
そう――棺は空だった。
今行われているのは葬儀であり、故人はこの十四支部で敬愛されていた少佐である。
けれど故人の遺体がここにはなかった。
捕虜として捕えられていた彼の弔報とともにオールから送られてきたのは彼の軍服と仮面、そして愛用の剣だけで、遺体が国に返されることはなかった。
そして彼の軍服も仮面も剣も全て黒羽大佐が大切に保管しているため、棺におさめられるものはひとつもない。
それでも、ともに埋められるべき主人のいない棺は厳かに運ばれていく。
黒い布で顔を覆った市民の中には涙を流している者も少なくなかった。
それほどに彼の信頼は厚く、彼を敬愛する者は多かった。
人々の列の間を通り抜け、棺は深く掘られた穴の中へとゆっくりと置かれる。
その上に漆黒の花が溢れんばかりに放り込まれた。
この世界に宗教はない。
人々には祈る神がいなかった。
けれど彼らはそれぞれの右手に固く拳を握るとそれを額に強く押付けて祈りを捧げるのだ。
神にではなく故人に、生きる≠ニいう大任から解放された魂が大地へ還り大地によって癒されるように、と。
「…冥福を!」
どこからともなく上がった声に続くようにそこここから冥福を祈る声が響き渡る。
その光景はとても荘厳で、厳粛で、彼の人が生きていると知っている服部ですら、雰囲気に呑まれて涙が流れてしまいそうだった。
誰もが彼の死を悼み、哀しみ、涙を流している。
素顔すら知らない者がほとんどだというのに、それでも彼の死はこんなにも大きな哀しみを生むのだ。
服部は改めて工藤新一という存在の影響力を痛感した。
「――私に?」
「はい。第七支部の千葉中尉という方が面会を求められてます」
「第七…と言うと、南西の大門よね。私に何の用かしら」
少佐の葬儀の後、佐藤は顔見知りの大尉に呼び止められていた。
工藤少佐の葬儀には各支部から大勢の参列者が訪れた。
佐藤はもちろん、本部からは総帥までもがわざわざ葬儀に訪れたのだ。
千葉中尉もそのひとりだった。
その参列者が自分にどんな用事だろうと佐藤は首を傾げる。
まだ少し痛む腹を軽くおさえながら件の中尉が待っている部屋へ向かった。
あれからなぜか妙に静かになってしまった快斗を気にかけながらも、いよいよ始まろうとしている戦に向けての準備に追われる日々を送っている。
佐藤としては快斗を本部に留めて見守っていたかったのだが、お互い支部を任される大佐がいつまでも本部に留まるわけにもいかず、結局快斗は十四支部へ、自分は十二支部へと戻っていた。
別れ際に決して無茶はしないよう忠告はしたけれど、どこまで自分の言うことを聞いてくれるかわかったものではない。
何よりも大事にしてきた存在を失ってしまったのだから平気なはずがないのだ。
扉を開ければ、そこには人がひとり足の高いテーブルにもたれ掛かっていた。
おそらく彼が千葉中尉だろう、佐藤の姿に気付くと少し丸い体を向けて敬礼した。
「初めまして、佐藤大佐。七支部の中尉、千葉と申します。突然呼び出してしまって申し訳ありません」
「いいえ。それより、私に何か用でも?」
「はい、実は…」
千葉中尉が懐から紙を取り出す。
口では変わらず何かとりとめもないことを話しているが、その紙をテーブルに置くとそれを読むよう指で示した。
(…?…なに?)
一体何事だろうと思いながらも促されるまま紙に書かれた文字を追う。
その間にも千葉中尉は話し続けていて、佐藤は適当に相づちを打ちながら、彼の不可解なこの行動にも何か意味があるのだろうと悟った。
おそらく軍部にすら漏らしたくない秘密。
そして、紙に書かれた内容を読み進めるうちに佐藤は驚愕に目を瞠った。
(な、に…国家統一…?)
中尉はペンを取り出すと、横に短く「ご協力願えますか?」と書き加えた。
佐藤はたっぷり数十秒の間俯き、千葉中尉からペンを受け取ると端に小さく「全力を持って」と書いた。
その瞳には涙が滲んでいる。
と、マッチを取り出した中尉の手を止め佐藤は再びペンを握った。
そして小さく……
本当に、工藤少佐は生きているのね?
中尉は、しっかりと頷いた。
佐藤は手の甲で涙を拭うと満面の笑みを浮かべる。
「良かった…!」
少佐が生きている。
生きて、戦をとめるため、今も全力でこの世界のどこかを駆けている。
約束を違えることなく、――彼をひとりにすることなく。
佐藤はすぐにこのことを快斗に知らせてやりたかったが、マッチで紙を燃やしてしまった千葉にそれは駄目だと止められた。
まだ明らかにされていない彼の計画≠フ妨げになってはいけないから、と。
それに佐藤は少し躊躇い、それでも頷いた。
「本部は私に任せて。貴方は支部の方を宜しく頼むわ」
「そのつもりです。どうか、お願いします」
深々と頭を下げて部屋を辞す中尉を見送り、佐藤は思う。
本当に戦が終わるなら、彼らが幸せになれるなら。
シエルの王位継承者である快斗に新王となってもらいたい、と。
* * *
新一の額に右手を翳しながらコナンが問う。
『ほんとに良いのか?』
「ああ」
『もう戻れねぇんだぞ?』
「わかってる」
もう幾度目になるかわからない問答に新一は溜息を吐き、真っ直ぐコナンを見つめた。
その後ろで同じような眼差しを向けているキッドにも視線を向ける。
何も彼らがそんな哀しそうな顔をしなくても良いのに。
心中で呟き、新一は再び溜息を吐いた。
「コナン。もう戻るつもりはないんだ。封印を、解いてくれ」
『でも…』
「わかってる。この間と違って、全ての封印を解いたらもうお前の力じゃ戻せないって言うんだろ?」
以前コナンを返還の氷≠ゥら解放するために意識下で接触した時、新一は今と同じように封印を解いた。
けれどずっと封印してきた力を新一にコントロールできるはずもなく、あの時もコナンが開封した。
だがあの時は幾重にもかけられた封印を少し解いただけで、今回のように全ての封印を解こうというわけではなかった。
だから再び力を封じることができたのだが、今新一がしようとしているのは封印の完全なる開封だ。
新一の力を全て解き放ってしまえば、コナンの力とは比べ物にならないそれを再び封印することは不可能になる。
つまり、新一は一生その力と付き合っていかなければならないのだ。
強大すぎて暴走したからこそ封じられた、その力と。
けれど新一はただ笑って言うのだ。
「大丈夫。もう昔とは違う。今度は上手く扱ってみせるさ」
心配げに揺れる瞳に新一は不適に笑み、ゆるく瞳を閉じる。
やがて諦めたような吐息とともに額へ体へと侵入してくる熱を、静かな心地で感じながら。
慣れない砂漠を歩いてきたため、志保の体力は限界に近かった。
モヴェールのように常日頃から森と馴染んだ体ならまだしも、通常なら馬で渡る砂の道を己の身ひとつで歩いてきた。
疲労も極限まできている。
それでも途中で投げ出すことなど絶対にできなかった。
だから、漸く辿り着いた懐かしい森に安心してしまったのがいけなかったのか……
『止まれ』
ひやりとした何かが首筋に宛われる。
切っ先鋭い短剣だ。
すっと血の気が引き、志保の額を嫌な汗が伝っていく。
志保は、新一が軍に入ると言いだしてからともに体を鍛えてきた。
そこらの女に比べれば剣だって扱えるし体術だってできる。
だが所詮はその程度、戦場で死線をくぐり抜けた経験など一度もない志保の実力など高が知れている。
増して疲労したこの体では背後の男をどうにかできるはずもない。
志保は男に従い動きを止めた。
『見ない顔だ。ここで何をしてる?』
相手が女だからか男の警戒心もさほど強くない。
志保は記憶を辿り、過去に置いてきたはずの言語を賢明に紡いだ。
『…人を、尋ねてきたの』
『誰のことだ』
『…私の大事な人の、双子の弟よ』
顔写真でも持っていれば良かったが生憎そんなものは持ち合わせていない。
幸いなことに志保の言葉がモヴェールのものであったからか、突き刺さるようだった男の殺気は先ほどよりずっと緩んでいる。
とにかく志保は白の砦へと行かなければならなかった。
光≠ェいるとすればそこしかない。
砦は王が棲まうための場所なのだから。
志保は首に宛われた剣に手を伸ばすと、なんの躊躇いもなくそれを掴んだ。
鋭い痛みが走りうっすらと血が滲み出す。
やがてぽたりぽたりと血が滴りだしたが、それでも志保は剣を離そうとはしなかった。
『白の砦へ案内しなさい!私は光≠フ関係者よ!』
男は動くことができなかった。
志保の口から出た言葉に驚いたためでもある。
志保の行動に驚いたためでもある。
けれど何より、その瞳の中に逆らうことのできない何か強いものを感じたためであった。
『こ、このっ』
我に返った男が慌てて剣を引き抜こうとすると……
『――剣を離せ』
志保が目を瞠る。
冬の海を、春の風を、連想させるような凛とした声。
耳に心地よく心に暖かい、聞き慣れた声。
双子の弟だろうと同じ魂を持つわけではない。
志保が彼の声を聞き間違えるはずがなかった。
『無茶してんじゃねーよ、全く…』
現われたのは全身に白を纏った――新一。
長すぎる黒髪をゆったりと結い、額には銀色に光を弾くサークレットを嵌めている。
喪色の軍服を纏っていた頃の彼とは正反対の姿で、けれど以前とまるで変わらない気配の仏頂面を向けられて。
志保は、泣いていた。
「何が、…何が無茶ですって?貴方、私や服部君にどれだけ心配かけたか…、わかってるでしょうっ!」
掴んでいた剣を叩き落とすと志保は新一に掴みかかった。
手の傷は案外に深かったらしく新一の純白の衣装を赤く染めたが、そんなこと二人とも気にしなかった。
「急に本部に移ったかと思ったらオールの捕虜、その次は処刑だなんて!いったい何度私の心臓を止めたら気が済むのよ!」
「ごめん、志保。黙ってて悪かった」
「優作さんから貴方が生きてるって聞かなかったら…!」
志保の心は、志保だけでなく服部の心も、果てのない闇に囚われていただろう。
あの時感じた憎悪は本物だった。
人の心を捕えて離さない無限の闇。
けれど志保をその闇に突き落とすのが新一なら、そこから救い出すのもまた新一なのだ。
「俺は生きてる。だからお前も無茶すんなよ…」
新一は怪我をした志保の手をそっと取ると、両手で優しく包み込んだ。
その手が不意に熱くなる。
物理的な熱さではなく、体の奧からじわりと滲みてくるような熱さだ。
痛みはなくまるで眠りに落ちる瞬間の微睡みのように心地よい。
新一の手の隙間からは青白い光が漏れだしていた。
「…ほんとはあんまり良くないんだけどさ、怪我を治すのは。でもこれは俺が受けるべき痛みだから、特別」
解放された志保の手には血も傷も見あたらなかった。
未だ微睡みから冷めやらぬ鈍さで新一が治してくれたのだと気付く。
志保は茫然と呟いた。
「貴方…こんなところで何をしているの」
「…」
「なぜ、ここにいるの。なぜ、顔を隠していないの。なぜ、…力を、使ってるの…?」
嫌な予感が志保の脳裏に渦巻き始める。
たとえば。
オールの捕虜となったのが不可抗力でなかったら。
処刑されたことすら彼の思惑通りなら。
その慧眼でこれから起こることを見透かし、そのため人間として生きる道を棄てるというなら。
それこそが、今彼がここに立っている理由なら。
「工藤君」
この人は光なのだ。
全ての闇を払拭し照らし出す、光なのだ。
闇に囚われたまま血を流そうとする人々に希望を与える、そのための。
「なるのね――光≠ノ」
それは王の尊称などではなく。
正真正銘の、光。
そのために自らの幸福を棄てなければならないとしても、彼はもうその道を選んでしまった。
悄然と呟く志保に、けれど新一は苦笑を浮かべて首を横に振る。
「違う、そんな大層なもんじゃねぇよ」
そう言った顔は昔と変わらないとても穏やかな笑みなのに。
同時にこんなにも深い哀しみを植えつける。
「俺はあいつさえ生きてれば良い。そう思っちまうぐらい、駄目なヤツなんだ。そんなヤツが光≠ノなんてなれるわけがない」
笑った顔はなぜか泣いているように見えた。
「あいつを生かす方法がこれしかなかった。その結果がたとえ他の人を助けたとしても、俺が想うのはあいつのことだけだ」
「工藤君…」
「こんな不純な理由で光≠ェ務まるはずねぇ。だから俺が王と名乗るのは一度だけだ。俺はコナンの名を借り、この力をもって戦を止める。その後はコナンが王となる。幸い俺とコナンは顔も声もそっくりだ。双子だしな」
「でも、」
「そしたら俺はもう人間でもモヴェールでもない…ただの影≠ノなるんだ」
静かに笑う新一の顔が歪む。
溢れ出す涙が止まらない。
けれどわかっている。
これは自分の哀しみが突き動かす衝動ではなく、これは、泣けない彼の変わりに志保が泣いているのだ。
「モヴェールは光≠フ王の名に懸けてシエルの正当なる王位継承者、黒羽快斗に忠誠を誓う。平和国家の礎となり、人王と盟約を交わす」
光≠フ力を畏れる人間はそれだけで快斗を認める者も多いだろうし、何よりヴェルトの大佐として快斗を知る者なら無条件で認めてくれるだろう。
厄介な上層部の人間は己の力で黙らせてしまえば良い。
そして五つの国はシエルを中心に再形成するのだ。
人間はもう充分すぎるほどに血を流した。
そろそろ学んでもいいはずだ。
偽りではない、本当の意味での平和がどんなものなのかということを。
生命を育む大地のように、海のように。
人々の心が忘れようとそこに在り続ける空のように、新一は世界の礎となる。
そこで快斗が幸福に生きていられるなら、国も王も後のことはどうでもよかった。
「あいつが生きているならそれでいい。おまえや服部、コナンにキッドに親父が生きてるなら、俺はそれでいいんだよ」
志保は涙を止める術を持たなかった。
それを心底幸福だと感じている彼に、誰が、何を言えるのだろう。
それでもこれだけは言わなければならない。
誰よりも新一を理解する者がその勝手を許すかわりに、せめてこの胸の痛みだけは知っていてもらいたい。
それぐらいの勝手は許して欲しい。
「その、今言った人たちがみんな、何より貴方の幸せを願っているのを、…忘れないで」
新一が僅かに唇を歪める。
けれど決して涙は流さずに、志保の体を支えて立ち上がった。
『今日はもう夜も遅い。砦で休んでいくと良い。アキヒコさん、貴方もご苦労様でした』
『いえ、コナン様のお知り合いの方だそうで、失礼致しました』
『しっかり警備をして下さってる証拠ですよ』
申し訳なさそうに深々と頭を下げる男に不服げなところは欠片もなく、志保は新一がもうすっかり彼らの光≠ナあることを感じた。
彼らも新一の魅力に惹かれているのだ。
きっと新一のためならと、自分や服部のように無茶をやってのける者も少なくないだろう。
隣を歩く新一との距離がどんどん広がりやがて消えてしまうだろうことを、志保は心のどこかで感じていた。
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新一さんの目的はこんな感じでした。幼稚な管理人の頭脳なので予想出来た方も大勢居そうだ。。
冒頭の葬式風景はどうしても書きたかったのですよね。
人の死っていうのはひどく曖昧で実感しにくいですが、実感しない間に雰囲気に呑まれて涙してしまうことはあります。
そんな心情をそれとなく書きたかった…のか?